農家の北さん14

「〇〇ちゃん、脱け殻みたいになってるよ?」

 そう話しかけてきた◇◇先輩に泣きついたのは、北さんと会わなくなって二週間が経ったお昼休みのことだった。あれから、彼とは連絡も取っていない。

 仕事中はバタバタしていて少しは忘れられたけれど、北さんのところで撮った写真が出てきたり、北さんフォルダが目に入ってきたりで、結局完全に頭から消去できていない。それどころか、寂しさが襲ってきてしまう。

「せんぱいぃ……! わたし、どうすればいいんでしょう!?」

「北さんと会うのやめたっていうアレ?」

「あれから毎日北さんのこと考えちゃうし、なぜだか寂しいっていうか、北さんどうしてるかなとか……」

「……」

「でも、別れたわけじゃないんでしょう?」

「別れたわけじゃないけど、似たようなもんですよぉ。北さん、元気かなぁ。もう私のこと、どうでもよくなってるかもしれませんんん……」

「〇〇ちゃん、北さんのこと大好きじゃん……」

「え? なんて言いました? 聞こえなかったです」

「……〇〇ちゃんってちょっと天然なとこあるよね。……あ! ねぇ〇〇ちゃん、今度の最初の連休、暇?」

「暇人すぎて予定も何も入ってませんんん」

「ちょっと、待ってて。一件電話してくる」

 ◇◇先輩はそう言うと、どこかに電話をかけながら席を立った。一体どこに電話をかけているのだろう。そうして数分後、戻ってきた先輩は、私にこう言ったのだった。

「18日、朝8時、おにぎり宮さん集合ね!」

「宮さん? どうして……」

「ちょっと手伝ってほしいことがあるの! 作業できるラフな格好で来てね!」

「はぁ……」

 先輩と宮さんによる策略に飲まれているとは知らないまま、私はこくりと頷いた。スケジュール帳の18日のところに『宮さん8時』と書いて、パタリと閉じる。

 それにしても、8時ってずいぶん早いなぁ。何の手伝いだろう。

 そう疑問に思いながらも、また仕事でバタバタする日々が続いて、いつの間にか約束の日が訪れていた。

農家の北さん13

 チュンチュンと小鳥のさえずる声で目が覚める。開けていく視界にうつるのは、昨日の夜私たちが脱ぎ捨てた服たちと、丸まったティッシュの残骸で。それがやけに生々しくって、冷えていた身体が急激に熱を帯びていくのが分かった。

 ああ、また流されちゃった。

「〇〇ちゃん、おはよ」

「おはようございます……」

「なんや、元気ないな?」

 上半身裸のままで私のベッドに寝そべっている北さんを、ちらりと横目で見る。私は急いで下着を身につけて、新しい服に着替えた。

「〇〇ちゃん、もう着替えたん? まだ七時やで?」

「……」

「朝はもう、せぇへんの?」

「しません…っ…!」

「〇〇ちゃん疲れた? ごめんな、がっついて」

「……もう、しませんから」

「〇〇ちゃん?」

「私もう、北さんとそういうことしませんから…っ…」

 ここははっきりと伝えなくちゃいけない。この気持ちが何なのか分からないまま、ずるずると身体の関係を続けるわけにはいかないのだから。

 私の様子がおかしいと分かったのか、北さんの顔が真面目なそれになる。

「〇〇ちゃん、どしたん? 話してみ?」

 そう優しく言われたら、自然と涙がこぼれてきた。止めようとするけれど、ぽろぽろと溢れて止まらない。な、なんで泣いてるんだろう、私。

「な…っ…、どないしたん!?」

「ひっ、えっ、ひっく」

「俺にアカンとこあったなら言うて」

「北さんのせいじゃないんです…っ…」

「じゃあ、なんで……」

「いけないと思うんです……」

 北さんが私のそばに来て、指で涙を拭ってくれる。その温もりが優しくて、ますます涙が溢れてきた。北さんの指が、私の涙で濡れていく。

「わ、わたし、北さんのこと……どう思ってるのか分からないのに、そ、そういうことして……」

「ん」

「申し訳ないし、ますます自分の気持ちが分からなくなって…っ…」

「うん」

「いけないと思ったんです……」

「そか。ありがとな、話してくれて」

「……」

 北さんがそう言って、もう一度私の目元を拭ってくれる。そして私の目を見て、予想もしていなかった言葉を口にした。

「じゃ、しばらく会うのやめるか?」

「え……?」

「言うても、九月の連休辺りには収穫に入っとるから、仕事で会うやろけど」

「……」

「しばらく会わへんやったら、『気持ち』いうのも分かるんちゃう?」

「……」

 寂しい、と思ってしまったのはなぜだろう。けれどもそれが正しいことのような気がして、私はいつものように「分かりました」と彼の提案に乗ることしかできなかった。胸の奥が不気味な音を立てる。

「ほな、また仕事で会おうな」

 そう言って北さんは帰って行ったけれど、昨日の服や歯ブラシは置かれたままで、彼の存在をいやでも思い出してしまった。

 仕事で会うのは、九月の下旬。まだ一ヶ月も先のことだ。

 胸の奥にぽっかりと穴が空いたような気持ちになるのがどうしてだか分からずに、私は脱け殻のような日々を過ごした。

農家の北さん12

 それから私たちは街をぶらぶらしたり、ショッピングをしたり、色々うろついてるうちに夜になって、外で夕飯を食べて帰った。もちろんお酒は飲んでいない。北さんは一杯だけ飲んでいたけど。

 うちに帰り着いた頃には足がくたくたに疲れていて、眠気がどっと襲ってきた。これは、とても夜のイチャイチャは出来ないくらい北さんも疲れてるのでは!? なんて、またそういうことを考えてしまう。

 今日は絶対、しないんだから!

「〇〇ちゃんの部屋、可愛らしいなぁ」

「散らかっててすみません」

「どこが散らかっとるん? 〇〇ちゃんらしい部屋やん」

「もの多いし……。片付けないとなぁって思ってるんです」

「〇〇ちゃん、先風呂入る?」

「お風呂…っ…!?」

「いっしょ、入ろか?」

「いえっ! ひとりで入れますからっ! 北さんお先にどーぞっ!」

「じゃ、今度はふたりで入ろな?」

 はっ、いけない! いけない!

 また北さんに流されかけてる自分がいる。お風呂上がったら、きっと触れられるんだろうなぁ。どう断ろう。断りきれるのだろうか。

 だって、私はまだ北さんのこと好きなのか分からないんだもの。そんな気持ちなのに深い関係になったらいけない。北さんにも申し訳ないし、自分の気持ちがますます分からなくなる。

 そんなことを考えている間に、北さんはささっとお風呂から上がっていた。私も急いでお風呂に入って、念のためムダ毛チェックなんかをしてから、ばーっとシャワーを浴びてお風呂から上がった。

 お風呂から上がると、洗面所に見慣れないものが置いてあるのが目に入った。私のピンク色の歯ブラシの横に立てられた、水色の歯ブラシ。

 し、し、侵食されてる!?

「〇〇ちゃん。俺の着とった服と下着、洗濯機に放り投げたけど、置いとってええ?」

「ひぇ!?」

「今度来た時の着替え用」

「は、はぁ……」

「9月10月は忙しくなるし、あんまし来られへんかもしれんけど」

「そ、そうですか……」

「〇〇ちゃん、おいで」

 狭いワンルームの隅に置かれたベッドに、北さんが腰をおろす。ひょいひょいと手招きされたら、自然と足がそちらへと向かった。

 北さんの隣に腰をおろすと、そっと腕を回された。ぎゅーっと抱きしめられて、私はまた心臓がばくばくしはじめるのを感じる。

 流されない。絶対流されないんだから。

「〇〇ちゃん」

 北さんの指が、私の唇に触れる。目と目が合って、しまった、と思った。なんで目を合わせてしまったんだろう。

 唇が唇に吸い込まれていく。ちゅ、っとリップ音が鳴って、はむ、っと唇を食べられた。自然と唇が開いて、舌先が触れ合う。北さんの手が、私のお腹をするりと撫でた。

「だっ、だめ…っ…」

「あかんの? 俺、したくてしゃーないねんけど」

「えっと」

「あ、出来ひん日?」

「違……、ぁ」

 その手があったか、と思った時には既に遅し。違う、なんて口走ってしまったから、もう嘘はつけない。

「じゃ、ええやん、な?」

「ま…っ…、ひゃぁ、っ」

「〇〇ちゃん、好きやで」

 私は言わない。絶対好きだなんて言わない。

 だって、分からないんだもん。

 北さんは絶対『好き』って言わせる、なんて言ってたけれど。こんな未知の感情に名前をつけられる日なんて、来るとは思えない。

 これまでしてきた『恋愛』だと思ってきたものとは、なんだか全然違うんだもん。身体が熱を帯びて、飛んでいってしまいそうな気持ち。

 この気持ちは、一体なんなんだろう。

 結局その夜はドロドロになるまで何度も抱かれてしまって。また流されてるじゃん、私、なんて思った。

 朝になっても身体は熱いままで、心臓は心ドキドキしたままで。本当に変になっちゃったのかなって心配になった。

 ねぇ、北さん、でもね。

 やっぱり、このままじゃいけないと思うんです。

農家の北さん11

 今日は絶対流されない。北さんのペースに飲まれない。お酒にも飲まれない。さて、策士な北さんにどう立ち向かおう。

 軽く化粧をして、普段ほとんど履かないジーパンに足を通す。スカートばっか履いてるからすぐ触れるで? なんて言われたら、もうスカートなんて履けない。

 いつもはふわふわした服装が多いけど、今日はラフなTシャツにした。このTシャツ、近所用なんだけどな。とてもデート用じゃない。

 ちょうど準備が完了した頃に、北さんから到着したとメッセージが届いた。期待なんてしていないのに、それだけでドキドキそわそわしてしまう自分がいる。

 アパートの前に出ると北さんの車が横付けされていたので、最寄りのコインパーキングまで案内するため助手席へと乗り込んだ。

「〇〇ちゃん、おはよう」

「おはようございます」

「ええかげん敬語やめてええのに」

「つい、癖で」

 北さんの顔を見るとこの前の夜を思い出して、身体がかあっと熱くなった。彼の裸が浮かんできて、ぶんぶんと頭を振る。あの手に触れられたんだなぁとか、あの唇で愛撫されたんだなぁとか、いやらしいことを思い浮かべてしまう自分がイヤになってしまう。すうっと深呼吸して、頭を健全デートモードに切り替えた。

 車を停めた私たちは、玄関に北さんの荷物を置いて街へと出かけることにした。玄関に入った瞬間襲われたらどうしよう、なんて思ったけど、襲われなかったのでとりあえずは良しとする。

 それから私たちは中華街で食べ歩きをしたり、異人館の方をぶらぶら歩いたりして観光地デートを楽しんだ。

「ちょい休憩しよか?」

「あ、そこスタバありますよ」

「おお、神戸っぽいスタバや!」

「観光客向けですね」

「〇〇ちゃんこの辺来たことあるん?」

「先輩と取材で来ました。スタバは飲んでないけど」

「じゃ、入ろか」

 本当、恋人同士なんだなぁ、私たち。こうして会話をしていると、普通のカップルだ。

 北さんのあとをついて店内に入り、レジで飲み物を注文する。北さんは普通のドリップコーヒーを頼んで、私は季節のフラペチーノを頼んだ。

「〇〇ちゃん甘いの好きなん?」

「はい、大好きです!」

「へぇ。せやからちゃんとお肉ついとるんやな」

「そ、そんな太ってましたか!?」

「んー? 柔らかい身体やなぁって」

「~ッ!」

 あの夜を思い出すような言葉がぽっと出てきて、また身体が熱くなった。フラペチーノの容器を頬に当てて、無理矢理その熱を冷ます。容器にマジックで書かれた『Thanks♡』のハートマークが、今デートをしているという現実を突きつけてきて、頭がくらくらした。

「なぁ、〇〇ちゃん、ひと口ちょーだい」

「どうぞ」

「うまっ!」

「でしょ!? おいしいですよね!」

「間接キスやな」

 ああ、もう。この人って本当に。

 口の中が甘ったるいのは、フラペチーノのせいなのか、間接キスのせいなのか分からない。きっとあとで本物のキスをされるんだろうな、なんて想像してしまって、私はまたフラペチーノの容器で顔を冷やした。

 今日は絶対流されない。キスまではしても、その先には進めさせない。お酒は飲まないし飲まれない。策士北さんに騙されないし、触れさせない。  そんな固い決意をしながら、さっき彼が口をつけたストローで、甘い液体を飲み干した。

農家の北さん10

 溺れるように彼に抱かれて、それから数時間。

 すっかり冷めてしまった天ぷらの存在も忘れて、私は裸のまま彼のベッドで眠りこけていた。

 はっと目覚めた時には夜も遅い時間で、隣を見たら同じく裸のまま眠っている北さんがいて。

 記憶を手繰り寄せると、蘇ってくる生々しい出来事たち。一歩進んでしまったという事実が、私を混乱させている。

 ど、ど、どうしよう。してしまった。さ、さ、三回も。

 とりあえず脱ぎ捨てていたものを身につけて、これからどうしようかと考える。お酒、もう抜けたかな。

「〇〇ちゃん、起きたん?」

 さっきまで私を可愛がってくれていた声でそう呼びかけられて、はっ、と顔を上げる。私、この人としたんだ。そう思うとまた身体がかあっと熱くなって、爆発してしまうかと思った。

「ご、ごめんなさい。私、眠ってたみたいで…っ…」

「ええよ。それより、お腹すいたやろ? 天ぷら揚げ直そか?」

「一緒にやります」

 なに食わぬ顔で服を着て、なに食わぬ顔で天ぷらを揚げ直す北さん。そのあと食べたご飯はおいしかったけれど、頭がぐるぐるしていてよく覚えていない。

 翌日休みだった私は結局泊まっていくことになり、彼の隣でひと晩過ごした。もちろん、朝になったらすぐ帰ったんだけれど。

 帰り際にはまたキスをされて、「今度、〇〇ちゃんち泊まりに行かせてな?」なんて言われてしまった。

 帰宅早々、私が連絡したのは◇◇先輩だった。だって、誰かに相談しないとこれからどうすればいいのか分からなかったから。

 私は北さんのことが本当に好きなのか分からない。けれども、触れられてイヤじゃないし、心地いいとすら思える。だからこそ、好きなのか分からないのに近づいていいのか悩んでしまう。前に進むのが早すぎて、心が身体に追いつかないのだ。

『どうしよう、北さんとえっちしちゃいました』

『めちゃくちゃ良くって』

『三回も』

『私、どうすればいいんでしょう』

 なんて連続で先輩にメッセージを送ったら、『付き合ってるならいいんじゃない?笑』と返ってきた。

 そういうものなのかなぁ?

 だって私、北さんのこと好きなのか分からないのに。身体の関係になって、あんな風に乱されて。どきどきしているこの気持ちが、恋なのか、そうじゃないのかすら分からない。ただ緊張しているだけなのかもしれない。

 そんなことをぐるぐると考えてるうちに、北さんからメッセージが届いた。

『次の週末、〇〇ちゃんち泊まりに行ってもええ?』

『分かりました』

『神戸の方あんまし行かへんから、観光地デートしよな』

 ほら、また。断れない私がいる。私ってこんなに優柔不断で流される女だったっけ? 確かに、きっぱり断るタイプじゃないけれど。

 そんなこんなでまた日常に戻って、バタバタした平日を過ごしている間に、いつの間にか週末が訪れていた。

農家の北さん9

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農家の北さん8

「付き合うことになったの!? よかったじゃん!」

 月曜日、私を待っていたのはまたもや先輩たちからの質問攻めだった。先輩たち、絶対楽しんでいる。そう思うけれど、社内で一番後輩の私は、その質問に答えるしかないのだ。

「よかった……、んですかねぇ?」

「で、えっちした!?」

「してませんっ! してないですっ!」

「ちゅーは?」

「……」

「したんだ♡」

「~っ!」

「次はいつ会うの?」

「来週、仕事で北さんのところに行きます」

「ほぉ~ん、楽しみだね♡」

「仕事ですからっ!」

 そう、次のデートの約束はしていないけれど、来週仕事で会うことになっている。唇にはまだキスの余韻が残ったままなのに、一体どんな顔をして会えばいいんだろう。

 北さんのことを考えるとドキドキして、ばくばくして、身体じゅうが熱くなっていく。

 その理由も分からずもがいているうちに、次の取材の日が訪れていた。

「では、夏の時期の取材は今回で終了となります。次は収穫の様子なのでだいぶ先になりますね。新米楽しみにしてます」

 取材の日、かしこまってそう言った私に対して、北さんは「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言ってくれた。仕事で接する時はお仕事モードで真面目に受け答えしてくれるのはありがたい。だって、この前のデートの時みたいにぐいぐい来られたら、身が持たないんだもの。

「では、私はこれで」

 しかし、私がそう言って帰ろうとした瞬間、彼の仕事モードは解除されてしまったようだ。ぱし、と腕を握られてひき止められる。北さんの顔を見上げたら、彼は何か企んだような顔で私の目を見て笑った。

「もう夕方やけど、まだ仕事残っとるん?」

「いえ。今日は直帰です。この時間だから、そのまま帰っていいって……」

「じゃ、うちで夕飯食べていかへん?」

「夕飯? ご飯作れるんですか?」

「うちの米、旨いで?」

「この前宮さんにおにぎり貰ったから知ってます」

 宮さんの名前を出した途端、彼の顔が一瞬曇る。流すような目で見下ろされたあと、北さんの口が開いた。

「ふーん、この前治と何喋ってたん?」

「えっ……と、き、き、北さんが…っ…、わたしのこと、本気だと思うって……言われて」

「そりゃー大当たりやな」

「~!」

「で、食べて行くん?」

「夕飯だけですよ?」

「他に何があるん?」

「~っ!」

 もう、本当に私って北さんに流されっぱなしだし、北さんのペースに乗せられすぎだ。夕飯の他に何かがある、なんてちょっとでも想像してしまった自分が情けない。熱くなった身体は、たぶんこの猛暑のせいだ。もう夕方だけれど。ここ、山からの風が涼しいけれど。冷房も入っているけれど。

 それから私は台所に立って、北さんの料理を手伝った。彼の方が手際がいいのがなんだか悔しい。北さんは手伝わなくていいって言ってくれたけれど、一応か、か、彼女なんだし。手伝わないわけにもいかないな、って思った。

 彼は白ご飯を炊飯器でなく土鍋で炊くらしい。じゃーなんで炊飯器持ってるんですか? って聞いたら、ここは元々叔父さん一家の家で、彼らが海外転勤でいない間北さんが管理してるのだと教えてくれた。

「叔父さん方、どこの国に行かれてるんですか?」

「東南アジア。シンガポールやで」

「それで北さんがこの家に?」

「そや。家賃タダにするかわりに、掃除とかよろしくってな」

「じゃあ、今はひとり暮らしなんですね」

「ん、せやから、ふたりきりやな」

「!?」

 北さんはまた私を困らせるような発言をして、平然とした顔で天ぷらを揚げている。おいしそうな色の夏野菜たちが揚がっていく様子を見て、私、この油より体温高いかも、なんて思った。

「さ、揚がったで」

 お客さんは座った座った、と居間のテーブルに招かれて、すとんと腰をおろす。揚げたての夏野菜と鶏肉の天ぷら、残りものらしいおひたし、サラダ、自慢の白ご飯が並べられて、ぺこぺこだったお腹が鳴りそうになるのを感じた。

「いただきます」

「いただきます」

「〇〇ちゃん、水」

「ありがとうございます」

 水の入ったグラスを受け取り、北さんのグラスと乾杯をする。揚げたての野菜、おいしそうだな。そんなことを考えながらも、喉が渇いたのでまずは水を口に含む。

 えいっ、一気に飲んじゃえ。

「……っ!?」

 あれ!?

 こ、これ、水じゃない!?

「き、きたさんっ、これ!」

「ん、焼酎」

「な、なんで…っ…」

「これで帰られへんな?」

「代行呼びますから…っ…」

「こっから神戸まで? いくらかかるん?」

「で、電車で帰るのでタクシーを…っ…」

「駅までもだいぶあるで?」

 なぁ、〇〇ちゃん。

 北さんが私の隣に来て、身体を寄せてくる。耳元で囁かれて、また身体がかあっと熱くなるのを感じた。耳たぶにちゅ、っとキスをされて、それが唇に降りてくる。キスされる。そう思った瞬間、かぷりと唇に噛みつかれた。

「んん…っ…、ふ」

 お酒を少し飲んだだけなのに、力が入らない。本当、弱いんだよなぁ、私。それどころじゃない。今、私たぶん、襲われてる!?

 息ができなくてぷはっ、と口を開けた瞬間に入ってくる舌に、歯列をなぞられる。北さんの手が服の隙間から入ってきて、背中をするっと撫でられた。

「天ぷら、冷めちゃいます、からぁ…っ…」

「せやな」

「…っ…」

「〇〇ちゃん、あっちの部屋、行こか?」

 ああ、もう。まただ。

 また私、北さんに流されてる。

 けれども頭はふわふわしてるし、身体に力は入らない。それに。イヤだと思わない自分の存在が一番未知で恐怖だ。北さんのことは、全然怖くないのに。

 いやじゃない。だから、抵抗できない。流されて、次へ次へと進んでしまう。

 もう戻れない場所に来てるんじゃないかってことを、ぼーっとした頭の奥で考えていた。

農家の北さん7

 デートの日曜日はあっという間に訪れた。お気に入りのワンピースを着たのは、可愛く見られたいからじゃない。ただ、なんとなくだ。

 約束の時間に、北さんは車で私を迎えに来た。今日は海の方まで行くらしい。この前は仕事の付き合いのつもりで行ったけれど、今日のは『デート』という名目。その響きだけで、緊張してしまう自分がいる。いや、緊張しないわけないでしょう。

「〇〇ちゃん、お待たせ」

「……む、迎えに来て下さってありがとうございます」

「そんなかしこまらんでええよ。今日はデートやし」

「はぁ……」

「ほな、行こか」

 おじゃまします、と助手席に乗り込み、シートベルトをつける。先輩の車の助手席ならよく乗るけれど、男性の隣となるとかなり緊張してしまう自分がいる。

「〇〇ちゃん、そのワンピース、かわええな」

「えっと、あ、ありがとうございます……」

「海の方、行ったことある?」

「そっち方面は入社したての頃先輩について行ったんですけど、海は初めてです」

「そか。よかった」

 北さんの車の中は私がこの前聞いたラブソングが流れていて、好きなのか聞いてみたら、よく分からないから弟くんにおすすめを聞いてみたと笑って話していた。流行りの曲に疎いところが彼らしいな、なんて、北さんのことをよく知りもしないのにそんなことを思ってしまう。

 それから私たちは仕事の話だとか家族の話、宮さんの話、北さんがしていたバレーボールの話なんかで盛り上がった。前回の飲みはあまり覚えていないし、北さんってあまりお喋りなイメージないから会話が続くか心配だったんだけれど。そんな心配はいらなかったみたいだ。

 まぁ、会話がなくても気まずくはならない安心感みたいなものが彼にはあるんだけれど。

 しばらく進むと海が見えてきて、□□海岸と書かれた看板が目に飛び込んできた。有名な観光スポットらしく、海沿いに人がずらっと並んでいる。夏休み時期なこともあり、泳いでいる人もたくさんいた。

 乗り気じゃないデートだったけれど、さすがに綺麗な景色を見るとテンションが上がってくる。海沿いにカップルがたくさんいるのは気にしないことにして、とりあえず景色を楽しもうと思った。

 車から降りると潮風がびゅんと吹いてきて、私の髪を乱した。眩しい景色に自然と目を奪われる。ぼーっと海を見つめていると、北さんが助手席側に回ってきて、「行こか」とやさしく囁かれた。私の手に北さんの手が絡まる。ぎゅっと手を握られて、私はまた心臓が爆音を奏でるのを感じた。

 て、て、手を、握られてる!?

 この前酔っ払ったときも握られたけど、今は完全にシラフだ。こんなの、カップルじゃん。北さんの方を見上げると、彼は平然とした顔をしているように見えた。

 みんな北さんのこと、真面目でお堅い人って言うけど、本当なの? 北さんってやっぱり二人いるんじゃないの?

 そんなことを考えながら、手を繋いで海の方へと横断歩道を渡る。防波堤沿いには、数メートルおきにカップルが並んでいて、デートスポットでもあるんだなと把握した。

 あ、これ、もしかして。

 私の予感は的中。北さんは、防波堤沿いに並ぶカップルとカップルの間の空いたところまで行くと、そこで立ちどまった。

 ああ、ほら。こんなの本当に恋人同士みたいじゃない。握られた手が熱い。たぶん、手に汗かいてる、私。

「俺、普段あんまし緊張せぇへんのやけど」

「?」

「〇〇ちゃんとおると、めちゃくちゃ緊張するわ」

「緊張……、してるように見えないですけど」

「今とかめちゃくちゃ緊張しとるよ?」

 隣のカップルがキスをしているのが見える。反対側にいたカップルも、くっついてハグをして、イチャイチャしはじめた。どこを向いたらいいのか分からなくて、真っ直ぐに海を見つめる。晴れた夏の海は青くてきらきらしてて、この季節を詰め込んだみたいだ。

 繋いでいた手が、ぱっと離れる。離れた一瞬で、手のひらの汗をワンピースの裾で拭った。

 どきどきしていた。どうしてだか分からない。分からないけれどたぶん、隣にいるこの人のせいだ。

 北さんの身体が、私の方に近寄ってくる。後ろから包み込むようにぎゅっと抱きしめられて、猛暑日の熱が身体中に吸い込まれていった。

 熱い。身体中が熱い。それはきっと、真夏のせいなんかじゃない。

「なぁ、〇〇ちゃん」

「ひぇ、ひゃ、はいっ!?」

「……好きやで」

「!? えっと……」

「な、俺と付き合うてくれへん?」

 好きや、好きなんや。

 そう耳元で囁かれて、身体が沸騰してしまうかと思った。強くぎゅっと抱きしめられて、どうすればいいのか分からなくなる。えっと、えっと。

「わ、わたし、北さんのことどう思ってるのか分からなくって……」

「ん、今はそれでもええよ? 少しずつでも、好きになってもらえればええ」

「えっと……」

「俺、絶対〇〇ちゃんに俺のこと『好き』やて言わせたるから」

 この人の自信はどこから来るんだろう。そんなこと言われたら、断れるはずなんかない。

「な? 俺と付き合うて?」

「……わ、分かりました」

「ええん?」

「……はい」

 どきどきして、身体が飛んでいってしまいそうだと思った。北さんの顔を見ていられなくて、防波堤のコンクリートを見つめる。北さんの顔がすぐそばにある。今上を向いたらいけないような気がした。

「〇〇ちゃん、俺の顔見て?」

「えっ……と」

「上向いてくれんと、キス出来ひんのやけど」

「キッ……!?」

びっくりして顔を上げたその瞬間。北さんの唇が、私の唇に触れた。唇を挟むように啄まれて、ちゅ、っとリップ音が鳴る。何度か角度を変えてそれを繰り返されて、目を閉じることも出来ずにされるがまま動けずにいた。

 ~! し、舌入れられるかと思った!!!!

「イヤやった?」

「イヤじゃない……です」

「よかった」

 それは本当。北さんのこと好きなのかまだ分からないけれど、イヤじゃないと思った。でもね、北さん。やっぱりあなた、攻め攻めすぎると思うのです。

 そのあとは砂浜を歩いて、海の見えるお店でランチをして。海の見える展望台まで登って、そこでまたキスをされて。

 帰る頃にはすっかり夕暮れだったんだけど、車を降りる時にまたキスをされた。

「〇〇ちゃん、今日はここまでにしとくわ」

「はぁ……」

「次会う時は、覚悟しといてな」

「~!?」

 帰り際にそんなことを言われて、私の身体はまた熱に包まれていく。それって、どういう意味なのでしょうか!?

 こうして私たちはお付き合いをすることになった。今日が記念日やな、って言われたので、帰るなり手帳にハートマークを付けてしまうあたり、自分の気持ちが分からなすぎる。

 帰ってからもやっぱり、心臓は爆速で音を奏でていた。

農家の北さん6

 取材から一週間、八月に入ったこともあり連日日照りが続いている。電車の車窓を眺めながら、北さんの田んぼはどうなっているのかな、なんてそんなことをぼんやりと考えた。

 今日は◇◇先輩とふたり、電車に乗って『おにぎり宮』さんへと向かっている。稲荷崎方面にあるそのお店で、店主の宮さんと、お店にお米を卸している北さんとの対談をする日なのだ。

 『おにぎり宮』さんの最寄り駅で降りて、お店までは徒歩三分。歩いてすぐだというのに、猛暑日のせいで汗が滝のように流れる。

 ……これから北さんに会うのにお化粧崩れちゃうなぁ。って、なんでここで北さんが出てくるの!

 両手でぱちんと頬を叩いて、頭を仕事モードに切り替えた。ちゃんとやらないと。これからメインの対談なのだから。

 お店に着いて扉を開けると、カウンター席に腰をおろしている北さんの顔が飛び込んできた。その隣には、地域情報誌で見た宮さんが立っている。

 わぁお、ナマ宮さんだ。本当、イケメンだなぁ。

「宮さん、北さん、今日はよろしくお願いします」

 ◇◇先輩が先に挨拶をして、私もそれに続く。宮さんの方を向いて、かしこまって挨拶をした。

「初めまして。北さんの担当をしてます苗字〇〇と申します。本日はよろしくお願いします」

「へぇ。苗字さん、かわえぇ人やなぁ。よろしくお願いします」

「ひぇ!? は、はぁ……」

 可愛い!? ちょ、北さんに続いてこの人も何なの!? きっとこれは、社交辞令だろう。そう思うことにしよう。

 北さんが口を開いたのは、私がそんなことを考えていた時だった。

「治」

「なんですか?」

「〇〇ちゃんは俺のやから、手出すなや?」

 んんんんんん!?

 瞬間、熱くなる身体。固まってしまった先輩と宮さん。北さんだけがひょうひょうとした顔で、「ほな、始めましょか」なんて言っている。

 いまの、なに!?

 何なのぉ!?

 そのあとの対談のことはよく覚えていない。後から録音を聞いたところしっかりやり取り出来ていたし、メモもきちんと取れていた。どうやら私は無心になって、仕事モードを保っていたらしい。

 帰り際、宮さんがお土産にとおにぎりを渡してくれた。ありがとうございます、とお礼を言った私に、宮さんはそっと耳打ちをした。

「苗字さん、北さんガチやと思いますわ」

「えっ!?」

「俺高校から北さんのこと知っとるけど、浮わついた話聞いたことあらへんですもん」

「はぁ……」

「ま、応援しとりますよ!」

「そんなんじゃないですからっ……!」

 宮さんと少し話していただけで、北さんから向けられる視線が痛い。ガチなのって何。何なのぉ、本当に!

 宮さんと先輩が何やらお話を始めたので、ささっと挨拶をして先にお店を出る。だって、北さんといると心臓が爆音になるんだもん。

 でも、これは恋じゃない。きっとそう。言い寄られているから、緊張してしまうだけ。それに、恋愛なんて久々すぎてどんなものか忘れてしまった。私には縁遠いものだもの。彼氏がほしいとも思わないし、北さんとどうなりたいとかも分からない。  しかし次のデートで、私たちの関係は一歩進んでしまうこととなる。そんなことは知らず、八月の眩しい空を仰いだ。

農家の北さん5

 水曜日は予報通り雨だった。雨の日の田んぼの写真を撮っておきたくて、天気予報を見てからアポを取っていたのだ。雨粒がフロントガラスを叩く様子を見つめながら、下り坂でゆるくブレーキを踏む。どんな顔をして会えばいいのか分からなくて、会いたいような、会いたくないような変な気持ちになってしまう。

 下り坂が終わって右折をすると、雨に濡れた青い田んぼが視界の奥に広がった。雨粒が少しずつ強くなって、それと同時に私の胸の音も強くなっていく。段々と北さんの家が近づいてきて、胸の音がもっと速くなる。のろのろと車を走らせているうちに、あっという間に北さんの家に到着した。

「苗字さん、遠いとこありがとうございます」

 けれども私が想像していた『あの夜の北さん』はどこにもいなくって。

「雨ん中大変やったでしょう? さ、上がって下さい」

 『いい人だけど真面目でお堅い』北さんがそこにいて。

「お茶淹れますから、座って下さい」

 『取材』で会った北さんは先日とは大違いで、丁寧にしっかりと受け答えをしてくれた。そりゃあもう、別人または二重人格かと疑うくらいには。

「雨の日に気をつけていることはありますか?」

「そうですね。近年は大雨が多いですから、そういう時は水かさを注意して見てますね。自然は恵みでもあるけれど、一番怖いもんでもありますから」

「雨が降らないのも困りますもんね」

「そうなんですよ。日照り続きでも困るし、大雨でも困る。自然との戦いですね」

 北さんと私の会話を録音しつつ、ペンを走らせる。取材は何回かに分けて行うこともあり短時間で済み、続けて雨の田んぼの写真を撮ってこの日は終了となった。

「では、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 先日のことを言おうか言うまいか。迷ったけれども、お酒に飲まれて記憶を飛ばしたことは確かだ。お店で何を喋ったかだって覚えていない。迷った末に、私はそろりと口を開いた。

「それから……、先日はご迷惑をおかけしました……」

 あの夜の話を切り出すのが少し、いや、かなり怖かったけれど、彼は仕事相手だもの。謝っておかねばならない。きっと、あの日の彼と今の彼は違う人間なんだ。だって今彼は、私のことを苗字さんって呼んでいるし。

 私が詫びの言葉を口にすると、北さんは一瞬真顔になって、それからにやりと口角を上げた。目の前にいる北さんの顔が、少しずつ『あの夜』に戻っていく。

 あ、やられた。何か企んでる顔だ。

「うん。せやから、海デートな?」

「えっ……!?」

「約束したもんな?」

「うぅ……」

「〇〇ちゃんは土日が休みやんな?」

「基本はそーですぅ……」

「じゃ、再来週の日曜はどや?」

「……暇、ですけど」

「決まりやな」

 本当、彼のペースに飲まれたら断ることなんて出来ない。この前のお詫びもあるし、これも仕事の付き合い……、じゃなさそうなんだよね。

 手帳を開いて再来週の日曜にマルを付けると、北さんは満足そうな顔で笑った。

「あー、その前におにぎり宮で会うんかぁ」

「そう、ですね」

「宮、俺の後輩やねんけど」

「そうなんですか!」

「男前やから、絶対惚れんといてな」

 そんなことを口にして、北さんはまたにやりと笑う。取材の時の真面目そうな彼はどこに行ってしまったのだろう。心が追いつかなくって、身体がかあっと熱くなる。

「ほな、またな」

 そう耳元で囁かれて、私の胸はまたばくばくと爆音を奏でていた。

 ……もう、本当に何なの! この人!

「本日はありがとうございました!」

 私はささっとお礼を言うと、早足で車へと戻って帰路についた。玄関先で手を振る彼がサイドミラーに映るその姿を、横目でちらりと追いながら。

 やっぱり、北さんは北さんだ。彼はこの世界にひとりしかいない。

 帰り道をどう帰ったかなんて覚えていない。ただ、帰りの車内で聴いたラブソングが、やたらと耳にこびりついていた。