水曜日は予報通り雨だった。雨の日の田んぼの写真を撮っておきたくて、天気予報を見てからアポを取っていたのだ。雨粒がフロントガラスを叩く様子を見つめながら、下り坂でゆるくブレーキを踏む。どんな顔をして会えばいいのか分からなくて、会いたいような、会いたくないような変な気持ちになってしまう。
下り坂が終わって右折をすると、雨に濡れた青い田んぼが視界の奥に広がった。雨粒が少しずつ強くなって、それと同時に私の胸の音も強くなっていく。段々と北さんの家が近づいてきて、胸の音がもっと速くなる。のろのろと車を走らせているうちに、あっという間に北さんの家に到着した。
「苗字さん、遠いとこありがとうございます」
けれども私が想像していた『あの夜の北さん』はどこにもいなくって。
「雨ん中大変やったでしょう? さ、上がって下さい」
『いい人だけど真面目でお堅い』北さんがそこにいて。
「お茶淹れますから、座って下さい」
『取材』で会った北さんは先日とは大違いで、丁寧にしっかりと受け答えをしてくれた。そりゃあもう、別人または二重人格かと疑うくらいには。
「雨の日に気をつけていることはありますか?」
「そうですね。近年は大雨が多いですから、そういう時は水かさを注意して見てますね。自然は恵みでもあるけれど、一番怖いもんでもありますから」
「雨が降らないのも困りますもんね」
「そうなんですよ。日照り続きでも困るし、大雨でも困る。自然との戦いですね」
北さんと私の会話を録音しつつ、ペンを走らせる。取材は何回かに分けて行うこともあり短時間で済み、続けて雨の田んぼの写真を撮ってこの日は終了となった。
「では、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
先日のことを言おうか言うまいか。迷ったけれども、お酒に飲まれて記憶を飛ばしたことは確かだ。お店で何を喋ったかだって覚えていない。迷った末に、私はそろりと口を開いた。
「それから……、先日はご迷惑をおかけしました……」
あの夜の話を切り出すのが少し、いや、かなり怖かったけれど、彼は仕事相手だもの。謝っておかねばならない。きっと、あの日の彼と今の彼は違う人間なんだ。だって今彼は、私のことを苗字さんって呼んでいるし。
私が詫びの言葉を口にすると、北さんは一瞬真顔になって、それからにやりと口角を上げた。目の前にいる北さんの顔が、少しずつ『あの夜』に戻っていく。
あ、やられた。何か企んでる顔だ。
「うん。せやから、海デートな?」
「えっ……!?」
「約束したもんな?」
「うぅ……」
「〇〇ちゃんは土日が休みやんな?」
「基本はそーですぅ……」
「じゃ、再来週の日曜はどや?」
「……暇、ですけど」
「決まりやな」
本当、彼のペースに飲まれたら断ることなんて出来ない。この前のお詫びもあるし、これも仕事の付き合い……、じゃなさそうなんだよね。
手帳を開いて再来週の日曜にマルを付けると、北さんは満足そうな顔で笑った。
「あー、その前におにぎり宮で会うんかぁ」
「そう、ですね」
「宮、俺の後輩やねんけど」
「そうなんですか!」
「男前やから、絶対惚れんといてな」
そんなことを口にして、北さんはまたにやりと笑う。取材の時の真面目そうな彼はどこに行ってしまったのだろう。心が追いつかなくって、身体がかあっと熱くなる。
「ほな、またな」
そう耳元で囁かれて、私の胸はまたばくばくと爆音を奏でていた。
……もう、本当に何なの! この人!
「本日はありがとうございました!」
私はささっとお礼を言うと、早足で車へと戻って帰路についた。玄関先で手を振る彼がサイドミラーに映るその姿を、横目でちらりと追いながら。
やっぱり、北さんは北さんだ。彼はこの世界にひとりしかいない。
帰り道をどう帰ったかなんて覚えていない。ただ、帰りの車内で聴いたラブソングが、やたらと耳にこびりついていた。