農家の北さん5

 水曜日は予報通り雨だった。雨の日の田んぼの写真を撮っておきたくて、天気予報を見てからアポを取っていたのだ。雨粒がフロントガラスを叩く様子を見つめながら、下り坂でゆるくブレーキを踏む。どんな顔をして会えばいいのか分からなくて、会いたいような、会いたくないような変な気持ちになってしまう。

 下り坂が終わって右折をすると、雨に濡れた青い田んぼが視界の奥に広がった。雨粒が少しずつ強くなって、それと同時に私の胸の音も強くなっていく。段々と北さんの家が近づいてきて、胸の音がもっと速くなる。のろのろと車を走らせているうちに、あっという間に北さんの家に到着した。

「苗字さん、遠いとこありがとうございます」

 けれども私が想像していた『あの夜の北さん』はどこにもいなくって。

「雨ん中大変やったでしょう? さ、上がって下さい」

 『いい人だけど真面目でお堅い』北さんがそこにいて。

「お茶淹れますから、座って下さい」

 『取材』で会った北さんは先日とは大違いで、丁寧にしっかりと受け答えをしてくれた。そりゃあもう、別人または二重人格かと疑うくらいには。

「雨の日に気をつけていることはありますか?」

「そうですね。近年は大雨が多いですから、そういう時は水かさを注意して見てますね。自然は恵みでもあるけれど、一番怖いもんでもありますから」

「雨が降らないのも困りますもんね」

「そうなんですよ。日照り続きでも困るし、大雨でも困る。自然との戦いですね」

 北さんと私の会話を録音しつつ、ペンを走らせる。取材は何回かに分けて行うこともあり短時間で済み、続けて雨の田んぼの写真を撮ってこの日は終了となった。

「では、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 先日のことを言おうか言うまいか。迷ったけれども、お酒に飲まれて記憶を飛ばしたことは確かだ。お店で何を喋ったかだって覚えていない。迷った末に、私はそろりと口を開いた。

「それから……、先日はご迷惑をおかけしました……」

 あの夜の話を切り出すのが少し、いや、かなり怖かったけれど、彼は仕事相手だもの。謝っておかねばならない。きっと、あの日の彼と今の彼は違う人間なんだ。だって今彼は、私のことを苗字さんって呼んでいるし。

 私が詫びの言葉を口にすると、北さんは一瞬真顔になって、それからにやりと口角を上げた。目の前にいる北さんの顔が、少しずつ『あの夜』に戻っていく。

 あ、やられた。何か企んでる顔だ。

「うん。せやから、海デートな?」

「えっ……!?」

「約束したもんな?」

「うぅ……」

「〇〇ちゃんは土日が休みやんな?」

「基本はそーですぅ……」

「じゃ、再来週の日曜はどや?」

「……暇、ですけど」

「決まりやな」

 本当、彼のペースに飲まれたら断ることなんて出来ない。この前のお詫びもあるし、これも仕事の付き合い……、じゃなさそうなんだよね。

 手帳を開いて再来週の日曜にマルを付けると、北さんは満足そうな顔で笑った。

「あー、その前におにぎり宮で会うんかぁ」

「そう、ですね」

「宮、俺の後輩やねんけど」

「そうなんですか!」

「男前やから、絶対惚れんといてな」

 そんなことを口にして、北さんはまたにやりと笑う。取材の時の真面目そうな彼はどこに行ってしまったのだろう。心が追いつかなくって、身体がかあっと熱くなる。

「ほな、またな」

 そう耳元で囁かれて、私の胸はまたばくばくと爆音を奏でていた。

 ……もう、本当に何なの! この人!

「本日はありがとうございました!」

 私はささっとお礼を言うと、早足で車へと戻って帰路についた。玄関先で手を振る彼がサイドミラーに映るその姿を、横目でちらりと追いながら。

 やっぱり、北さんは北さんだ。彼はこの世界にひとりしかいない。

 帰り道をどう帰ったかなんて覚えていない。ただ、帰りの車内で聴いたラブソングが、やたらと耳にこびりついていた。