カテゴリー: long story

ワールドエンドの恋人⑦

 目眩からの突発性難聴。よくあることらしいけど、両耳同時に発症するのは珍しい事例だと聞かされた。気がついた時には病院にいて、左側は全く聴こえない状態。片耳だけだと普通に過ごせるらしいけれど、私の右耳はこれまでの半分の聴力になってしまっていた。

 自分の声が、違う人物のそれに聞こえる。音量が大きいかどうかが分からない。それは、音楽の道を志す若者には残酷すぎる出来事だった。

 ロックで世界を救いたい。歌があればどうにでもなる。この世なんて終わっちゃえばいいって絶望している人たちに、生きる喜びを伝えたい。音楽を通して。そんな夢は一転して、終わっちゃえばいいのに側の人間になってしまった。

 音なんてもういらないから、どうか世界よ終わってくれ。

「目、覚めた?」

 開いた瞳の向こう、最初に目に飛び込んできたのは研磨くんの顔で、その次が見慣れない天井だった。体がふわふわ浮いているみたいだ。どうやら私は、布団の上に寝かされているらしい。

「ごめん、着替えさせた」

「ここ、どこ?」

「近くの旅館」

 さざなみの音がきこえる。いや、エアコンの音かもしれない。分からない。こんな時でも体はしっかり汗をかいていて、まだ生きているんだなと実感した。

「よくあるの? 今日みたいなの」

「一年ぶりくらい」

「薬とか持ってる?」

「そんなのないよ。あったら使ってる。……この耳、こうなったのちょうど一年前なんだ」

 なんでそんなことを語ったのかは分からない。親友以外には、特にそんな話もしなかった。みんな聞いてこないし、話したくもない。それなのに、これまでの出来事をべらべら喋ってしまうのはただ甘えたいだけ。情けない。彼の優しさに、縋ってるだけなのに。

「……だからもう、私に構わないで。もうこの世界なんて終わっちゃえばいいなんて思ってるんだから」

「それはイヤ」

「どうして? 研磨くんには関係ない!」

「関係ある! だからずっと構うしイヤでもその世界を終わらせないから!」

 エアコンがブォンと音を立てる。カーテンが閉まっているせいで、外の天気すらも分からない。右耳にしっかりとはめられた補聴器が、彼の息づかいをとらえた。生きている人間の呼吸音だ。

「なんでそんなに私に構うの!?」

 もうやめてほしい。おしまいにさせてほしい。この世界になんの期待もしていないし、生きる意味も分からない。けれども自分で命を断つなんて勇気はないから、その行方をこの世界に委ねることにしたけれど。どうやらこの星はしぶといみたいだ。なんて思考の中に、研磨くんの声が飛び込んでくる。

「なんでって、……好きだから!」

 それと同時に触れた体温。抱きしめられていると把握するまでに数秒。触れ合った胸板から、彼の鼓動が聴こえる。どくどくと鳴る速い音は、今の言葉が嘘じゃないと知らせる合図だ。

「! 研磨くんには私の気持ちなんて分からないよ!」

「分からないと思う! おれはおれでしかないから。でも、寄り添いたいとは思うよ」

「……例えば今大洪水が起きたとして、船で逃げられますよって言われても、私は乗らないであなたを見送る」

 なんて例え話を、抱きしめられながら言うなんて色気がなさすぎる。こんなの、断っているようなもの。なのに研磨くんはまっすぐにこちらを見つめて、あの猫みたいな目で私をとらえて離さない。心が揺らいでしまいそうになるからやめてほしいのに。

「そうしたらおれも乗らない」

「どうして?」

「言ったでしょ? 好きだから」

「なんでこんな人間のことが好きなの?」

「そんなの理屈で説明できる?」

「これでもまだ、世界なんて終わっちゃえばいいって思ってるよ?」

 私も大概バカだけど、彼も同じ分類なのかもしれない。こんなに逃げているのに、まだ追いかけてくるなんて。女の子の扱い慣れてなさすぎ。モテないよ?

「……明日世界が終わるとしても、おれはそばにいるから」

 前言撤回。そんなことを言われたら気持ちが揺らいでしまってどうしようもない。この世界にほんのちょっと期待してしまいそうな程度には、心がぐらつくから。

「好きだよ」

 ぎゅっと目を瞑ってしまったら最後。もしかしてこれがこの世の終わりなんじゃないかなんて、変な思考に陥ってしまう。きつく抱きしめられて、食べれるかのように唇に噛みつかれた。ちゅ、ちゅ、とキスをされて、息の仕方が分からなくて溺れちゃいそうになる。角度を変えて二度、三度。長いよ、何回するの。そう思った頃に、突然ぷはっと離された。

「う〜、やだ、認めたくない」

「何を?」

「たぶん私、研磨くんのことが好きなんだと思う」

「認めてよ」

「やだよ、認めたら戻れないじゃん」

「じゃあ、いっしょに戻れなくなろう?」

 頷いてしまったから本当にバカだ。頭の中で音楽が回り続けている。これでもまだ、世界の終わりに聴くならきみといっしょに、こんな音楽を聴きたいななんて思っちゃうから呆れてしまう。

 そうだね、タイトルはこうしよう。

 ワールドエンドの恋人。

 肌と肌が触れ合って、びりびりとした痛みが下半身に駆け巡る。お互いに裸だから、体温が直に伝わってくるし鼓動の速さが半端ないのも丸わかり。これほどに生を感じるのは初めてだ。

 研磨くんは私の上で体を揺らしながら、こんな表情もするんだな、って顔をみせた。見すぎて「あんま見ないで」なんて言われたけど、そっちはじっと見てくるからずるすぎる。

「ん、はぁ…っ…、」

「大丈夫?」

「すごく痛い」

「ごめん」

「ていうかちゃんと用意してたしする気満々だったんじゃないの?」

「襲わないとか無理でしょ」

 結局そのまま、朝まで何度も抱き合ってしまったのは親友にも言えない秘密の出来事だ。体の痛みは生きている証。知らないうちにレイトチェックアウトにしていてくれていたらしく、だいぶ寝て、それからまたたくさん触れ合った。

「もう、明日世界が終わっても後悔しないかも」

「まだ言う? これからもっとたくさん新しいものが増えていくんだと思うよ」

「ね、私、曲作りたい。浮かんできたんだ。出来たら一番に聴いてくれる?」

「もちろん」

 そうきみが笑うから、頑張ってみることにしたよ。それでもさ、幸せすぎるからこのまま世界が終わっても後悔しないなんて言ったら、きみはそんなこと言わないでって頬を膨らませるのかな。嘘だよ。頑張ってみることにしたから。

 きみは、私の世界で最初で最後の恋人。

ワールドエンドの恋人⑥

 ボーカロイド ソフト

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 一瞬音楽を聴いただけで、ブラウザの検索履歴がこんなことになってしまっているから単純だ。ひとまず無料のソフトをダウンロードして、手持ちの曲のリズムを鳴らしてみる。これは、私がバンドを組んでいた頃に作った曲だ。

 恋なんてよく分からずに作った恋愛ソング。今聴くと結構めちゃくちゃだし、歌詞なんて酷すぎる。恋愛ってたぶんこんなもんじゃない。まあ、恋愛なんて今でもよく分かってないけど。

「ここ、こうアレンジした方がいいかも」

「あー、ここギター走らせたい」

「もう最初から練り直した方がよくない?」

 ひとりごとを言いながら夢中になるなんて、まるで小学生だ。けれども楽しいのは最初のうちだけで、そのうち躓いてしまうのはよくあること。音楽作りってそんなに簡単にいくもんじゃない。そうして気がついたのは、私には新しい曲を作れないということだ。

 だって、私の見ている世界は静かで、まるでセピアがかったみたいに暗いから。

『こんばんは、KODZUKENです!』

 きっときみが見ている世界は、きらきらしているんだね。

 もう、彼には会わないようにしよう。土足で踏み込まれるのはもうイヤだ。こんな私にも何か出来るんじゃないかって期待して、こうして現実という壁に直面するだけ。それでも一瞬だけ楽しかったな。

 世界が終わる時には、ちょっとだけきみのことを思い出すね。

kenma:『海が綺麗なところに行こう』

 もう会わないようにしよう。その決断から一週間もしないうちにそんな文面が届いたから、暇つぶしに観ていた映画の画面をうっかり消してしまった。突然なに。いつも変な文面をいきなり送ってくるから、混乱してしまう。せめて挨拶や主語を入れてほしい。

『行かない』

kenma:『なんで』

『女の子誘うの下手すぎ』

kenma:『慣れてないからしょうがないと思う』

『ユーチューバーって遊んでるんじゃないの?』

kenma:『それって偏見。女の子と付き合ったこととかないし』

『ちょっと遊んだことはあるでしょ?』

kenma:『他の子に興味ないもん』

 そんなやりとりに、すこしだけ浮ついた気持ちになってしまうのはなぜだろう。研磨くんに彼女はいないし、いたこともない。そんなわけあるか。本当は遊んでて、手を出しやすい子を狙ってるだけ。たぶん誰でもいいから、週刊誌とかに言わなさそうな無難な層を狙っている。私の有名人に対するイメージはこんな感じ。この変に浮かれた気持ちに引っ張られてはいけない。

kenma:『今から暇?』

『今から!? もう夕方だけど』

kenma:『一時間で迎えに行けると思う』

 行くなんて言っていませんが。

 けれどもまあ、いずれ世界が終わるのなら、ちょっとくらい遊んでおくのもいいかもしれない。男の子の経験ないし、淡い思い出程度にはなると思う。この体がどうなっても構わないし。例え襲われたとしても、この世に後悔なんてない。

『分かった』

 期待なんかしていないはずなのに、服装を決めるのに数十分要した。胃の奥が浮かび上がるような変な気持ちになってしまうし、そんな自分が単純すぎて心底呆れる。

 これ以上、私の頭に音を掻き鳴らさないでほしい。

 オレンジを纏った空には星が煌めいて、すこし走るだけで海は色を変える。サンセットドライブなんて初めてだ。それよりも、研磨くんが運転出来ることに驚いたけど。

 BGMはボカロでもロックでもなくて、たぶんレゲエと呼ばれる分類の音楽。どうしてこれをチョイスしたのか尋ねたら、「ドライブ おすすめで検索した」って返ってきてちょっと笑ってしまった。ネット信頼しすぎ。

 なんかちょっと高そうな海鮮丼だとか、デザートのジェラートだとかを食べて、高台の公園で海を眺めながら少し休憩。観光スポットの神社を参拝なんかもした。もはやデート。なんか楽しくなってしまったけど、思い出にするにはちょうどいい。好きになっちゃいけないと、そこだけ心に留めておけば。

「門限とかあるの?」

「特にないよ。前は夜ライブしてたし、行ってたし。日付変わって帰るなんてざらだったから」

「じゃ、海行こう」

「さっき行かなかった?」

「夜の海も綺麗って知らない?」

 知らないし、そんなに海に興味はない。けれども胸の奥は変な旋律を奏でるので、いさぎよくそれに従ってみることにした。思い出したのは暇つぶしに見たアニメ映画のワンシーン。彗星が降ってくるシーンが綺麗で息をのんだ。その時感じたのは、こういう終わり方がいいかもな、なんて下らない願望だ。どうせなら、ゾンビに襲われるよりも綺麗なものを見ながらの方がいい。それくらいの願望は持っていいと思う。

 どうやら彼が気に入ったらしく、ドライブシーンにぴったりすぎるレゲエ音楽をエンドレスリピートしながら、海岸線を走った。次第に暗くなっていく空が、オレンジからピンク、ピンクから青、青から藍へと染まっていく。境界線が曖昧なグラデーションは、まるで絵画みたいだなんてちょっと感動してしまうからずるい。

 車を停めた頃にはすっかり空は暗くなっていて、なんだか宇宙空間にいるみたいなそんな感じ。このまま彗星でも降ってくれればいいのに。

「あっち、行こ」

 車から降りた途端、また手をぎゅっと握られた。なんでこう、掻き乱してくるかなぁ。体内で血がどくどくと巡っているのが分かる。研磨くんといると、どうしてだか生きていることを実感してしまって、どうしようもない気持ちになってしまう。ああ、私今、生きてるんだって。

 駐車場から道路を渡って、防波堤に腰をおろした頃には、もうすっかり体は汗ばんでいた。手は繋がれたままだ。

「なんで手繋いだの?」

「おれがしたかったから」

「私、すごい手汗かいてる」

「そんなのおれもだから気にしない」

「なんで、繋ぎたかったの? 寂しがり屋?」

 すっと顔を上げたら、海のむこうにたくさんの船の灯りが見えた。ぽつぽつと、帯のように連なっているそれを見て、いつか見た大洪水の映画を思い出した。私はその船には乗らないだろうけど。彼が乗るのなら、乗らないでほしい、一緒に終わりを迎えてほしいと乞うのかもしれないな。そんな考えに呆れて笑いが出る。

「分からない?」

 そう聞かれて、はっと我に返った。いま、なんの話をしていたんだっけ。それが、手を繋ぎたい理由の話だと思い出す頃には、彼の空いた方の手が頬に触れていた。繋がれた手に力が込められる。

 キスされるのかな。

 ばくばくと、胸の奥が爆音を奏でる。まるで音楽の祭典状態。音が弾ける。鳴る。うるさいくらいに響いている。これは私の脈? それとも彼の脈? 分からない。さざなみが音を立てる。また私の中に音を鳴らして響かせて、世界を鮮やかに染めるんだ。この人は。

 世界の終わりにはちょうどいい。

 明日、世界が消えてしまったらどれだけいいだろう。すこしだけ目を瞑る。国道を走っているらしい車のライトが、瞼の上から侵食してきた。静かだ。わずかに機能している右耳が、ブォンと鳴った情けない機械音をとらえる。

 世界なんて終わってしまえばいい。ここに来てまでまたそんなことを考える私に、きみはやさしく触れて笑うのかな。

 それでも、たしかにあの日、私の世界に音が回りはじめた。紛れもない真実だ。

 ぐらり。

 突然だった。

 その瞬間、突然視界が揺らいで、私の胸の音は違うものへと変わった。目眩だ。ばくばくして、呼吸の仕方が分からなくなってしまう。

「? どうしたの?」

「やだやだ、怖い!」

 ちょうど一年前の夜、私を突然襲ったあのひどい目眩を思い出す。世界なんて終わってしまえばいい。そう思っていたはずなのに、今は音が消えてしまう恐怖で体が震えてしまう。

「過呼吸? これ、息吸って吐いて」

「っ……、はっ、」

「落ち着いて」

「っ、はぁ、はぁ…っ…」

 頭の中で、あの日がフラッシュバックする。そう、ちょうどこんな熱帯夜のことだった。視界が揺れる。呼吸の仕方が分からない。

 もう、このまま消えちゃえばいいのに。

ワールドエンドの恋人⑤

Riii:『男の子に手を握られた!? それってもう確実じゃん』

『握られただけだよ』

Riiii:『フェスに誘ってきたのも向こうからでしょ? しかもロックミリしらなのに!? それって絶対気があるんだと思うよ!』

『うぬぼれな気がする』

Riiii:『好きになった!? 彼氏出来ちゃうの!?』

『そんなんじゃないから』

 幼馴染に相談したのは軽率すぎたかもしれない。けれども誰かに相談しないと落ち着いていられないし、思考が絡まってどうにかなっちゃいそうだった。音楽関係の友達とは次第に疎遠になってしまったけど、幼馴染だけはどんな私でも対等に接してくれる。ありがたい存在だ。

 あれは、一体何だったのだろう。なんのつもりで手を握ったのか、見当もつかない。知り合って間もないし、こんな私を好きになるはずなんてない。ユーチューバーって、チャラいのかな。でも、それ以上何もなかったのは本当に言葉通りだった。あれから連絡もないし。

kenma:『ゲーム好き?』

 なんて思っていたところにメッセージが届いたのは、タイムリーすぎて見張られてる? って思ってしまったくらい。しかも切り出し方が読めなさすぎる。いきなり、ゲーム好き? って。どうやら女の子の扱いには慣れてなさそうだ。

『あんま興味ない』

kenma:『じゃあちょうどよかった』

『なにが?』

kenma:『素人にゲームさせてみたらっての、バイトでどう? 一回だけだし画面映すだけだから』

 バイトのお誘いですか。一年前まではカフェと居酒屋のバイトを掛け持ちしていたけれど、どちらも聴き取りが必須なので辞めてしまった。聴力に関係のないバイトを探してはいるけれど、なかなか条件に合うものが見つからない。フェスでグッズや何やら買ってしまったし、おこづかいがほしいのは切実な悩みだ。

『やる』

 秒で即答したら、向こうからも秒で返事が返ってきた。複数の中から日時を選んでほしいという内容に、暇だからどれでもと返す。そうしたらまた数秒後には指定された日時と、都内にしては端の方にある住所が送られてきた。

 軽々しく返事をしたけれど、男の子の家にあがるんだよね。自宅? 事務所とか? スタッフもいるのかもしれないし、二人きりとは限らない。それでもあの日を思い出して、少し軽率だったかなと反省した。

 あれは、きっとただの気まぐれ。

 それをまた幼馴染に相談したら、爆速で駆けつけてきた。おまけに下着から服装から、髪型まで指導されてしまって余計に混乱する。

 これでもまだ、約束の日まで世界は続いているのかな、なんて考えているのに。

 ゾンビが出たなら、こういうところに逃げ込むんだろうな。そんな感じのほどほどの田舎、大学生が住んでいるとは思えない一軒家に研磨くんは住んでいた。まあ、私はさっさと自分からゾンビになりに行くんだろうけど。

 私がプレイしたゲームは、ゾンビなんて出てこない小学生でもプレイ出来るくらい簡単なものだった。私でもタイトルを聞いたことがあるくらいポピュラーなそれで遊んでいる間、研磨くんはずっとお腹を抱えて笑っていたけど。

「そんなにおかしい? あっまたこの変な亀出てきた!」

「ここまで才能あると思わなかった」

「才能?」

「面白すぎるでしょ」

 結果、KODZUKENを大ウケさせるレア動画が撮れたらしいけれど、知ったこっちゃない。こちらは真面目にプレイしていただけだというのに。おかげで男の子の部屋にいる緊張感も、解れた気がした。ひとまずアイスコーヒーで乾杯。乾いた喉が潤って心地いい。

「お疲れ」

「KODZUKENってこういうゲームもするんだね」

「これ、おれが最初に覚えたゲームだから」

「そうなの? 昔からあるよね」

 なんて普通に会話が弾む辺り、彼はこの前のことを特に気にしていないように思える。意識しているのは私だけなのだろうか。男の子に免疫がないし、あんなことをされたら気にしないわけにはいかない。好きとか、そういうのとはまた違う次元の話なんだろうけど。

「どうして私を誘ったの?」

 ふと、気になってそんなことを聞いてみた私がバカだった。初心者そうだからとか、暇そうだったからとか、そういう答えを期待していた私の心を、彼は斜め上からぶん殴ってくる。まるで侵入者のように、隙間から顔を覗かせてくるのだ。

「うーん、気が紛れるかと思って」

「?」

「この世の終わりみたいな顔してたから」

 カラン。氷がしゅわしゅわと溶ける音が、頭を貫く。こんな音が気になるのは初めてだ。

 私、そんな顔してた?

 それよりも、世界なんて終わっちゃえばいいのになんて考えていた心の奥底を、読まれたような気がして情けなくなる。それが真実だから余計に。だったらもう、この世界に音を連れてくるようなことはしないでほしい。きみと出会えてちょっとだけ、周りの景色が鮮やかになったなんてこちらは認めたくないのだから。

 研磨くんが、続ける。

「ボカロは聴いたことある?」

 相変わらず思考が読めない人だ。ゲームの話をしていたはずなのに、どうしてボカロの話に飛ぶんだろう。天才型の人って頭の中に思考がポンポン浮かぶらしいから、そういう類なのかもしれない。きっと彼もそうなんだろう。

「そういうジャンルは知ってるけど、聴かない」

「こうして、自分で機械で曲作って歌わせるの。これはちょっと興味本位でダウンロードした無料のソフトなんだけど。おれには向いてなかったみたい」

「こっちの曲作れるソフトは知ってる」

 機械音声に興味はない。音楽をしている時は生音にこだわっていたし、生音こそ音楽の醍醐味だと思う。アプリを使うこともあったけど、曲を作る時に少し使っていただけだ。機械が歌うなんて、それを作った人の思考が理解できない。

 けれども、数秒後に鳴り始めた音楽は、私の頭の中に土足で踏み込んできた。いや、入ってきたのは研磨くんなのかもしれない。いつもそう。ほんの少し開いた隙間から、ひょこっと顔を覗かせては知らないうちにそこにいる。そんな感じ。

「この曲知ってる?」

「知らない」

「わりといいでしょ?」

「そうだね」

 この前のフェスの時と同じやりとりが、今度は研磨くんから私へと向けられる。こんなに趣味も思考も違うのに、何か共通しているものがあると感じてしまうのはなぜだろう。

 音が回り始める。パソコンの周りからブゥンと鳴る機械音すら眩しい。音楽が、空気が、それから彼が、鮮やかに色をつけて漂っている。胸の奥がとくん、とくんと鳴って、それさえも音の波に乗っかっているようだ。なんだろう、この感覚。BPM速すぎだし、到底生音では実現出来ないような旋律だし、めちゃくちゃじゃんなんて思うのに。心が加速してどうしようもない。

「鳴らしたい音があるんじゃないの?」

 なんて言う彼に、また手を握られた。ドキドキするのはきっと、速度の速い音楽を聴いているせい。ボーカロイドの高い声はすんなり耳から入ってきて、心の奥底にすとんと着地した。

 それでも、世界の終わりに聴くのは生音ロックがいいけど。

ワールドエンドの恋人④

 夕方土砂降りになった雨は、スケジュールを遅らせてしまいには中止にさせてしまったらしい。ぽつぽつと降り始めた時点で、帰ろうと提案したのは正しかった。それでもシャトルバスを降りる頃にはどしゃ降りで、駅の構内まで走る間にずぶ濡れになってしまったんだけど。

「なんで雨降るって分かったの……。予言?」

「予言なんて出来たら、世界が終わる日当ててると思う」

「それは知りたくないかも。……寒」

「びしょ濡れになったね。うちわりと近いけど、来る?」

「……それ、どういう意味?」

「? カゼひいちゃいけないからって、そういう意味でしかないでしょう?」

 他に何の意味があるのだろうか。そう答えたら、何かがツボにハマったのか、研磨くんはふふふと笑いはじめた。わりと表情豊かなんだな、と一日いっしょに過ごして思ったけど、考えていることはやはりよく分からない。

「じゃあ遠慮しない」

 また猫目に見つめられたから、ふっと逸らした。高揚感はそのままだし、熱はこもったままだ。頭の中では音楽が鳴り続けている。

 結局どしゃ降りはうちに着いても続いたままで、靴まで泥だらけ。ひとりなら行ったことを後悔したと思うけど、そうならなかったのは研磨くんのおかげなのかもしれない。まだ音がループしている。

「おじゃまします」

「そっちバスルームだから。これ、タオルと着替え使って。終わったら二階に来てね」

 お父さんの服はさすがにイヤかなと思って、前にライブで買ったぶかぶかのTシャツを手渡した。ほしいサイズが売り切れで、それでもどうしても欲しくて買った男性用のLサイズ。二回着たけど私だと指先が隠れるほどだぼだぼで、ずっと飾っていたものだ。こんなところでまた使う機会が訪れるとは思っていなかった。

 私が着替え終えた頃、自室の扉から研磨くんが顔をひょこっと覗かせた。雨の音がする。男の子にしては華奢な方だと思っていたけれど、私のだぼだぼTシャツがちょうどいいみたいで、この人も男の子なんだなと実感する。ていうか、下パンツ一枚だし。

 そこではっとした。

『それ、どういう意味?』

 先程の研磨くんの言葉がフラッシュバックする。あれ、そういう質問だったのか。同時に軽率すぎる自分の行動に呆れて、彼の方を見ていられなくなってしまった。

「部屋に男あげていいの? 俺こんな格好だし」

「だっ、だって、研磨くんだし。乾燥機回したから、乾くまでいていいよ」

「おれだからって、どういう意味?」

「有名ユーチューバーは軽々しいことしない」

「まあ、しないけど」

 そこまで言って黙るなんてずるいし、私もなんて返せばいいのか分からないから困ってしまう。雨の音がうるさい。うるさすぎるくらいに感じてしまうのは、耳がこうなってから初めてのことだ。入れたばかりのエアコンが回転しはじめる。機械音なんて、気にもならなかったのになんで。

「雨、凄いね」

 それだけつぶやいた研磨くんが、すこしずつ私の方に近づいてくる。まあ、しないけど。そう言ったのは間違いない事実なのに、ばくばくして仕方がない。ほどよい筋肉のついた腕が、すっと伸びてくる。

 指先が、そっと私の指先に触れた。するりと撫でられて、そのまま指を絡められる。一歩後ずさりしたら、それを引き戻すかのように手を握られた。

 だって、なにもしないって。しないけどって。そう言ったのに。

 手を握られた。たったそれだけ。それだけのことなのに、冷えていたはずの体が急激に加熱されていく。熱でも出ちゃうのかな、なんて思うくらいには。

 いつまでそうして黙っていたのか分からない。乾燥機の鳴る音にはっとするまで、しばらく手を繋いだままでいた。

 雨はいつの間にか上がっていた。

ワールドエンドの恋人③

 テスト勉強をする集中力も、中高生の時よりは衰えた気がした。二十歳そこそこの若者が何を言っているんだ、と言われそうだけど、事実は事実だ。ローテーブルの上にシャーペンを放り投げ、ベッドに寝転ぶ。つい手に取ってしまったスマートフォンを、薄くなった指の腹でタップする。もうすっかり、楽器を弾いていない人の指だ。

『こんにちは。KODZUKENです。今日はこれを進めるよ』

 思い立って開いた動画の向こうでは、あの日の彼がリズミカルに喋っている。心地いい声だ。男の人の声は聴き取りづらいけど、彼の声はそうじゃない。特別高いわけでもないのに、聴き取りやすくて懐かしい感じがする。いいね、を押したところで、トークアプリの通知がブブッと振動した。

kenma:『夏休みなにするの?』

 彼からだ。ドクン、ドクンと胸の奥が跳ねる。初めてのメッセージなのに挨拶もないし、短文一行だけなのが、彼のイメージ通りすぎて笑ってしまった。

『なにもしないよ』

kenma:『暇なんだ』

『今バイトもしてないし』

 暇なんだ、って。まあ、暇ですけど。筆不精そうにみえるのに、秒で返信が来てちょっと面白い。あんなに、忙しいって言っていたのに。

kenma:『昨年の夏休みはなにしてたの?』

『夏フェス行ってた』

kenma:『なにそれ? 楽しいの?』

『すごく』

kenma:『じゃ、それ一緒行こ』

 なんて返ってきたので驚いた。これって何のお誘い? あれ以来音楽は辞めたし、ライブにも行かなくなった。今は聴くことすらしていない。それなのに、どうしてだか無性にこの季節の訪れを喜んでしまう自分がいるのも事実だ。それよりも、KODZUKENと夏フェスの温度差がおかしくてしょうがない。

『暑いし人多いしうるさいよ?』

kenma:『なんでおれが苦手なもの知ってんの』

『ブログ見たから。研磨くんはロック苦手だと思う』

 そう送って、無意識に研磨くん、と呼んでしまったことに気がついた。エアコンの風が頬を撫でているというのに、そこは火照って熱を帯びている。

 音楽なんてもうやらない。聴かないし、生音なんてもってのほか。この世界になんの期待もしないから、明日この世が終わっても悔いはない。

 それなのに、その誘いにイエスと答えてしまったのは、きっとあの日きみが音を連れてきたから。それともうひとつは、この季節のせい。

 窓の向こうは白と青のコントラスト。枯れた紫陽花はどこかに消えてしまっただろうか。

 夏休みが始まる。

「人多い……」

「だから言ったじゃん。人多いし暑いしうるさいよって」

 夏休みが来た。

 快晴だけれど、風が肌をくすぐって心地いい。ゲートをくぐり抜けたところで、既にへばってしまった研磨くんを見て笑ってしまった。

「こんなに多いなんて聞いてない」

「そっちから誘ったのに? あっち行くよ」

「みんな向こうに歩いてるけど」

「人混みは声聴き取れないし、これ取れちゃうと怖いから。テント張ったりイス置いたり出来るエリアがあるの。そこから聴ければ充分でしょ?」

 イスは持って来れなかったけど、レジャーシートを持参したからそれで充分だ。シートエリアの方へ足を向けた私に、研磨くんがのそのそとついてくる。まさかKODZUKENがこんなところにいるとは、誰も思わないはずだ。

「前はダイブとかモッシュとか参加してたんだけどね」

「モ……?」

 用語を知らなさすぎる研磨くんが、KODZUKEN解釈(って言っても知ったばかりだけど)と一致しすぎておかしい。心地いい風に乗って、楽器たちの音が鼓膜に到着する。一年しか経っていないのに、既に懐かしく聴こえるのはきっとこの耳のせいだ。

「あ、リハ聴こえてきた。この曲知ってる?」

「全然知らない」

「そうだと思った」

 だだっ広い芝生の上にレジャーシートを敷いて、靴を脱いだら解放感が私を包んだ。昔みたいに最前列を狙ったり、人に揉まれながら聴くことはもうないけれど。この空気が好きだったんだなと、改めて実感する。

「あっちビールあったけど、飲む?」

「飲む!」

「飲めるんだ」

「私、わりと強い方だと思うよ。昨年は未成年だったから飲めなかったけどね」

 なんて、まだお昼にもなっていないのに早速の乾杯。二十歳になったらこの場所でビールを飲もうと決めていた。その夢も叶うことはないのかな、なんて思っていたけれど、そうでもなかったらしい。

 そのうち曲が始まって、胸を掴まれるような、なんとも言えない気持ちに包まれる。コップの中で、気泡が音に合わせているかのように揺れた。研磨くんの喉仏が、ごくごくと動いている。私の胸の音に合わせるみたいに。こんなに気分が上昇したのは久々だ。

「この曲好きなの」

「初めて聴いた」

「ぜんぶ初めてじゃん。研磨くんは音楽聴かないの?」

「聴くけど、こういう感じのは初めて聴くから新鮮」

「わりといいでしょ?」

「そうだね」

 今日初めてしっかりと目が合って、ふっと逸らしてしまった。どきどきする。それはたぶん男の子とここにいるからじゃなくて、この音楽と高揚感がそうさせているんだと思う。そうじゃなければ、どきどきしている理由が単純すぎて、自分のことがますますいやになっちゃうから。

「わ、今日のギターめちゃくちゃ弾けてる」

「何の楽器してたの?」

「……歌ってたよ」

 ステージの真ん中でマイクを握っていたあの頃を思い出すと、今でも胸が締めつけられる。下手くそだったけど、ギターもベースもそれなりに弾けるし、曲だって作っていた。キーボードは挫折したけど。

「曲も作ってた」

「もう作らないの?」

「うん」

 そこまで話したところで、風が強さを増してきた。山が近いし、天気が変わるのかもしれない。晴れていたのに雨が降るなんてことは、あるあるでしかない。

「雨降るかもね」

 そう話題を変えたら、「そう?」なんてきょとんとした瞳で見つめられた。心に侵入してくるのはやめてほしい。だってこれでもまだ、世界なんて終わっちゃえばいいって思っているのだから。

ワールドエンドの恋人②

 梅雨明けと同時に訪れた季節は、温度を急激に上昇させた。校内に植えられた紫陽花はとうに枯れていて、その残骸が地面に貼りついている。

 あれから彼には会っていない。大学に来ているのかも分からない。灼熱から逃げるように早歩きしていると、突然後ろから肩を叩かれた。

「ねぇ」

 私の右後ろからはっきりと、ゆっくりと鼓膜に到着する声は柔らかくてどこか懐かしい。肩を叩いてくれるということは、たぶん私のことを知っている人だ。振り返ると、あの日の彼がそこに立っていた。

「よかった。会えた」

 よかった? なにが?

 不思議に思い首をかしげると、彼はまたあの日と同じ顔でにっと微笑んだ。目を合わせたらいけないような気がした。

「ノート、コピーさせてほしくて」

「この前の講義の?」

「うん。来週テストだし」

「そんなに忙しいなら、テストのない講義選べばよかったのに」

「必要なかったら取ってない。それに。写させてくれるでしょ?」

 断れない言い方をしてくる辺り、ずるい男だ。はぁ、とわざとらしく溜息をついてから、「いいよ」と返事をした。一番近いコピー機まで並んで歩いたのはたった数十秒。それなのに男の子の隣を歩くことが新鮮すぎて、つい体が強張ってしまう。

「ありがとう。待ってる間、なんか飲んでて。奢るから」

「暑いから炭酸飲みたい」

「サイダーでいい?」

「うん」

 カップの自販機から出てきたそれを、「はい」と手渡されてまた指先が触れた。これだけですこし意識してしまうなんて、男性に疎すぎて自分で呆れてしまう。かっこいいし、きっと向こうは何とも思っていないんだろうな。

 しゅわしゅわと弾ける炭酸の泡は、昔プールで溺れかけた時に見た気泡によく似ている。あの時溺れてしまった方がよかったのだろうか。それならば、こんな想いをしなくてよかったのかもしれない。ぐぐっと一気にそれを飲み干して、握り潰したカップをゴミ箱に投げ入れた。

「あれー? コヅケンじゃん」

 届いたのは甲高い女の子の声。その声量に、はっと我に返った。高い音はよく耳に届く。

 コヅケン? コヅケン。 孤爪研磨? 彼のことだ。

 あっという間に女の子たちに取り囲まれてしまった彼が、助けを求めるような顔でこちらを見た、……気がした。

「来てるの珍しいね! レア体験!」

「ねぇねぇ、いっしょ遊び行こうよ」

「ちょっとー! コヅケン来てるって!」

 本人は彼女たちに構うことなく、急いでコピーを続けている。もしかして、この人有名人? だから、おれを見て驚かないのって言ったの? 帽子で顔を隠しているのはそのせい?

「終わった。行こう」

「えっ、何その子! 彼女じゃないよね!?」

「ちょっとー! コヅケン!」

 コピーを終えた彼に腕を掴まれて、そのまま引っ張られるようにして走った。三十五度超えのキャンバスを駆け抜ける。噴水から噴き出た水が、太陽に反射して綺麗だ。

 どうしてだろう。こんな世界は終わっちゃえばいいのになんて思っていたはずなのに、なぜだかこのとき、私の世界は鮮やかに色を変えた気がした。水の音がする。走る彼の息づかい、伝わる体温と汗、まあるい背中、蝉の声。音が、色をまといながら走り抜ける。一番端にある棟のベンチに着地した時には、ふたりとももうくたくただった。

「……あっつ」

「さっきの、なに?」

「んー? 取り巻き?」

 握られた手がほどけても、その感覚が残っていて身体の火照りがおさまらない。どくどくする。この前の目眩の時とは違う意味で。きっと、それは全力で走ったせい。

「有名人?」

「本当に知らないんだ」

 彼のポケットから取り出されたのは、果物マークのついた最新のものだ。タップされた画面の先は、有名な動画サイト。耳がこうなる前はよく見ていたし、それなりにお世話になった。

「KODZUKEN……?」

 開かれたのはゲーム実況とやらの類で、私が普段見ないジャンルの動画だ。今隣に座っている彼が、画面の向こうで実況しながらゲームをプレイしている。下に表示された関連動画たちも含め、かなりの再生回数を達成しているようだ。

「!? フォロワー数!?」

「あー。おかげさまで、それなりに」

「バンドの曲あげてた時フォロワー一桁だったのに。しかも全部知り合い」

「曲? あげてたの?」

 そんな質問に、喋りすぎてしまったと後悔した。ただの昔話。まあ、一年ちょっと前までのことだから、そんなに昔話でもないんだけど。

「いまは、音がきこえるものは遮断してるから」

 そう答えると、彼は何も聞かずに動画アプリを閉じた。その代わりにトークアプリを開いて、連絡先のQRコードを私に突きつけてくる。

「また、連絡してもいい?」

 音が回る。回りはじめる。それはまるで、オリジナルの楽曲を完成させた時のような、そんな鮮やかさ。温度が、湿度が、ばかみたいな速度で上がっていく気がした。

 音の波に飲み込まれて、言葉は出てこなかった。こくこくと頷きながら、スマホの画面を差し出すだけで精一杯。なんでかな。私の世界が、ほんのすこしだけ変わった気がしたのは。

 透明扉の向こう、青空が笑った気がした。

ワールドエンドの恋人①

 明日、世界が消えてしまったらどれだけいいだろう。すこしだけ目を瞑る。国道を走っているらしい車のライトが、瞼の上から侵食してきた。静かだ。わずかに機能している右耳が、ブォンと鳴った情けない機械音をとらえる。

 世界なんて終わってしまえばいい。ここに来てまでまたそんなことを考える私に、きみはやさしく触れて笑うのかな。

 それでも、たしかにあの日、私の世界に音が回りはじめた。

ワールドエンドの恋人

 スマートフォンの振動で、朝が訪れたことを知った。どうやら今日も世界は終わっていないみたいだ。起きて一番にぐぅ、となるお腹の音が、生を殴りつけてきて苛々する。一限目の開始は九時過ぎだ。一直線に伸びた時計の針を見て、今朝はカフェに寄る時間がありそうだと理解した。

 好きでカフェに行くわけじゃない。ただの暇つぶし。厚切りのモーニングトーストを食べることと、居心地のよさはほんの少しの楽しみではあるけれど。

 タオルケットを剥ぎ取り、ベッドから起き上がる。いきなり立ち上がったせいで絡まった足に、一瞬だけ目眩を起こしたのかと錯覚した。ばくばくする。ベッドサイドに置いていたミネラルウォーターの蓋を開けて、安定剤を半錠口の中に放った。こじ開けたカーテンの向こうは今日も雨だ。梅雨はまだ続くのだろうか。雨の音はきこえない。

「あら。もう起きたの?」

「うん。一限だから、朝は外で食べる」

 リビングに降りると、母親がコーヒーを啜りながらテレビニュースを眺めていた。どこかの国に降ってきた隕石らしきものが、空中で燃えて塵になったらしい。母が、しっかりと私の目を見て喋るようになったのはいつからだろう。きっと、いや、間違いなく、それは昨年の夏の終わりのことだった。

「雨だから、気をつけていってらっしゃい」

「うん」

 安かったからと、両親が国道沿いの家を買った時は心底イヤだった。排気ガスより何よりも、大型トラックやバイクの走り抜ける音がうるさくて窓を開けられない。おまけに近くに大きな救急病院があるので、昼夜問わず救急車が音を鳴らして駆け抜けていく。

 それも、今はもう気にならない。

 七時過ぎには大学近くのカフェに腰をおろして、控えているテストのためにシャーペンを手にとった。こんなに真面目な大学生は、私くらいじゃないのかと思う。以前は授業の前に早朝バイトを入れることもあったというのに。

 モーニングセットのトーストのお供に選んだのはイチゴジャム。甘いものは好きだ。この時間はすこしだけ、心がやさしくなれる気がする。

 唯一居心地よく感じられるその場所は、ついつい長居しすぎてしまうことが多い。結局講堂の席についたのは九時ぴったりで、間もなく講義が始まろうとしていた。テストが近いせいか、いつもよりも参加している学生が多い気がする。どうにか空いていた窓際の席を確保して、傘を足元に、荷物を隣の席に置いた。

「ここ、座ってもいい?」

「……え?」

 ひと息つく暇もなく、からだの左側に影を感じてはっと顔をあげる。斜め上を見上げたら、猫背の男の子が立っていた。

 ゆるく結ばれた髪の毛の先が、きらきらと光っている。猫のようなまなざしに一瞬怯んでしまう。

 今、話しかけられた?

「こ、こ! いい?」

 補聴器の存在に気がついたのか、指差しをしながら口をはっきりと動かしてくれる。気がつかない人も多いからこれまた驚いてしまって、私は無言でこくこくと頷いた。

「ありがとう。席ぜんぜん空いてなかったから」

「ごめんなさい。左側から話しかけられたら分からなくて気づかなかった」

「喋れるんだ」

「右はそれなりに聴こえるから。これ外したらちょっと困るけど」

 私の隣に腰をかけたその男の子は、ノートも開かずにまじまじと私の顔を見つめて、それからふっと笑った。

「……おれを見て驚かないんだね」

「どうして?」

「どうしてって……、動画とか見ない?」

「音が出るものは苦手」

「そっか」

 どこか安心したような顔でまた笑う彼を見て、なんだか不思議な気持ちになる。私を珍しそうな目で見る人の方が多いのに、おれを見て驚かないのって、変な人だ。

「ね、いつもこの講義とってる?」

「うん」

「じゃあ、この前のノート見せてもらえない? 最近忙しいから、来れなくて。でも友達も少ないし、自分で出席するしかないから今日は来たけど」

 猫目が少しだけ下がる。一瞬目が合って、その瞳に怯んでしまいそうになった。ざわざわと、普段は気にならない講堂の音が耳にさわってしまう。

「いいよ。忙しいって、バイト?」

「んー、仕事?」

「ふーん」

 インターンシップか何かだろうか。そういうのには行きそうにない人だけど、人は見かけによらないって言うし、真面目な人なのかもしれない。

 ノートを手渡したら、すこしだけ手が触れた。指が綺麗なひとだなぁ、と思う。

 ちょっとだけかっこいいなとは思ったけど、きっともう会うこともないだろう。今度のテストが終わったら、この講義を聴くこともない。学年も名前も、どこの学科なのかだって知らないし、うちのマンモス大学じゃ出くわす機会も存在しないに等しい。

「助かった」

 左側にいる彼が、ジェスチャーを交えながらノートを返してくれる。左から話しかけられると分からないと、先ほど伝えたからだろうか。机の端に置かれた学生証を、無意識に覗き込んでしまう。

 三年、経済学部経済学科、孤爪研磨。

 初めて聞く名前だ。同い年で、同じ学科。それなのに存在を知らなかった彼に、もう少し早く出会いたかったなと、過去をすこしだけ悔やんだ。

「またね」

 講義の終わり、そう言って去っていった彼の背中を見送った。またね、って。また会えるかも分からないのに。

 しとしとと降っていた雨は、少し強さを増している。夏の足音がきこえたような気がした。

孤爪くんがぐいぐい攻めてくるので防御したい!6

 わたしはとても疲れました。合宿とはとても体力を使うらしいです。お風呂で眠りかけてしまうほどには。わたしたちがこんなに疲れるのならば、きっと部員さんたちはもっと疲れているんでしょう。

 お風呂の帰り、体育館の前を通ったらまだ練習をしているひとたちがいて、わたしは怯んだ。ひえぇ。体力オバケ。

「何してんの」

「ひぇ!?」

 突然届いた男の子の声に、びくりと身体が跳ねる。恐る恐る振り返ると、同じくお風呂上がりであろう孤爪くんが立っていた。

「お、お、お風呂に入ってただけ! です!」

「まあ、見れば分かるけど」

「こ、こ、孤爪くんはもう練習しないの?」

「あーいうの苦手」

「で、ではおやすみなさい!」

「ねぇ」

 去ろうとしたら、手首をぎゅっと掴まれた。

 !?

 何事!?

 五月のすこし冷えた空気が、わたしの乾いていない髪に触れて肌寒い。そのはずなのに湿度と温度は急激に上昇していって、やっぱり雨が降るのかな、と思った。

 わたしの手を掴む孤爪くんの握力が、だんだん強くなっていく。男の子の手だ。

「その格好で校内うろつくつもり?」

「はへ?」

「合宿だし男だらけなんだけど」

「?」

 何の話をしているんだろう。合宿だし男だらけなのは当たり前のことだ。格好? なにが? わたしなんか変な格好してる?

「……お花柄じゃないんだ」

 ぼそり、とそう聞こえて、はっと気がついた。私が着ているのは白のほぼ無地T。もう寝るだけだからと、下着の上にそのまま着たのでいつものキャミソールは身につけていない。無地Tの下にあるのは、ちょっとでも脱お子ちゃましたくて、あーちゃんといっしょに選んだ黒の下着だけ。

 なんで黒。

「ひ! つまらないものを見せてしまってごめんなさい!」

「これ、羽織る?」

「お、お言葉に甘えて! ご、ごめんね!」

「いいもの見れたし」

「い!? や、つまらないものでしかないけど……」

 音駒と書かれたパーカーを差し出されて、遠慮なくそれを受け取った。慌てて羽織ったけれど、見られたものは見られたもの。ていうか、孤爪くんでもそういうの目に入っちゃうんだ。わたしでいいものなんて言うんだったら、他の子だったら鼻血吹いてると思う。

 ひええぇ。穴があったら入りたい。

「ふーん、可愛いね」

「か、からかわないで」

「からかってるつもりない」

「こ、こ、孤爪くんは……」

「なに」

「わ、わ、わたしのこと、どう思ってるの?」

 なんて、勢いで聞いてしまった。

 珍獣? それとも宇宙人? からかって楽しい存在?

 わからない。彼のことがわからなさすぎる。

 面白いだとか、新しいだとか、きっと彼はそういうことを言うんだろうな、なんて。勝手なイメージでそう思ってしまう。そもそも、そんな考察が出来るほど彼のことをよく知らない。

 でもね。わかるのは、あなたがいつも斜め上をいく回答しか言ってこないってこと。

 ちらりと孤爪くんの顔を見上げたら、また企んだような顔で微笑まれた。

「そういうふうにしか見てないけど?」

 ほらまた、予想の斜め上すぎる答えが降ってきた。若葉のにおいがする。頭上には無数の星。なんだか少女漫画みたいなシチュエーションで、彼の指と顔が近づいてきた。

 な、なに!?

 意思に反して、自然と目を瞑ってしまう。

「とれた」

「え……?」

「睫毛」

 まっ!?

 ……ちゅーされるかと思った。

「ひええぇ、びっくりさせないで……」

「なんで目瞑ったの?」

「な! なんでって!」

「もしかして、キスされるかと思った?」

「〜〜〜!!!!」

 図星すぎるし、それをごまかせない自分を恨んでしまう。その通りです。キス顔見せましたごめんなさい。

 もう本当、何回穴に入ればいいのだろう。

「試してみる?」

「え」

 孤爪くんの指が再びわたしの頬をなでる。すり、すりとなぞられて、また顔が近づいてきた。

 な、な、なにこれなにこれ!? どうすればいいの!?

「アッ」

 唇が触れる寸前、第三者の声に孤爪くんの動きがとまった。声の方に顔を向けると、そこにいたのは頬を真っ赤に染めた日向くん。見られた!?

「えっと、なんかジャマしたごめん!」

 そう叫んだ日向くんの声が大きすぎて、体育館の中にいた人までこっちを見てしまっている。孤爪くんの手はわたしの頬に触れたままだ。なにこの展開。

「おやすみなさい!」

 それだけ叫んで、マネ部屋まで一気に駆け抜けた。お風呂に入る前たしかに存在していた、夜の校舎怖いなんて気持ちはもうどこかに消えてしまっている。ただ火照る体と、のぼせてしまった脳になやまされるだけだ。

 それ彼ジャーじゃん、なんて他のマネちゃんから突っ込まれる試練が待ち受けているなんて、知るよしもなかった。

孤爪くんがぐいぐい攻めてくるので防御したい!5

 長身男子がいっぱいいる。人がたくさんなことだけでビビってしまっているのに、コミュ力お化けらしき男の子たちがぞろぞろと集まってきて、私はさらに縮こまった。ひえええぇ。怖いよぉ。

「音駒にも女子マネ!? おはなちゃん! よろしく!」

「木兎さん、OBなのに圧が強いです。ごめんね」

「研磨の友達なの!? 俺、日向翔陽! よろしくな!」

「ひええぇ。よ、よ、よろしくお願いします……」

 明らかに陽キャすぎる男の子たちに囲まれて、ますます縮こまってしまう。ビビって後ずさっていると、わたしと同じくらいの身長の女の子に声をかけられた。

「おはなさんっ! 谷地仁花です! なんだかおなじ匂いがします! よろしくお願いします!」

「お、お、女の子だ〜! よかった! よろしくお願いします!」

 女の子がいたことにホッとして胸を撫で下ろす。続々と他校の女子マネさんたちが入ってきて、私の心は安堵に包まれた。よ、よかった。

「なぁ! 研磨とおはなさんは付き合ってんの!?」

「エッ!? いや、孤爪くんとはクラスメイトで! 隣の席で!」

「ふーん、でもやたら研磨が近いけど!?」

 はっと横を向いたら、私をガードするかのように寄り添っている孤爪くんと目が合った。その視線は日向くんとやらの方に移り、孤爪くんはにやりと笑ってとんでもないことを言ってのける。

「牽制してる」

「ケンセー!? なんだそれ!?」

「翔陽、名前さんのこと好きになんないでね」

 ンンンンン!? ンンンンン!?

 な、なにそれ! どういうことなんですか!?

「はーい、練習始めるぞ!」

 誰かの声をきっかけに、みんながドタバタと位置につく。体育館の隅に避けた女子マネさんたちを見て、わたしもそれに倣った。

「さ、おはなさん! ドリンク作りに行きましょう!」

 同じ匂いがすると思っていた谷地さんですらテキパキ動きはじめていて、私はとにかくヘマをしないように頑張ってついていった。谷地さん、全然しっかりしてるじゃん。同じ匂いがすると思ってすみません。ひえぇ。

 それより、さっき孤爪くんが言っていた『牽制してる』って!? 『好きになんないでね』って、なんでそんなこと言うの!?

「おはなさんは、孤爪さんの彼女さんなんですか?」

「ひゃい!?」

 隣に立っていた谷地さんからの突然の言葉に、ドリンクのボトルをひっくり返しそうになってしまう。ちょっとこぼれたけど、完全にひっくり返していないのはわたしにとっては優秀な方だ。

「つ、つ、付き合うとかそんな!」

「でも、孤爪さんはおはなさんのこと好きですよね!」

「えっ!? えっ!?」

 えっ!? そうなの!?

「だってあんな孤爪さん見たことないですもん! 他のマネージャーさんとも話してるの見たことすらないです!」

 そうなのかな。谷地さんから見てそう見えるってことは、ありえないこともないのかもしれない。いやいや! おこがましいにも程がある!

 だって私、あのおはなちゃんだし。

『おはなちゃんは恋愛対象じゃないよな』

『うん、なんか動物? 宇宙人?』

 自惚れてしまいそうになった瞬間、浮上したのはクラスメイトたちの発言。そうだよね。きっと、面白い女だとか、からかってるだけだとか、そんなのだと思う。罰ゲームで告白されたことあるし。それくらいわたしにも分かる。

 とにかくとにかく! 自惚れちゃダメ! 調子に乗っちゃダメ!

 冷水で濡らした手を、頬にパンと打ちつける。カゴいっぱいに詰めたドリンクを持ち帰ると、部員たちがちょうど一度目の休憩に入ったところだった。

 そう、彼はきっとわたしに興味があるだけ。面白がってるだけなんだから。

 ふっと孤爪くんの方を見る。ほら、今彼はわたしの方なんて見てなくて、日向くんとやらと楽しくお話しているし。

 そのうち音駒と烏野との練習試合が始まって、わたしはすぐに釘付けになった。バレーボールの試合を見るのは初めてじゃない。けれどもこんなに近くで見るのは初めてで、おまけに真面目な顔している孤爪くんを見るのも初めてで、なんだか変な気持ちになった。

 見ていて分かったことがある。たぶん孤爪くんは日向くんに興味を持っていて、彼のことを面白いと思っているんだろうってこと。わたしに向ける目と、日向くんに向ける目はすこし似ている。

 なんだ、そっか。やっぱりそうなんじゃん。

 孤爪くんは、たぶん好奇心旺盛なんだとおもう。好きだとか、恋愛だとか、たぶんそういう次元にいない。興味のあるものに、向かっていくだけ。

 ざわざわ。

 ざわざわざわ。

 心の奥を、何かモヤモヤしたものが埋めつくしていく。何これ。こんな黒いきもち、わたしは知らない。

「雨でも降るんですかね?」

 そうつぶやいたら、谷地さんが「予報は雨じゃないです!」と答えた。

 このモヤモヤの正体を、わたしはまだ知らない。

孤爪くんがぐいぐい攻めてくるので防御したい!4

 わたしのあだ名はおはなちゃん。隣の席の男の子は孤爪くん。孤爪くんはどうしてだか、いつもわたしにだけ話しかけてくる。みんなの見ていないところで。

「な、な、なんで教室に誰もいないの!?」

 授業の合間の休み時間。お手洗いから戻ってくる途中、他のクラスの友達との立ち話に夢中になってしまい、チャイムと共に教室に駆け込んだ。しかし目の前に広がるのはしんと静まり返った教室。クラスメイトたちはどこに消えてしまったのだろう。

 えっ!? 何事!? そして誰もいなくなった!?

 ……じゃない! 移動教室だ!

 選択科目である世界史の授業は、いつも視聴覚室で行われている。きっとそこだろう。ダッシュで階段を駆け上がり、視聴覚室の扉をバン! と開いた。

「あれ? 誰もいない……?」

「何してるの?」

「はひぇ!? 孤爪くん!?」

「次、東棟になったけど」

 どうしてだか現れた孤爪くんに、ぐいっと腕をひっぱられる。指先が綺麗だ。それよりも、なぜ彼がここにいるのだろう。

「なんで孤爪くんここに……」

「ん、むかえにきた」

 ンンンンン!? 迎えに来た!? なんで!? わたしがいなかったから!?

 東棟へと向かう渡り廊下を、引っ張られるようにして進む。孤爪くんの手は少しあたたかくて心地いい。けれども男の子に手を引っ張られたまま歩くなんてまるで恋愛小説みたいで、わたしの心はまた縮こまった。この状況は何!?

「なんでわたしに構うの?」

「おれ名前さんに興味あるのかも」

「!?」

 興味!? 興味とは!?

 きっとあれだ。また不思議ちゃんとか珍獣扱いされてるあれ。たぶんわたしがこんなだから興味を抱いただけで、変な意味じゃない。だって、わたしのことそういう風に見たひとなんて、だれもいないし。

「ね、GWは暇?」

「ひ、ひますぎますが!?」

「じゃ、ちょっと手伝って」

 手伝う。はて、何のことだろう。

 分からないけどオーケーしておいたら、放課後体育館に連れて行かれた。なんで。

「け、け、研磨が女の子を連れてきたぁあぁ!」

 喜んでいるのか嘆いているのか分からないモヒカン頭の男の子が、孤爪くんの肩をゆらゆらと揺らしている。その隣で二年生の時同じクラスだった福永くんが、「おはなさんお花畑」とよく分からない言葉を放っていた。

「研磨さん! 彼女さんっすか!?」

 にゅっと顔を覗かせた長身くんに、驚いてヒッッッと変な声が出てしまう。ひえぇ、バレー部の人って大きい!

 孤爪くんが彼女さんですか? に返事をしないので、モヒカンくんがまた荒ぶっている。なんだか面白いひとだなぁ。っていうか、なんで返事しないの!?

「ってことで、名前さんには合宿の手伝いしてもらうから」

「ヒッッッ!? 合宿!? 体育会系……、むり、バレー部ぶっ壊しちゃう……」

 わたしに手伝いをさせるなんて、本当にバレー部をぶっ壊したいのでしょうか!? そうとしか思えない。だって、他にも暇な人いると思うし。

「ふっ、大丈夫、壊れないよ」

「ひえええぇ迷惑だったら追い出してください……」

「他校の男子も来るんだけど」

「ヒェ!? 長身体育会系!?」

 体育会系は苦手だし、背の高い男の子はちょっと怖い。孤爪くんくらいがちょうどいいんだけどなぁ。はっ! 深い意味はないけど!

「そいつらのこと、好きになんないでね」

 ン!? ンンンンン!?

 それってどういう意味でしょうか!?

 孤爪くんは、いつもわたしの心を掻き乱す。きっと、反応が面白いからからかっているだけ。そうなんだと思う。

 彼の言動は気にしないことにして、その日はバレーボールの基礎知識とドリンク補充なんかについて教わって帰った。頭パンパン。本当、バレー部ぶっ壊しちゃわないか心配すぎる。

 そうしてあっという間にGWが訪れて、わたしはバスに揺られて他校の土を踏んでいた。

ユーチューバーの彼女になってみたい、なんてね

「ユーチューバーの彼女になってみたい」

「なにそれ」

「んー、この曲聴いてたら、そう思っただけ」

 買い替えたばかりのスマホから流れてきたのは、私たちが幼い頃に流行った曲らしい。その頃から日本は不景気だったのか、上がらない報酬をうたったその曲が心に刺さるのは当たり前のことだった。エンドレスリピート。アーティストとユーチューバーってちょっと似てると思う。昔の動画でも、再生数が伸びれば稼げるわけだし。そこの仕組みはよく分かっていないけど。

 六畳の北向きワンルームは、すこし湿気臭い。抱き合ってる間に溶けてしまった氷が、カランと音を立てた。昼間だからアイスコーヒー。お酒じゃない。それをひと口飲んで、もう一度研磨とキスをした。

「もっかいする?」

 彼の方からもう一回のお誘いがあるなんて珍しい。何の仕事をしているのか教えてくれないけど忙しいらしく、いつもはそそくさと帰ってしまうのに。

「むり、飛んじゃいそうになるもん」

「そんなに気持ちよかった?」

「ん、今日激しかった」

 もう一度触れ合うだけのキスをして、床に転がった下着を拾った。それを身につけている最中にまたまさぐられて、「だーめ」とそれを静止する。すると研磨は諦めたように身体を起こして、私の飲みかけを口に含んだ。

「はー、年度始めしんど……。給料上がんないし。新入社員の初任給と一緒ってどう思う?」

「そっか、しんどいね」

「指導社員とか荷が重い。契約社員なのにそんな役目押しつけられてさ、正社員動かないの。派遣の方が給料高いしもう派遣になろうかな」

 四月のこの空気が苦手だ。人は多いし暑いし気疲れする。けれどもこの休日の雰囲気は好きだ。終電でうちに来た研磨と乾杯して、溺れるようなセックスをして、ドロドロになっていっしょに眠る。昼前に目が覚めたらひとつのコップにアイスコーヒーを注いで、喉を潤してからもう一度抱き合う。なんて贅沢なんだ。

「ねぇ、そろそろその会社辞めたら?」

 いつもならもう服を着ている頃なのに、研磨は裸のまま真顔でそんなことを言ってのけた。指と指が絡み合う。研磨の綺麗な指先で、左手の薬指をするするとなぞられた。

「無理だよ」

「おれが養うって言ってんだけど」

「何それプロポーズ? 研磨がユーチューバーなら考えるけど」

 本気で言っているの? 今時共働きでもしんどいってよく聞くのに。研磨は時々夢想的な考え方をする時がある。頭の中が読めないし掴めない。まあ、相手はユーチューバーがいいとか言っている私もその職業に夢見すぎなんだけど。

 スマホを弄りはじめた研磨の、その頬はわずかに緩んでいる。プロポーズを交わされたというのに、飄々とした顔。ほーら、本気じゃないんじゃん。けれども差し出されたスマホの画面は、夢と現実をリンクさせてしまった。

「いつユーチューバーじゃないって言った?」

 頭を楽器で殴られたような気分だ。アドレナリンが暴走する。なにそれそんなの知らない。この人は何も知らない私を少しずつ飼い慣らしていたのかな。

「結婚しよ」

「……する」

 唇を合わせたら、マンデリンの苦味が口の奥いっぱいに広がった。肺の奥まで浸透しそうだ。さらば丸の内OL。

 最高に興奮する。

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孤爪くんがぐいぐい攻めてくるので防御したい!3

「おはなちゃーん! 孤爪くんが探してたよ!」

 孤爪くんと知り合って数日、隣の席で同じ委員会だということ以外に、接点などないはずだった。同じ路線使ってて、最寄り駅がとなりってこととかはあるけど。けれども探される用事などないはずなので、またもやわたしは混乱してしまった。

 なんで? 女子と喋らないらしい孤爪くんが、わたしに用事!?

「ひぇ!? 何かしたかな!?」

「なんか、美化委員の作業? これからするんだって。孤爪くんって女子に話しかけてくるんだね。初めて喋ったよ」

 わりとわたしには話しかけてくる気がするのですが!? いや、それより忘れてた! 委員会!

「委員……! わ、忘れてた! ありがと!」

「頑張れー!」

 中庭の清掃をすると言っていたのは覚えていた……、はずだった。今日だったなんて。すぐ忘れるし、道には迷うし、気が利かないし、とりえなんてひとつもない自分のことがいやになる。泣きたい気持ちを抑えながら中庭に向かうと、体操服姿のプリン頭がひょこりと見えた。

「孤爪くん! 遅れてごめんね!」

「制服で着たんだ」

「えっ? ぎゃ! みんな体操服!?」

「もう始まってるし、いいんじゃない?」

「ひえぇ……すみません……」

 遅れて来たせいでまた目立ってしまっているし、なんだか周りからの視線が痛い。孤爪くんに渡された軍手をはめて、びよーんと伸びている雑草をむしり取った。この雑草、わたしみたいだな。くたくたしてるし。邪魔だし。みんなが華やかなお花さんならば、わたしは抜かれる雑草。きっとそんな感じだと思う。

「あれ? こんなところにもちいさなお花……」

 いそいそと雑草を抜いている途中で飛び込んできたのは、花壇からはみ出たところに咲いた小さなお花。ちっちゃくて居場所を間違えていて、こっちもわたしみたいだな、なんて思ってしまう。いや、お花さんに申し訳ないか。でもこのお花さん、踏まれたあとがある。

「お花さん踏まれてる? ごめんねー、お花さん」

「そういうとこ変わんないね」

「え?」

 降ってきた声に顔を上げると、孤爪くんがまた口角を上げてこちらを見ていた。ぐぬぬ。たぶんわたし、この視線と表情に弱い。なんか、逃れないような気がする。

 それより!

 変わんないってなにが? このひと、昔のこともっと覚えてる?

「きゃ!」

 時間がとまったかのようなその一瞬で、突如吹き荒れたのは春の風。あたたかい強風。ばさりと靡いたセーラーと、それからスカート。

 わたしの身につけているものが、風にさらわれて捲れ上がる。なんで、今。

「……み、みた?」

「……もうお花柄じゃないんだ」

「さすがに違うから! っていうか! 見てるよね!?」

「何のことか言ってないけど?」

「こ、こ、孤爪くんのえっち!」

 女子と喋らない? ミステリアス? どこが? 謎な人なのはまあ、合ってるのかもしれない。このひとがこんな顔をするの、知っているのはわたしだけ?

「そうかもね」

 そう言って笑うきみは、これまでどこに隠れていたの? ばくばくしているのは、きっとスカートが捲れたところを見られたから。うん。それだけ。話題を変えよう。

「えっと、えっと! 一回ゴミ捨てに行こっか!」

「焦りすぎ」

 立ち上がるわたしの腕をひっぱってくれる辺り、孤爪くんって紳士なのかもしれない。いや、紳士なら見てないフリするでしょうけど!

 ひっぱられた腕を掴んだ手が、わりと大きなことに気づいてしまってもっとばくばくする。立って並ぶと、思っていたより身長あるし。

「こ、こ、孤爪くんって意外と身長高いんだね」

「バレー部だと低い方」

「でもわたしと並ぶと結構差があるよ! 何センチなの?」

「ひゃくろくじゅうきゅー……、くらい?」

「十八センチ差! 知ってた? 十八センチ差ってちょうどいいんだって!」

「ちょうどいい?」

「恋人の身長差! ハグとかちゅーとかしやすいんだって!」

 話題の変更に成功したことに、わたしは興奮していたらしい。先日恋愛小説で得た当てにならない情報を、ぽろりと口にしてしまうくらいには。

 はっと我に返って見上げたら、予想通りまたあの笑みをみせる孤爪くんがいた。その視線、その口角、本当やめて。どうにかなっちゃいそう。

「ふーん? 試してみる?」

「違……! そういう意味じゃ!」

「うそだよ、かわいー」

「孤爪くん……!」

「本当のこと言っただけ。あ、時間だ。じゃーまたね、名前さん」

 だーれもわたしのこと本名で呼ばなかったのに。このタイミングで言うなんて。本当ずるい。顔が熱い。逃げたい! こんなの、防御するしかない!

 これもまた序章の序章なんて、気がついていないわたしは本当にばかなんだと思う。もうあの顔絶対させないし戸惑わないから!

 なんて、変な決意をするのだけど、それがむだな決意だと知るはずもなかったのだった。