カテゴリー: long story

あまくてにがくて青い5

〜2017 autumn〜

 目覚ましを何度か止めて、三回目のスヌーズで身体を起こす。コーヒーを淹れている間に顔を洗って、着ていた寝巻きを洗濯機に放り込んだ。洗濯物を回すのは夜でいい。狭いワンルームの部屋に戻って、テレビをつけた。その瞬間に飛び込んでくるのは今日も東京の天気で、いやでもあの人のいる場所を想像させられる。

「あっちは雨か……」

 窓から外を覗くと、こちらの天気はくもり空。少し肌寒くなりそうだな、とカーディガンをひっぱり出す。ここ数日で、コーヒーをホットに変えた。秋は人恋しくなる季節だ。そして、温もりを思い出す季節でもある。

 朝食を済ませると簡単なメイクを施して、玄関へと向かった。おしゃれでもなんでもないスニーカーに足をつっこんで、部屋をあとにする。自転車にまたがって10分もすれば、職場である介護施設に到着する。

 高校生の頃乗っていた錆びたママチャリにはもう乗っていない。ひとり暮らしをはじめた時に、実家に置いてきたからだ。今はきらきら光るシルバーのボディが、私の相棒だ。

「寒っ」

 まだ10月だというのに、吹いてくる風は冷たい。かと思えば夏日になる日もあるので、天気が読めなくて困ったものだ。

 秋の風はせつない。夏が終わったような、そんな感じがする。まあ、その通りなんだけど。

 そういえば、昔も同じことを思っていたな、と彼にかけた言葉を思い出した。

『なんだか秋の風ってせつないよね。夏が終わったって感じ』

 涼しい風が吹き込む彼の部屋で、私は確かにそう言った。彼は不思議そうな顔をしていた。もう三年が経つのに、今でも鮮明に思い出せるのはなぜだろう。

「……いつまで引きずってんのよ、ばか」

 自転車のペダルの回転が緩やかに変わっていく。職場の駐輪場に自転車を停めると、鍵をかけてコンクリート造りの建物へと向かった。

「名前ちゃん、今度合コン行かない?」

 女性の先輩にそう話しかけられたのは、ロッカーで着替えをしている最中だった。合コン。そういえば、そういう類のものには参加したことがない。参加したいかと聞かれれば、答えはノー一択だった。

「やめときます」

「なんでー? 彼氏いんの?」

「今はいないですけど……」

 私の顔を見た先輩は閃いたような顔をして、それからにやりと笑った。

「はーん、分かった。忘れられない男がいるんだ?」

「……っ」

「ほーら、図星。名前ちゃんかわいー」

 どうしてだか、違うとは言えなかった。忘れてる、なんて言ったら嘘になる。夏、秋、冬、春。季節が巡るたびに、私はきみといたあの日々を思い出す。

 私の心は今も、三年前のあの頃に縛られたままだ。自分から切り出したくせに。思い出すくらいなら、しがみついてしまえば良かったのに。けれどもあの頃の私には、どうしてもそれが出来なかった。

 東京が、地球の裏側くらい遠くに思えていたのだろう。もしかすると今も、そんな風に思っているのかもしれない。

 ねぇ、影山くん。もしもあの時私が手を掴んだままだったら、きみはどうしていた?

 ありもしない『もしも』を考えては、自分の馬鹿さに呆れてしまう。

 好きだったんだなぁ。本当に。

あまくてにがくて青い3

 高校最後の夏休みは、物凄いスピードで駆け抜けていった。たった週三、されど週三。私たちは係の仕事で会う度にたくさん話をした。

 影山くんはやはり口下手なようで、私から話しかけるのがほとんどで。部活の話とか、好きな食べ物の話とか、恋愛とは関係ない話ばかりだったんだけど。それで十分だった。だって、最初の日みたいなこと言われたら、身が持たないんだもの。

 影山くんはプロのバレーボールチームからお声かけがあったらしく、高校を卒業したらプロ入りするのがほぼ決定らしい。

 将来有望なセッターなんだって。全国に行ったんだって。可愛いマネージャーさんと一緒にいるところ見たよ。影山くんはそんな噂が飛び交う、私にはちょっと遠い存在だった。でも、好きになったんだから仕方がない。だから、簡単な委員の仕事でも飛び上がるくらいに嬉しかった。

「プロチームって、どこにあるの?」

「ホームが東京で、サブが仙台っす」

「じゃあ、影山くんは東京に行っちゃうの?」

「そーっすね」

「東京……、かぁ……」

 東京。新幹線で行ける距離だけれど、私たち高校生にとってはとても遠い。その距離を思うと、ついため息をこぼしてしまいそうになる。寂しいなぁ。

 熱風が吹いてくる教室の中で、べたつく汗と戦いながらシャーペンを滑らせる。いつからだろう。恋することがこんなに苦くてせつないものになったのは。けれども、甘くて嬉しいものでもある。

「……俺も書く」

「ありがと」

 影山くんの長い睫毛が下を向いて、顔にちいさな影をつくる。かっこいいなぁ、とただそんなことを思った。

 その日は体育館の点検日だとかで、影山くんの部活は休みだった。黙々とノートにペンを滑らせる彼が眩しくて、つい目を細めてしまう。ぬるい空気と、上昇する温度が、私の恋心を急速にあたためていく。ふいに顔を上げたら、影山くんと目が合った。

「苗字さん」

 そう呼びかけられて、どくん、と胸が高鳴った。影山くんの耳が少し赤い。それからたぶん、私の耳も赤くなってると思う。

 一瞬、沈黙が広がった。

 窓から吹くぬるい風と、はためくカーテン。トントン、とシャーペンの先でノートをたたく音がする。そこに書かれていた文字に、私は目を疑った。

『好きです』

 あんまり綺麗じゃない癖のある字で書かれた、影山くんの精一杯の言葉。震える指先で、私もシャーペンを走らせる。

『わたしも』

 その瞬間。ふっと影がおちてきて、彼の顔が近づいてくる。ああ、このひとのこと、私は勘違いしすぎてた。本当はばかみたいに純粋に、恋心に忠実なんだ。自分の心を、ごまかすことなんてしない。とても真っ直ぐなひと。

「まって、ここじゃ無理……っ」

 震える声で伝えた瞬間、手を握られた。

「日誌、途中で放り出していいっすかね?」

「いい……、と思う」

 私たちは机の上に日誌を開いたまま、教室の窓も開け放ったままで教室を飛び出した。影山くんにしっかりと握られた手をふり解けずに、彼について走る。夏休み、だれもいない校舎、それでもまだ、誰もいない場所を求めていた。

 走って、走って。校舎の裏の誰もいないところまで、上履きのままで。はやく、はやく、と私たちの心は焦るばかりだった。はやく、はやく、もっと触れ合いたいと。

 陽の当たらないその場所も、地面はじりじりと焼きついていて、私たちの顔を火照らせる。

 青い夏。三十五度超えの気温。灼熱の太陽。焦げたアスファルトの匂いと、焦燥感。はやく、はやく、と手を伸ばしたきみの夏服。

 きゅ、っとその裾を掴んだら、影山くんの顔が近づいてきた。

 唇と唇が触れる。かさついてるけど、少し湿っているそこは、あたたかくて熱い。私たちは校舎の裏で何度もキスをした。もっと、もっと、と瞳で伝えたら、また手を握られた。

 いつから私はこんなに欲に忠実になったんだろう。きっと、影山くんのせいだ。

 影山くんの提案に乗って、私たちは自転車置き場へと向かった。数台しか停まっていない寂しい夏休みのそこにある、私の赤色のママチャリ。影山くんが前に乗って、私がうしろ。錆びた匂いのする自転車は、ふたりの思い出になる。

 ねぇ私たちさ、たった三十分の委員の仕事も放り出して。きみの家まで走ったね。私の自転車でさ、ふたり乗りなんていけないことして。

 でもね、私たち。もっといけないこと、しようとしている。

あまくてにがくて青い2

 七月下旬。夏休み三日目。月曜日の午前十時、……まであと五分。今日の天気は晴れだ。楽しみすぎて早く学校に着いた私は、教室から窓の外を眺めた。第二体育館の方から、練習着姿の影山くんが校舎へと走ってくる。

 来た。

 手鏡を片手に、髪の毛が乱れていないかチェックして整える。ついでにリップを塗っておこう。目立ちすぎない程度に。

 慌てて鏡を鞄の中へとしまったところで、影山くんが教室に現れた。

「苗字さん、お待たせ」

「影山くん、おはよう」

「はよっす」

「水やり先にしておいたから、これから日誌つけよっか?」

「あざっす」

 そんなやり取りをして、私は日誌を開いた。七月◯日、月曜日、天気は晴れ。当番、影山・苗字。『影山』って本人の前で書くのがなんだか照れくさかったけど、頑張って出来るだけ綺麗な字を心がけた。

「苗字さん、字綺麗っすね」

「えっ、本当!?」

「影山って字、俺よりぜんぜん綺麗」

「あ、ありがとう……」

 影山くんが私の字に興味を持ってくれたことか嬉しくって、舞い上がってしまう自分がいる。興味を持ったのかだって分からない。ただ会話を探していただけかもしれない。ううん、でもきみは、女子とふたりきりになったからって無理矢理会話を探すひとじゃないよね。なんて、期待してしまう自分がいる。

 影山くんって、女の子に興味あるんだろうか。無さそうにしか見えないけど。彼が恋愛したら、どんな風なんだろう。ちょっと、いや、かなり興味がある。

「影山くんってさ……、彼女とかいるの?」

 気がついたら、声に出ていた。

「カノジョ?」

「あっ、いや、影山くんモテるからさ! いるんだろうな、って思って……」

「いないっすよ」

「でも、この子可愛いな、くらい思ったことあるでしょ?」

「……あー、それはある……」

「あるんだ……」

 そうなんだ。そうだよね。可愛い子なんていくらでもいるんだもん。思ったことくらいあるよね。そう自分を納得させつつも、ずとん、と重いものが心を支配していくのが分かった。

 思っていたよりも、この恋心は苦しさを伴うものらしい。

 影山くんの言葉を気にせずにいようと、シャーペンを走らせることに集中した。汗で紙と手がひっつく。ああ、べたべたするの、やだな。影山くんなんか、試合で汗かいててもかっこいいのに。

「……苗字さんとか」

「え?」

 なんのはなし?

 唐突に投げかけられた言葉に、目が点になる。影山くんは少々会話が苦手なようだ。主語と述語って知ってる? わたしが、どうしたの?

「苗字さんとかに、思う」

「は……」

「あー、忘れて下さい」

 わたしたち、さっき、なんの話をしてた?

 ……可愛いとか思うって、そういう話だよね? え、なに、いまの。

「あ。苗字さんにばっか書かせて俺何もしてねぇ」

「いっ、いいよ、簡単だし! もう書き終わったし!」

「あざす。じゃ、また水曜」

 そう言うと影山くんはひょいっと片手を挙げて去っていった。心臓がばくばくする。まるで坂道をかけ上ったあとみたいに。からだが熱くて苦しくて、きゅうってなって、どうしようもない。

 私、影山くんのこと勘違いしてた。女の子に興味なさそうだって。ストレートな言葉は言わないって、そう思ってた。

 その日から、影山くんと私の距離は爆速で縮まりはじめた。

あまくてにがくて青い1

 青い夏。三十五度超えの気温。灼熱の太陽。焦げたアスファルトの匂いと、焦燥感。はやく、はやく、と手を伸ばしたきみの夏服。

 ねぇ、影山くん。

 私たちあの夏、ひとには言えないことをしたね。

〜2014 summer〜

 高校三年、夏休み目前のことだった。

 クジ引きで大当たりを引き当てた時は、うわぁ……、と青ざめた。これが祭りの景品クジならば大いに喜んでいたところだが、そうではない。クラスで育てている植物の、夏休みの間の観察記録の当番。それを決めるためのクジで大当たりを引いてしまった私は、わなわなと身体を震わせた。高校最後の夏休み、週に三回学校に来て水やりと観察記録をつけなければならないのだから。

 けれどもそんなげんなりした気分は、次の瞬間に吹き飛んでしまった。

「男子の当番、影山か~!」

 クラスメイトの男子の声が、すっと耳を通り抜けていった。かげやま。かげやまくん。かげやまとびおくん。

 そう、一緒に当番になったのは、私が一方的に好意を寄せている彼だった。チャンスだ。そう思って話しかける声が、心なしか震えてしまう。

「かっ、影山くん、よろしくね」

 あ、噛んだ。私のバカ。

「俺、部活の合宿とか試合あるんで、来れない日あります」

「あ、うん。大丈夫だよ。そういう時は私ひとりでやるから」

「あざっす」

 今度は噛まずにちゃんと伝えることができて、ほっと胸を撫で下ろした。影山くんの目を見て、はっきりと言葉を口にする。

「じゃ、月水金でいいかな? 来るの」

「うっす。月水金っすね」

 なんで敬語? と思いながらも、影山くんと話せる事実が嬉しくてしょうがない。胸の奥がきゅうっと詰まって、どくどくと血が巡っていくのが分かる。

 まともに話したのは今日が初めてかもしれない。なのに好きになったのはなぜだろう。バレー部の試合をテレビで見た時から? 一年生の時に隣の席になったから? 消しゴムを拾ってくれたから? 三年間同じクラスだから?

 きっかけなんて分からないけれど、気がつけば目で追うようになっていた。好きなんだな、って自覚したのは本当に最近。だから今回の係は、本当に嬉しかった。

 高校最後の夏休み。好きなひとと、ふたりっきりの仕事。ふたりっきりの時間。少しでも仲良くなれたらいいな、なんてこの時はそんな風にしか思っていなくて。

 もっと、もっとと、欲張りになっていく私がいるなんて、思いもしなかった。

 夏休み目前、ホームルームの終了時刻、熱い風が窓から吹いてきみの目が細く弧を描く。夏がはじまる予感がした。

「じゃ、苗字さん、よろしく」

 そう言って影山くんが笑った。

 待っていたのは、あまくてにがくて青い夏。私はこの高校三年の夏を、忘れることができない。忘れられるはずなんてない。私たちはまだ子どもで、純粋で、ただひたすらにまっすぐで。恋心と欲に忠実だった。

 ねぇ、影山くん。あの頃に戻れるのならば……。私はきみの手を絶対に離さないよ。

農家の北さん9

この作品を見るにはパスワードの入力が必要です。
パスワードを入力してください


農家の北さん8

「付き合うことになったの!? よかったじゃん!」

 月曜日、私を待っていたのはまたもや先輩たちからの質問攻めだった。先輩たち、絶対楽しんでいる。そう思うけれど、社内で一番後輩の私は、その質問に答えるしかないのだ。

「よかった……、んですかねぇ?」

「で、えっちした!?」

「してませんっ! してないですっ!」

「ちゅーは?」

「……」

「したんだ♡」

「~っ!」

「次はいつ会うの?」

「来週、仕事で北さんのところに行きます」

「ほぉ~ん、楽しみだね♡」

「仕事ですからっ!」

 そう、次のデートの約束はしていないけれど、来週仕事で会うことになっている。唇にはまだキスの余韻が残ったままなのに、一体どんな顔をして会えばいいんだろう。

 北さんのことを考えるとドキドキして、ばくばくして、身体じゅうが熱くなっていく。

 その理由も分からずもがいているうちに、次の取材の日が訪れていた。

「では、夏の時期の取材は今回で終了となります。次は収穫の様子なのでだいぶ先になりますね。新米楽しみにしてます」

 取材の日、かしこまってそう言った私に対して、北さんは「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言ってくれた。仕事で接する時はお仕事モードで真面目に受け答えしてくれるのはありがたい。だって、この前のデートの時みたいにぐいぐい来られたら、身が持たないんだもの。

「では、私はこれで」

 しかし、私がそう言って帰ろうとした瞬間、彼の仕事モードは解除されてしまったようだ。ぱし、と腕を握られてひき止められる。北さんの顔を見上げたら、彼は何か企んだような顔で私の目を見て笑った。

「もう夕方やけど、まだ仕事残っとるん?」

「いえ。今日は直帰です。この時間だから、そのまま帰っていいって……」

「じゃ、うちで夕飯食べていかへん?」

「夕飯? ご飯作れるんですか?」

「うちの米、旨いで?」

「この前宮さんにおにぎり貰ったから知ってます」

 宮さんの名前を出した途端、彼の顔が一瞬曇る。流すような目で見下ろされたあと、北さんの口が開いた。

「ふーん、この前治と何喋ってたん?」

「えっ……と、き、き、北さんが…っ…、わたしのこと、本気だと思うって……言われて」

「そりゃー大当たりやな」

「~!」

「で、食べて行くん?」

「夕飯だけですよ?」

「他に何があるん?」

「~っ!」

 もう、本当に私って北さんに流されっぱなしだし、北さんのペースに乗せられすぎだ。夕飯の他に何かがある、なんてちょっとでも想像してしまった自分が情けない。熱くなった身体は、たぶんこの猛暑のせいだ。もう夕方だけれど。ここ、山からの風が涼しいけれど。冷房も入っているけれど。

 それから私は台所に立って、北さんの料理を手伝った。彼の方が手際がいいのがなんだか悔しい。北さんは手伝わなくていいって言ってくれたけれど、一応か、か、彼女なんだし。手伝わないわけにもいかないな、って思った。

 彼は白ご飯を炊飯器でなく土鍋で炊くらしい。じゃーなんで炊飯器持ってるんですか? って聞いたら、ここは元々叔父さん一家の家で、彼らが海外転勤でいない間北さんが管理してるのだと教えてくれた。

「叔父さん方、どこの国に行かれてるんですか?」

「東南アジア。シンガポールやで」

「それで北さんがこの家に?」

「そや。家賃タダにするかわりに、掃除とかよろしくってな」

「じゃあ、今はひとり暮らしなんですね」

「ん、せやから、ふたりきりやな」

「!?」

 北さんはまた私を困らせるような発言をして、平然とした顔で天ぷらを揚げている。おいしそうな色の夏野菜たちが揚がっていく様子を見て、私、この油より体温高いかも、なんて思った。

「さ、揚がったで」

 お客さんは座った座った、と居間のテーブルに招かれて、すとんと腰をおろす。揚げたての夏野菜と鶏肉の天ぷら、残りものらしいおひたし、サラダ、自慢の白ご飯が並べられて、ぺこぺこだったお腹が鳴りそうになるのを感じた。

「いただきます」

「いただきます」

「〇〇ちゃん、水」

「ありがとうございます」

 水の入ったグラスを受け取り、北さんのグラスと乾杯をする。揚げたての野菜、おいしそうだな。そんなことを考えながらも、喉が渇いたのでまずは水を口に含む。

 えいっ、一気に飲んじゃえ。

「……っ!?」

 あれ!?

 こ、これ、水じゃない!?

「き、きたさんっ、これ!」

「ん、焼酎」

「な、なんで…っ…」

「これで帰られへんな?」

「代行呼びますから…っ…」

「こっから神戸まで? いくらかかるん?」

「で、電車で帰るのでタクシーを…っ…」

「駅までもだいぶあるで?」

 なぁ、〇〇ちゃん。

 北さんが私の隣に来て、身体を寄せてくる。耳元で囁かれて、また身体がかあっと熱くなるのを感じた。耳たぶにちゅ、っとキスをされて、それが唇に降りてくる。キスされる。そう思った瞬間、かぷりと唇に噛みつかれた。

「んん…っ…、ふ」

 お酒を少し飲んだだけなのに、力が入らない。本当、弱いんだよなぁ、私。それどころじゃない。今、私たぶん、襲われてる!?

 息ができなくてぷはっ、と口を開けた瞬間に入ってくる舌に、歯列をなぞられる。北さんの手が服の隙間から入ってきて、背中をするっと撫でられた。

「天ぷら、冷めちゃいます、からぁ…っ…」

「せやな」

「…っ…」

「〇〇ちゃん、あっちの部屋、行こか?」

 ああ、もう。まただ。

 また私、北さんに流されてる。

 けれども頭はふわふわしてるし、身体に力は入らない。それに。イヤだと思わない自分の存在が一番未知で恐怖だ。北さんのことは、全然怖くないのに。

 いやじゃない。だから、抵抗できない。流されて、次へ次へと進んでしまう。

 もう戻れない場所に来てるんじゃないかってことを、ぼーっとした頭の奥で考えていた。

農家の北さん7

 デートの日曜日はあっという間に訪れた。お気に入りのワンピースを着たのは、可愛く見られたいからじゃない。ただ、なんとなくだ。

 約束の時間に、北さんは車で私を迎えに来た。今日は海の方まで行くらしい。この前は仕事の付き合いのつもりで行ったけれど、今日のは『デート』という名目。その響きだけで、緊張してしまう自分がいる。いや、緊張しないわけないでしょう。

「〇〇ちゃん、お待たせ」

「……む、迎えに来て下さってありがとうございます」

「そんなかしこまらんでええよ。今日はデートやし」

「はぁ……」

「ほな、行こか」

 おじゃまします、と助手席に乗り込み、シートベルトをつける。先輩の車の助手席ならよく乗るけれど、男性の隣となるとかなり緊張してしまう自分がいる。

「〇〇ちゃん、そのワンピース、かわええな」

「えっと、あ、ありがとうございます……」

「海の方、行ったことある?」

「そっち方面は入社したての頃先輩について行ったんですけど、海は初めてです」

「そか。よかった」

 北さんの車の中は私がこの前聞いたラブソングが流れていて、好きなのか聞いてみたら、よく分からないから弟くんにおすすめを聞いてみたと笑って話していた。流行りの曲に疎いところが彼らしいな、なんて、北さんのことをよく知りもしないのにそんなことを思ってしまう。

 それから私たちは仕事の話だとか家族の話、宮さんの話、北さんがしていたバレーボールの話なんかで盛り上がった。前回の飲みはあまり覚えていないし、北さんってあまりお喋りなイメージないから会話が続くか心配だったんだけれど。そんな心配はいらなかったみたいだ。

 まぁ、会話がなくても気まずくはならない安心感みたいなものが彼にはあるんだけれど。

 しばらく進むと海が見えてきて、□□海岸と書かれた看板が目に飛び込んできた。有名な観光スポットらしく、海沿いに人がずらっと並んでいる。夏休み時期なこともあり、泳いでいる人もたくさんいた。

 乗り気じゃないデートだったけれど、さすがに綺麗な景色を見るとテンションが上がってくる。海沿いにカップルがたくさんいるのは気にしないことにして、とりあえず景色を楽しもうと思った。

 車から降りると潮風がびゅんと吹いてきて、私の髪を乱した。眩しい景色に自然と目を奪われる。ぼーっと海を見つめていると、北さんが助手席側に回ってきて、「行こか」とやさしく囁かれた。私の手に北さんの手が絡まる。ぎゅっと手を握られて、私はまた心臓が爆音を奏でるのを感じた。

 て、て、手を、握られてる!?

 この前酔っ払ったときも握られたけど、今は完全にシラフだ。こんなの、カップルじゃん。北さんの方を見上げると、彼は平然とした顔をしているように見えた。

 みんな北さんのこと、真面目でお堅い人って言うけど、本当なの? 北さんってやっぱり二人いるんじゃないの?

 そんなことを考えながら、手を繋いで海の方へと横断歩道を渡る。防波堤沿いには、数メートルおきにカップルが並んでいて、デートスポットでもあるんだなと把握した。

 あ、これ、もしかして。

 私の予感は的中。北さんは、防波堤沿いに並ぶカップルとカップルの間の空いたところまで行くと、そこで立ちどまった。

 ああ、ほら。こんなの本当に恋人同士みたいじゃない。握られた手が熱い。たぶん、手に汗かいてる、私。

「俺、普段あんまし緊張せぇへんのやけど」

「?」

「〇〇ちゃんとおると、めちゃくちゃ緊張するわ」

「緊張……、してるように見えないですけど」

「今とかめちゃくちゃ緊張しとるよ?」

 隣のカップルがキスをしているのが見える。反対側にいたカップルも、くっついてハグをして、イチャイチャしはじめた。どこを向いたらいいのか分からなくて、真っ直ぐに海を見つめる。晴れた夏の海は青くてきらきらしてて、この季節を詰め込んだみたいだ。

 繋いでいた手が、ぱっと離れる。離れた一瞬で、手のひらの汗をワンピースの裾で拭った。

 どきどきしていた。どうしてだか分からない。分からないけれどたぶん、隣にいるこの人のせいだ。

 北さんの身体が、私の方に近寄ってくる。後ろから包み込むようにぎゅっと抱きしめられて、猛暑日の熱が身体中に吸い込まれていった。

 熱い。身体中が熱い。それはきっと、真夏のせいなんかじゃない。

「なぁ、〇〇ちゃん」

「ひぇ、ひゃ、はいっ!?」

「……好きやで」

「!? えっと……」

「な、俺と付き合うてくれへん?」

 好きや、好きなんや。

 そう耳元で囁かれて、身体が沸騰してしまうかと思った。強くぎゅっと抱きしめられて、どうすればいいのか分からなくなる。えっと、えっと。

「わ、わたし、北さんのことどう思ってるのか分からなくって……」

「ん、今はそれでもええよ? 少しずつでも、好きになってもらえればええ」

「えっと……」

「俺、絶対〇〇ちゃんに俺のこと『好き』やて言わせたるから」

 この人の自信はどこから来るんだろう。そんなこと言われたら、断れるはずなんかない。

「な? 俺と付き合うて?」

「……わ、分かりました」

「ええん?」

「……はい」

 どきどきして、身体が飛んでいってしまいそうだと思った。北さんの顔を見ていられなくて、防波堤のコンクリートを見つめる。北さんの顔がすぐそばにある。今上を向いたらいけないような気がした。

「〇〇ちゃん、俺の顔見て?」

「えっ……と」

「上向いてくれんと、キス出来ひんのやけど」

「キッ……!?」

びっくりして顔を上げたその瞬間。北さんの唇が、私の唇に触れた。唇を挟むように啄まれて、ちゅ、っとリップ音が鳴る。何度か角度を変えてそれを繰り返されて、目を閉じることも出来ずにされるがまま動けずにいた。

 ~! し、舌入れられるかと思った!!!!

「イヤやった?」

「イヤじゃない……です」

「よかった」

 それは本当。北さんのこと好きなのかまだ分からないけれど、イヤじゃないと思った。でもね、北さん。やっぱりあなた、攻め攻めすぎると思うのです。

 そのあとは砂浜を歩いて、海の見えるお店でランチをして。海の見える展望台まで登って、そこでまたキスをされて。

 帰る頃にはすっかり夕暮れだったんだけど、車を降りる時にまたキスをされた。

「〇〇ちゃん、今日はここまでにしとくわ」

「はぁ……」

「次会う時は、覚悟しといてな」

「~!?」

 帰り際にそんなことを言われて、私の身体はまた熱に包まれていく。それって、どういう意味なのでしょうか!?

 こうして私たちはお付き合いをすることになった。今日が記念日やな、って言われたので、帰るなり手帳にハートマークを付けてしまうあたり、自分の気持ちが分からなすぎる。

 帰ってからもやっぱり、心臓は爆速で音を奏でていた。

農家の北さん6

 取材から一週間、八月に入ったこともあり連日日照りが続いている。電車の車窓を眺めながら、北さんの田んぼはどうなっているのかな、なんてそんなことをぼんやりと考えた。

 今日は◇◇先輩とふたり、電車に乗って『おにぎり宮』さんへと向かっている。稲荷崎方面にあるそのお店で、店主の宮さんと、お店にお米を卸している北さんとの対談をする日なのだ。

 『おにぎり宮』さんの最寄り駅で降りて、お店までは徒歩三分。歩いてすぐだというのに、猛暑日のせいで汗が滝のように流れる。

 ……これから北さんに会うのにお化粧崩れちゃうなぁ。って、なんでここで北さんが出てくるの!

 両手でぱちんと頬を叩いて、頭を仕事モードに切り替えた。ちゃんとやらないと。これからメインの対談なのだから。

 お店に着いて扉を開けると、カウンター席に腰をおろしている北さんの顔が飛び込んできた。その隣には、地域情報誌で見た宮さんが立っている。

 わぁお、ナマ宮さんだ。本当、イケメンだなぁ。

「宮さん、北さん、今日はよろしくお願いします」

 ◇◇先輩が先に挨拶をして、私もそれに続く。宮さんの方を向いて、かしこまって挨拶をした。

「初めまして。北さんの担当をしてます苗字〇〇と申します。本日はよろしくお願いします」

「へぇ。苗字さん、かわえぇ人やなぁ。よろしくお願いします」

「ひぇ!? は、はぁ……」

 可愛い!? ちょ、北さんに続いてこの人も何なの!? きっとこれは、社交辞令だろう。そう思うことにしよう。

 北さんが口を開いたのは、私がそんなことを考えていた時だった。

「治」

「なんですか?」

「〇〇ちゃんは俺のやから、手出すなや?」

 んんんんんん!?

 瞬間、熱くなる身体。固まってしまった先輩と宮さん。北さんだけがひょうひょうとした顔で、「ほな、始めましょか」なんて言っている。

 いまの、なに!?

 何なのぉ!?

 そのあとの対談のことはよく覚えていない。後から録音を聞いたところしっかりやり取り出来ていたし、メモもきちんと取れていた。どうやら私は無心になって、仕事モードを保っていたらしい。

 帰り際、宮さんがお土産にとおにぎりを渡してくれた。ありがとうございます、とお礼を言った私に、宮さんはそっと耳打ちをした。

「苗字さん、北さんガチやと思いますわ」

「えっ!?」

「俺高校から北さんのこと知っとるけど、浮わついた話聞いたことあらへんですもん」

「はぁ……」

「ま、応援しとりますよ!」

「そんなんじゃないですからっ……!」

 宮さんと少し話していただけで、北さんから向けられる視線が痛い。ガチなのって何。何なのぉ、本当に!

 宮さんと先輩が何やらお話を始めたので、ささっと挨拶をして先にお店を出る。だって、北さんといると心臓が爆音になるんだもん。

 でも、これは恋じゃない。きっとそう。言い寄られているから、緊張してしまうだけ。それに、恋愛なんて久々すぎてどんなものか忘れてしまった。私には縁遠いものだもの。彼氏がほしいとも思わないし、北さんとどうなりたいとかも分からない。  しかし次のデートで、私たちの関係は一歩進んでしまうこととなる。そんなことは知らず、八月の眩しい空を仰いだ。

農家の北さん5

 水曜日は予報通り雨だった。雨の日の田んぼの写真を撮っておきたくて、天気予報を見てからアポを取っていたのだ。雨粒がフロントガラスを叩く様子を見つめながら、下り坂でゆるくブレーキを踏む。どんな顔をして会えばいいのか分からなくて、会いたいような、会いたくないような変な気持ちになってしまう。

 下り坂が終わって右折をすると、雨に濡れた青い田んぼが視界の奥に広がった。雨粒が少しずつ強くなって、それと同時に私の胸の音も強くなっていく。段々と北さんの家が近づいてきて、胸の音がもっと速くなる。のろのろと車を走らせているうちに、あっという間に北さんの家に到着した。

「苗字さん、遠いとこありがとうございます」

 けれども私が想像していた『あの夜の北さん』はどこにもいなくって。

「雨ん中大変やったでしょう? さ、上がって下さい」

 『いい人だけど真面目でお堅い』北さんがそこにいて。

「お茶淹れますから、座って下さい」

 『取材』で会った北さんは先日とは大違いで、丁寧にしっかりと受け答えをしてくれた。そりゃあもう、別人または二重人格かと疑うくらいには。

「雨の日に気をつけていることはありますか?」

「そうですね。近年は大雨が多いですから、そういう時は水かさを注意して見てますね。自然は恵みでもあるけれど、一番怖いもんでもありますから」

「雨が降らないのも困りますもんね」

「そうなんですよ。日照り続きでも困るし、大雨でも困る。自然との戦いですね」

 北さんと私の会話を録音しつつ、ペンを走らせる。取材は何回かに分けて行うこともあり短時間で済み、続けて雨の田んぼの写真を撮ってこの日は終了となった。

「では、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 先日のことを言おうか言うまいか。迷ったけれども、お酒に飲まれて記憶を飛ばしたことは確かだ。お店で何を喋ったかだって覚えていない。迷った末に、私はそろりと口を開いた。

「それから……、先日はご迷惑をおかけしました……」

 あの夜の話を切り出すのが少し、いや、かなり怖かったけれど、彼は仕事相手だもの。謝っておかねばならない。きっと、あの日の彼と今の彼は違う人間なんだ。だって今彼は、私のことを苗字さんって呼んでいるし。

 私が詫びの言葉を口にすると、北さんは一瞬真顔になって、それからにやりと口角を上げた。目の前にいる北さんの顔が、少しずつ『あの夜』に戻っていく。

 あ、やられた。何か企んでる顔だ。

「うん。せやから、海デートな?」

「えっ……!?」

「約束したもんな?」

「うぅ……」

「〇〇ちゃんは土日が休みやんな?」

「基本はそーですぅ……」

「じゃ、再来週の日曜はどや?」

「……暇、ですけど」

「決まりやな」

 本当、彼のペースに飲まれたら断ることなんて出来ない。この前のお詫びもあるし、これも仕事の付き合い……、じゃなさそうなんだよね。

 手帳を開いて再来週の日曜にマルを付けると、北さんは満足そうな顔で笑った。

「あー、その前におにぎり宮で会うんかぁ」

「そう、ですね」

「宮、俺の後輩やねんけど」

「そうなんですか!」

「男前やから、絶対惚れんといてな」

 そんなことを口にして、北さんはまたにやりと笑う。取材の時の真面目そうな彼はどこに行ってしまったのだろう。心が追いつかなくって、身体がかあっと熱くなる。

「ほな、またな」

 そう耳元で囁かれて、私の胸はまたばくばくと爆音を奏でていた。

 ……もう、本当に何なの! この人!

「本日はありがとうございました!」

 私はささっとお礼を言うと、早足で車へと戻って帰路についた。玄関先で手を振る彼がサイドミラーに映るその姿を、横目でちらりと追いながら。

 やっぱり、北さんは北さんだ。彼はこの世界にひとりしかいない。

 帰り道をどう帰ったかなんて覚えていない。ただ、帰りの車内で聴いたラブソングが、やたらと耳にこびりついていた。

農家の北さん4

「〇〇ちゃん、歩けるか?」

「もう飲めましぇん~、せんぱいぃ」

「俺は先輩やあらへんで」

「お酒弱いのにいっぱい飲んでごめんなさいぃ」

「せやな、じゃあ、お詫びに次はデートしよか」

「分かりましたぁ~」

 ふわふわと身体が宙に浮いているみたいで、私の気分は高揚していた。いつの間にかタクシーに乗っていて、いつの間にか私の住むアパートの前にいて。いつの間にか水を飲まされていて。

 あれ、なんで北さんが隣にいるんだろう。そう思った瞬間に、手をぎゅっと握られて、私は現実世界に舞い戻ってきた。目の前には、私が住むアパートの壁が見える。

 ん? なんでうちの前にいるの? あ、そっか。北さんと飲んでて……。

 え!? 手、握られてる!?

「〇〇ちゃん、そんなんやと取って食われるで」

「ひゃあ!? 北さん……! すみません私、記憶飛んでて!」

「せやけど今日はとりあえず、何もせんでおくわ。大事な仕事相手やもんな」

 取って食われる。今日は何もしない。……。

 ひえぇ!? どういうことですか、それ!?

 北さんはそう言うと、そっと私の顔にその端正な顔を近づけた。あまりに近すぎる距離に、眩暈を起こしてしまいそうになる。

 わ、なに……!?

 北さんの唇が耳元に近づいて、そっと囁かれる。

「ほな、またな」

 北さんはそれだけ言うと、大きく手を振って帰っていった。

 ひぇ。ひええええぇ。……キス、されるかと思った! 本当に! 何なのぉ!?

 そのあと、いつ連絡先を教えたのか、私用のスマホに北さんからメッセージが届いた。そこに書かれていたのは記憶にない『デート』の約束で。

『次のデートは海にしよか』

 絵文字なしでシンプルにそう綴られていた。次、仕事でどんな顔して会えばいいんだろう。

 胸の音は爆速で変なリズムを刻んでいた。きっと、これはアルコールのせいだと、そう思うことにしておいた。

「で!? どうだった!?」

 月曜日、出勤した私を待ち受けていたのは、先輩たちからの質問攻めだった。内容はもちろん、先輩たちが太鼓判を押している北さんとの食事についてだ。

「私、酔っ払ってあまり覚えてないんです……」

「〇〇ちゃんお酒弱いもんね~? で、何か進展あった!?」

「何もないですよ~! あ、うちまで送ってくれましたけど」

「えっちした!?」

「エッ……!? してないっ! してませんって!」

 いきなり生々しい質問が飛んできて、つい焦ったような回答をしてしまう。先輩たちは「怪しい~!」と言いながらニヤニヤしてこちらを見ていた。

 本当に、何もしてないんだけどな。……意味深なことは言われたけれど。

「次はいつ北さんに会うの?」

「次は水曜に写真を撮りに行って簡単な取材をして、その次は◇◇先輩と一緒におにぎり宮さんでの対談ですね」

 そう答えると◇◇先輩は動きを一瞬とめて、顔を真っ赤にしてこう言った。

「わ~、〇〇ちゃん宮さんに会っちゃうのか~!」

「宮さんがどうかしたんですか?」

「……めっちゃイケメンなの」

 頬に手を当ててぼけーっとする◇◇先輩。どうやら先輩は、今は宮さんに夢中のようだ。他の先輩たちも「宮さんはガチイケメン!」と騒いでいる。◇◇先輩はうちの地域情報誌のバックナンバーを取り出すと、『おにぎり宮』の掲載されたページをぱらりと捲った。

「ね、北さんとどっちがタイプ!?」

「た、確かに宮さんもイケメンですね」

「ね、ね、どっち!?」

「……どっちかと言うと北さんかなぁ」

「ほーら! そうなんじゃん!」

 キャー! と先輩たちが高い声をあげて、私をからかう。どっちかと言うとって言っただけなんだけど。好きになったとか、そんなんじゃないし。

 それより、また仕事で北さんに会うのかぁ。会いづらいなぁ。『デート』についてはあれから連絡ないけれど。なんて、ついつい北さんのことを考えてしまう。

 けれども仕事はひっきりなしに降ってくるもので、バタバタしている間に、取材の水曜日が訪れていた。

農家の北さん3

 週末は一瞬のうちに訪れた。わざわざ神戸まで来てくれるなんて、きっと彼は優しい人なんだろう。

 居酒屋が並ぶ駅前エリアで待ち合わせをしていた私は、約束の五分前にその場所に着いた。たぶん先に着いちゃったかな。そう思って周りを見渡すと、駅前のモニュメントの前に立っている北さんを見つけた。

 わお、五分前行動。先輩たちが言っていた『きっちりした人』って、本当なのかもしれない。この前会った時は作業着だったけれど、今日はシンプルな服装をきっちりと着こなしている。確かに、イケメンなんだよなぁ。

「あのぉ、こんばんは……」

 恐る恐る声をかけてみる。すると北さんは顔を上げて、目を細めて爽やかに笑った。

「〇〇ちゃん。こんばんは! 今日はありがとう」

「いえっ。こちらこそ、遠いところありがとうございます」

「ほな、店行こか」

「はい」

 北さんについて、繁華街をてくてくと歩く。道路側を歩いてくれる辺り、出来る男ではありそうだ。駅から歩いて二~三分のところにある店に入ると、北さんは「予約していた北です」と店員さんに伝えていた。

 北さん、わざわざお店予約してくれてたんだ。行き当たりばったりじゃない辺り、やはり真面目な人なのだろう。

 店員さんに通されたのは小さな個室で、照明は薄暗くいい感じの雰囲気の空間だった。

 ……えっと、こういう時って私が手前に座るんだよね。

 私がきょろきょろして座れずにいると、北さんが「奥行きぃ」と言ってくれたので、雰囲気に流されてそのまま奥の席に腰をおろした。

 北さん、気が利く人だな。そう思ってぼんやりしていた次の瞬間、私は一気に目が覚めることとなる。

 まさかの、北さんは向かいの席でなく私の隣に座ってきたのだ。肩と肩が触れそうな位置にある。まだお酒も飲んでいないのに、身体が急激に熱を帯びていくのが分かった。

 えっ!? 近い! 近い! なんで隣!?

「今日な、ほんまは知り合いの店に行こうかて思うてんけど」

「はっ、はぁ……」

「〇〇ちゃんみたいな可愛え子、他の男に見せたくない思うてやめたわ」

「ひぇ!?」

「仕事やない時は、〇〇ちゃんて呼んでもええ?」

 もう呼んでるのでは!? そう思ったけれど、声が声にならない。ドッドッと心臓が音を立てているのが分かる。

「えっ、えっと……、これは仕事のお付き合いなのでは……」

「俺が他ん人の誘い乗らんの、知っとるやろ?」

 ひえええぇ!?

 一体、なにが起きているの!? この人真面目でお堅い人なんじゃないの!?

 私はわけが分からなくなって、とりあえずアハハと笑ってごまかした。ええい、ここは酔っぱらってしまえ! 女の子らしい可愛いドリンクなんて頼まずに、生ビールを注文する。どくどくと速まる胸の音をごまかすかのように、私はビールをごくりと飲み干した。頭がふわふわして、緊張が解けていくのが分かる。

 それからのことはあまり覚えてない。途中まではこれまでの経歴だとか、家族のことだとか、色々話をしたのを覚えているんだけれど。後半の私の記憶はぷつりと途切れていた。