カテゴリー: long story

火星の裏側で抱きしめて11

ミルキーウェイまで飛んで、熱帯夜Ⅱ

ーーこと座のベガは織姫星。青い一等星。夏の大三角を結んだ先にある彦星は、わし座の一等星アルタイル。出逢ったふたりは恋をした。

ーー今年の七夕は晴れるかな?

 七月七日。七夕は猛暑日で、今夜は熱帯夜になるらしい。昼間は太陽がさんさんと照りつけていたけれど、午後になると雲が空を覆いはじめていた。夕方研磨くんの家に着いた頃には空はグレーに染まっていて、天の川が見えるかとても微妙な状況だった。

 それよりも、研磨くんがぐったりしているのだけれど……。

「なんでこんなに暑いの……」

 研磨くんが、顔をしかめながらそう言う。暑いの苦手なの? と聞いたら、「寒いのも苦手」と返ってきて笑ってしまった。

「なんだか、曇ってきたね」

「あー、うん。ごめん。今日の配信なしになった」

「ええ!? まだ晴れるかもしれないのに!?」

「クロがこれからバーベキューしようって」

 バーベキュー。バーベキュー。それは陽キャイベントなのでは!? っていうかクロって誰!?

 研磨くんは人付き合いが苦手というわりに、友達に囲まれている気がする。

 そもそも、そのバーベキューは私も参加していいものなのでしょうか? そんな疑問が浮上すると同時に、あかねちゃんからのメッセージがスマホに届いた。

『今日研磨くんのうちでバーベキューするの! 星羅ちゃんも来られる!?』

 来られるどころか、既に研磨くんのおうちにいるんだけれど。

 研磨くんにスマホの画面を見せると、「あかねらしい」と笑っていた。どうやら私も参加してオッケーのようで、配信が無しになったがっかりも吹き飛んでしまう。続いてまたあかねちゃんからメッセージが届いて、『ルナちゃんも誘った!』なんて書かれている。

 ルナさん。ルナさんかぁ。いい人なんだけれど、たぶん彼女も研磨くんに気があるんだと思う。分かるんだ。私と同じように彼を見つめているから。

 誰かが恋していることが分かってしまうほどに、今の私は恋に狂っている。きっと、そう。あんなに恋愛に興味がなかった私が、こんな風に恋をするなんて。この星が生まれたことと同じくらいの奇跡なんだ。

 そんなことを思いながら、愛しい人の横顔を見つめることすら出来ずにいるのだった。

 日が暮れる頃、研磨くんのお友達が続々と到着しはじめた。高校の部活仲間らしく、あかねちゃんは全員と知り合いらしい。

 どこかで見たことのあるモデル(たぶん)の姉弟がいるし、これまたどこかで見たことのある芸人さんもいるし、有名配信者のルナさんはいるし、あかねちゃんのお兄さんはプロの選手らしいし。研磨くんの周りって、一体どうなっているの!?

「お、お、女の子がふたりもいる……!」

「星羅ちゃん、ルナちゃん、こちら私のお兄ちゃん」

 あかねちゃんが紹介すると、お兄さんは「ま、眩しい!」と叫んで去っていった。キャ、キャラ濃い! その後ろで芸人さんが「鶏肉、取りにくい」と言いながら鶏肉を焼いている。ひえぇ、こちらもキャラ濃い!

 そんな光景に唖然としていると、「ごめん遅れたわ」とスーツ姿の男性が現れた。この人は見たことがない。どうやら有名人ではなさそうで、ホッと胸を撫で下ろす。

「研磨く〜ん、美女ふたりもお連れですか?」

「クロ、言い出しっぺなのに遅れないで」

「俺も忙しいのよ」

 この人がクロさん。研磨くんが言っていた、バーベキューの提案者さんだろう。一般人とはいえ、随分と顔立ちが整っている。研磨くんの周りは美男美女ばかりなのだろうか。そういえば、前にビデオ通話していたショーヨーさんという人も、結構なイケメンだった。

「ルナちゃん久しぶり! 研磨とのコラボどう?」

「黒尾さ〜ん! お久しぶりです〜♡  いつも毒吐かれてます♡」

「毒吐いてるつもりないし」

「研磨くーん、女の子には優しくね? あれ、こちらは?」

 クロさんは私に気がついたようで、研磨くんに問いかけていた。わ、背が高いなぁ。そう思いながらじっと見上げると、目が合ってにこりと微笑まれた。近くで見ると更にイケメンだ。

「バイトの子」

 研磨くんがそう返事をする。バイトの子。またそういう呼び方をされてしまって、心がどすんと重くなる。前よりも、少しだけお近づきになれたと思っているんだけどなぁ。

「はじめまして! 青井星羅と申します」

「あ、もしかして考察動画の子? 研磨から聞いてる」

「えっ!?」

「研磨の幼馴染で、黒尾鉄朗と言います」

「よ、よ、よろしくお願いします……」

 研磨くんが、私のことを幼馴染さんに話している!? まあ、考察動画は新しい試みだし、話していても不思議じゃない。それでも、私の存在について少しでも触れてくれているという事実が、嬉しくてしょうがなかった。

 研磨ー! と誰かが彼を呼んで、研磨くんが立ち去っていく。ルナさんもそれについて行って、初対面のクロさんと二人きりにされてしまった。

「星羅ちゃん」

 おっと。まさかの、クロさんからの名前呼び。研磨くんは一度も名前を呼んでくれないのに、初対面の男性からさらりと下の名前で呼ばれてしまった。びっくりして固まっていたせいか、クロさんが「ごめんごめん」と笑いながら謝っている。

「すみません。研磨くんにも名前で呼ばれたことないから、びっくりして……」

「研磨が? ……なるほどねー」

「……?」

「いや、なんでも。星羅ちゃん、研磨色々行き詰まってるみたいだから、よろしく頼みます」

 クロさんは小さくそう囁くと、「じゃ」と片手を上げてみんなの方に歩いていった。なるほどね、って、どういうこと? ううん、それよりも! 研磨くんが行き詰まってる……? 私にはそんな風に見えなかったから、驚きしかない。順調に進んでいるように見えるけれど、研磨くんにも悩みなんかがあるのだろうか。

「星羅ちゃーん! お肉焼けたよー!」

 あかねちゃんに呼ばれて、私もみんなの方へと駆け寄る。芸人さんが、焼きたてのお肉をお皿に乗せてくれる。モデルの男の子はタレを注いでくれて、そのお姉さんは割り箸を割って渡してくれた。研磨くんのお友達はみんないい人ばかりだ。みんなは、研磨くんの悩みを知っているのだろうか。そういうことを、人に相談するタイプには見えないけれど。

 ……あれ、そういえば、研磨くんどこに行った?

「あら、割り箸ひとつ足りない」

 モデルのお姉さんの声にハッとして、「私取りに行ってきます!」とその場を後にする。研磨くんは家の中にいるのかもしれない。ガラリと戸を開けたところで、自然と足が止まった。

 そこにあったのは二人分の靴。研磨くんとルナさんのものだ。ふたりで何か話しているのだろうか。もしかすると、仕事の話かもしれない。

 どくん、どくん、と心臓がいやな音を立てる。今、研磨くんはルナさんとふたりきりだ。

 邪魔をしてはいけないけれど、気になってしょうがなかった。作業部屋の方から話し声が聞こえる。しかし、私が用があるのはキッチンだ。そろりと靴を脱いでキッチンへと向かい、割り箸を取ってまた玄関に戻る。そこで作業部屋の扉が少しだけ開いていることに気がついて、つい足をとめてしまった。

 ルナさんの声が聞こえる。

「この仕事してると、本当の自分が分からなくなる時があるの」

 いつもの明るい感じとは違う、誰にも見せないであろう彼女の裏側。一等星のような彼女にも、悩みがあると知って驚く。そしてそれを研磨くんには話せるんだという事実に、胃の奥がズンと重くなるのを感じた。

「……分かるよ、俺にもあるから。そういうの」

「コヅケンにも?」

「当たり前でしょ」

「ね、この話は誰にも言わないでね! 私そういうキャラじゃないし」

 そこまで聞いて、これ以上は聞いていられないとその場を立ち去った。音を立てないように玄関の扉を閉めて、何事もなかったかのように振る舞う。

 ふたりきりの秘密は、私だけの特権。ばかみたい、そんな勘違いをして。自分でも笑えちゃうくらいに滑稽だ。

 あの二人の間には、私は入れない。私は動画配信者じゃないから、気持ちが分かるはずもない。なんだ。最初から、入る隙なかったんじゃん。

ーーこと座のベガは織姫星。青い一等星。夏の大三角を結んだ先にある彦星は、わし座の一等星アルタイル。出逢ったふたりは恋をした。

ーー今年の七夕は晴れるかな?

見上げれば曇天。月も星も見えない。天の川なんて、見えるはずもなかった。

火星の裏側で抱きしめて10

ミルキーウェイまで飛んで、熱帯夜Ⅰ

 あれから二ヶ月とちょっとが過ぎた。スマホの日付を見て、七月に入ったことに気がつく。梅雨はまだ明けそうにない。

「ほら、あの子」

「あー、コヅケンのとこでバイトしてるっていう子でしょ?」

「ふーん、地味じゃん」

 キャンバスを歩いていると、自然と耳に入る噂話。こんな風に言われるのももう慣れた。最初の頃は『彼女じゃないか』なんて噂もあったけれど、そんな噂はすぐに消えてしまった。それだけ私が彼に相応しくないということなんだろう。

 研磨くんとは、あれから恐ろしいほどに進展がない。あの夜が何だったのかと不思議に思うくらいに、全く、本当に全く進展がない。

 けれども、いいこともあった。単発であげた考察動画の再生数が伸びて、第二弾の製作が決まったのだ。つまり、これからも研磨くんのところでバイトを続けられるということ。それが私には嬉しすぎる事実で、心は踊るばかりだ。

 ……というわけで、授業を終え、電車を乗り継いで、研磨くんのおうちにたどり着いたのだけれど。

「星羅じゃーん! おっつー! 今日も考察の作業?」

「ルナさん、来てたんだ」

「だからさん付けやめてってば〜! 私と星羅の仲でしょ? 数回会ったらマブダチ〜!」

 そう、何度かルナさんに会ううちに、どうしてだか気に入られてしまったらしい。ルナさんが豊満なバストを押しつけるようにしながら、私にぎゅーっと抱きついてくる。け、け、研磨くんにはこんなことしていないよね!? と、ちょっと心配になってしまった。

「ルナさんはコラボ動画?」

「うん! 今終わったとこ〜! こう見えて私朝型だから!」

「わぁ、意外」

「星羅も言うようになったわね〜! じゃ、私は帰るからこれで!」

「うん、お疲れ」

 嵐のようにルナさんが去って、研磨くんとふたりきりの空間が出来上がる。二ヶ月経って、ふたりきりにももう慣れた。

 ……嘘。全然慣れません。好きだと自覚してからは余計にそう。意識してしまって、ずっと緊張状態に置かれている。

 ふわぁ、と欠伸をこぼしながら伸びをする研磨くんの方を、ちらりと見る。冷房が効いているからだろうか。彼は今、あの日私が着た赤色のパーカーを身に纏っていて、そのことが私の身体を熱くさせた。冷房、効いているのにな。

「ごめん。ちょっとだけ休憩する」

「いいよ。先に進めておくね」

 最近、ちょっとだけ嬉しいことがある。これまで作業部屋では仕事モードだった研磨くんが、休憩時には仕事モードが外れるようになった。ルナさんにはまだ追いつけないけれど、少しでも気を許してもらえてるのかな、と思うとなんだか嬉しくなる。

 ニヤニヤしそうになる表情筋を抑えながら、参考文献の本を開く。研磨くんはワイヤレスのイヤホンをはめて、何か音楽を聴きはじめたようだった。

「何聴いてるの?」

 あ、私のバカ。こういうのって、邪魔しちゃいけないのが常識でしょうが。そんな私の心配をよそに、研磨くんは閉じていた瞳を開いて、さらりと答えてくれる。

「ボカロ」

「ふふ、研磨くんっぽい」

「機械が歌うって面白いから聞いてる。面白いものは好き。退屈しないし」

 面白いものが好き。それは知ってる。研磨くんは面白いものが好きで、それを基準に選択しているんでしょう?

 私のことを選んだのも、きっとそれが理由。けれどもそれじゃ物足りないと思うのは、贅沢なんだろうな。

 私が黙ったのを見て、研磨くんが不服そうな顔で続ける。

「……ロックとかも聴くけど」

「研磨くんがロック? 嘘!」

 ロック。研磨くんがロック。思いがけぬ発言とその似合わなさに、思わずお腹を抱えて笑ってしまった。だって、似合わなさすぎるんだもの。

「そんなにおかしい?」

「ごめんごめん。それも面白いから聴くの?」

「うーん、人間が弾いてて人間が歌ってるのが面白いかな。でもそういうの聴きはじめたのは最近」

「最近? どうして聴きはじめたの?」

 あっ、また私のバカ。休憩中なのに、質問しすぎだって。分かってはいるけれど、研磨くんのことがもっと知りたくて、ついつい質問をしてしまう。研磨くんは少し悩んだ顔をして、「……うーん、生きてるって感じることが増えたからかな」と答えた。

「どうして増えたの?」

 あー、また質問。休憩させてあげなさいよ。ごめん、休んでて。そう言おうとしたその時、研磨くんの視線を感じた。今、彼は私の顔をじっと見ている。そして、いつもより少し柔らかい声でつぶやいた。

「どうしてだろう? 『青い星』さんを見てるせいかもね」

 そんなことを言って、ふっと笑う研磨くん。それは、私が彼を好きだと自覚した夜に見た笑顔と同じで。時間が止まってしまったかと思うくらいに、私は固まってしまったんだ。

 研磨くんの瞳が、照明を反射してきらきらと光る。その美しさに飲み込まれそうになって、一瞬だけ目を瞑った。

 何これ。何これ。『青い星』って私のことだよね?

 二ヶ月も何の進展もなかったのに、不意打ちでこれはずるい。ずるすぎる。

 ぐるぐると回る思考はまるで宇宙。不思議だらけで、無重力になってしまいそうだ。

 けれども、次に聞こえてきた声は少しトーンが低いそれで。いつもと何かが違う気がした。

「……ね、自分が二人いるってどういう感じか分かる?」

「え?」

 何? 何の質問? 研磨くんが分からなさすぎる。瞳から一瞬光が消えた気がしたけれど、まばたきをしている間に『普段の研磨くん』に戻っていた。

「ごめん、忘れて。それよりさ、七月七日は空いてる?」

 七月七日。その日は土曜日だから研磨くんのところに来る日じゃないし、他にも何の予定も入っていない。何だろう。何かのお誘いだろうかと、期待してしまう私がいた。どくん、どくんと胸の奥が強く音を立てる。

「うん。なんの予定も入ってないよ」

「七夕配信するけど、聴く?」

「……! もしかして!」

「うん。あっち」

 予想を上回る言葉に、私の胸は高鳴った。だって、『火星の裏側』は私たちだけの秘密なのだから。その秘密の時間が増えるのは、私にとって一番嬉しいことかもしれない。

 研磨くんが、続ける。

「でも、晴れじゃなかったらやめる」

「うん!」

 突然降ってきた約束に、心が躍らないわけがない。ばくばくと胸の音が高鳴るのが分かる。それだけ会話すると、研磨くんは横になって眠ってしまった。

 あー、本当贅沢だな。私。

 神様仏様、どうか七夕の日は晴れますように。そう願った私は、小学校の遠足ぶりにてるてる坊主を作るに至ったのだった。

火星の裏側で抱きしめて9

スピカⅢ

ーー春の星座は北斗七星からの線繋ぎ。うしかい座のアークトゥルスを見つけたら、辿った先に光るのがおとめ座の一等星スピカ。しし座の二等星デネボラと結んだら、春の大三角が浮かび上がる。

ーーおとめ座、しし座と来たら思い浮かぶのは十二星座だよね。今日は星座と相性の話をするよ。

 結局「重い」と連呼されて降りた自転車。研磨くんがそれを推しながら、長い上り坂をのぼった。着いたのは山の上にある駐車場で、私たちはそこに自転車を停めた。

 駐車場から伸びる遊歩道を進んだ先は、ベンチのある展望台になっている。今日は天体望遠鏡はない。そのかわり、地上には星のような街の灯りがきらめいていた。

「すごい! この辺田舎なのに夜景見えるんだ」

「一応都内だからね」

 下を向けば街の灯りが広がっているけれど、上を向けば満点の星空が見える。まるで宇宙空間に放り投げられたみたいで、不思議な気分になる。

「配信はじめる」

「もう? 日が暮れたばかりなのに?」

「『火星の裏側』は不定期配信」

「知ってる」

「今日は何の話するの?」

「んー、お楽しみに」

 ふっと柔らかく微笑まれて、その瞳に飲み込まれそうになる。本当、その顔ずるい。その声ずるい。身体が爆発しそうになる。

 研磨くんがスマホの設定を弄って、『火星の裏側』の生配信が始まった。私のスマホに通知が届く。

『火星の裏側さんが生配信を開始しました』

 うん、知っている。だって、隣にいるのだから。

「こんばんは、火星の裏側です!」

 涼しい夜風が心地良い。研磨くんが貸してくれた赤いパーカーが、ほどよく身体を温めてくれる。袖口を顔に近づけたら、研磨くんの匂いがした。たったそれだけで、顔が熱くなっていくのを感じる。

 これも、あこがれ? 分からない。分からなさすぎる。

「春の星座は北斗七星からの線繋ぎ。うしかい座のアークトゥルスを見つけたら、辿った先に光るのがおとめ座の一等星スピカ。しし座の二等星デネボラと結んだら、春の大三角が浮かび上がる」

 スピカは聞いたことがある名前だ。あとは知らない。彼の声で囁かれると、知らない星にさえ興味を抱けるから不思議だ。

「おとめ座、しし座と来たら思い浮かぶのは十二星座だよね。今日は星座と相性の話をするよ。簡単に言えば星占いの話」

 星占い。研磨くんが星占い。

 なんだか似合わなくって、つい声を出して笑いそうになってしまう。声を出さないように笑っていたら、研磨くんにじとりと睨まれた。

「俺全然詳しくないから、占いの雑誌買って読んでみたんだけど」

『読んだんだww』

『火星さんが占い雑誌吹いた』

 リスナーの皆さんも同じ反応のようで、コメント欄が笑いで埋まっていく。研磨くんは「全然分かってないけど、俺と相性の良い星座調べてみたよ」なんて、自分でも笑いながら喋っていた。そういえば、笑いながら喋るところは初めて見るかもしれない。

「星占いって、どこまで当たるんだろうね? みんなは信じてる? 俺? 俺はいいことだけ信じるかな」

 そういうところは私も同じ。いいことだけ信じて、良くないことは信じていない。

 研磨くんの声を聞きながら、おとめ座のスピカを指先でなぞった。

「俺は天秤座なんだけど、一番相性がいいのはおひつじ座なんだって。みんなの星座も教えて」

 どくん、と心の奥が跳ねる。コメント欄にリスナーさんの星座が書き込まれていったけれど、おひつじ座の人はいない。

「嘘、誰もいないの?」

 おとめ座のスピカも、しし座のなんとかも、もう目に入ってこなかった。全部がラメをこぼしたかのように見えてくる。私のスマホの明かりが、星空の光を曖昧にした。

 震える手で、スマホをタップする。

青い星『わたしおひつじ座です』

 その瞬間、研磨くんの動きが一瞬止まった。回り続ける星の中で、研磨くんと私だけが止まっている。彼の声が、『火星の裏側』でも『コヅケン』でもない声色に変わった。

「青い星さん、おひつじ座なんだ! じゃあ、最近誕生日だった? っていうか、72人も聴いててひとりだけ?」

 コメントが増えていくけれど、同じ星座の人はいない。ドキドキしていた。こんなの、まるで運命みたいだって。

「もしも青い星さんが隣にいたらさ」

 どくん、どくん。心臓の音がうるさい。真空空間に行ったら鼓動の音がうるさいっていうけれど、こんな感じなのだろうか。

「俺たち相性いいかもね」

 それは、もしもの話。もしも、隣にいたらの話。みんなにはきっと、そう聞こえている。けれども私は彼の隣にいて、私の隣には彼がいる。

『火星の裏側さんは、どういう人がタイプですか?』

 誰かがそう質問して、研磨くんがそれを読み上げる。私は仕事相手。研磨くんは仕事とプライベートは分ける人。恋愛対象になんてなるはずがない。

 なのに今、彼は私の瞳を見つめている。

「好きなタイプ? うーん」

 ああもう。それ以上は言わないで。

「地球人かな」

 研磨くんは私の方を見つめたまま、口元を緩めてそう言った。綺麗な星は地球。好きなタイプは地球人。私のハンドルネームは青い星。

 これって、からかわれてるの?

 それからのことはあまり覚えていない。気がついたら配信が終わっていて、私たちは黙ったまま星空を見つめていた。

 ひとつ、分かったことがある。

「ね、今の研磨くんはどっち?」

「なにが」

「コヅケン? それとも火星の裏側?」

「今は孤爪研磨」

「孤爪研磨くんも、地球人が好きなの?」

 星が軌道を変えちゃいそうなほどに、私の気持ちに変化があったということ。それは、紛れもない事実。そしてその理由に気がついてしまって、自分の鈍さに呆れてしまう。今更気がつくだなんて。きっと最初からそうだったのに。

「うん、あれ俺の本音だもん」

 これって何? 告白? 勘違いしてもいいの?

 研磨くんは宇宙みたいに不思議。本当に火星人なんじゃないの?

 私は地球人? だなんて、到底聞けるはずもない。自覚したばかりのこの気持ちを抱えるだけで、いっぱいいっぱいだというのに。

 綺麗な星は地球。好きなタイプは地球人。私のハンドルネームは青い星。

 ねぇ、研磨くん。自惚れるくらい許される?

 たぶん、きっと最初から。

 私はきみのことが好き。

火星の裏側で抱きしめて8

スピカⅡ

 玄関先であかねちゃんを見送った頃には、空は暗くなり始めていた。空には一番星がきらりと光っている。今日は気温が高いから半袖を着てきたけれど、外は少し肌寒い。あかねちゃんの姿が完全に見えなくなった頃、研磨くんが口を開いた。

「あかねと何喋ってたの?」

「えっ!? いや、その、大学の話とかバレーの話とか……、色々。でも良かった。私友達少ないから、いい友達になれそう」

「友達いるじゃん。大学で見かけたけど」

「あー……、うん。見たんだ」

 確かに、友達はいる。けれども、本当に心のうちを話せるかと聞かれたらそうとは言えない。だから、あかねちゃんみたいな子と出逢えたことにホッとしている自分がいた。

「あかねと、『火星の裏側』の話とかしてないよね?」

「!? してないよ!?」

「よかった。あれは俺と『青い星』さんだけの秘密だから」

 突然切り出された『火星の裏側』さんの話題に、ドッドッと胸が高鳴る。同時に、また『青い星さん』と呼ばれてしまったことにモヤモヤしてしまう自分もいた。けれども、今はドキドキの方が大きい。『火星の裏側』さんと共有の秘密を持っているのだから。

「今日、配信するけど、あっち」

「本当!?」

「聴いていく?」

 仕事モードがすっかり抜けた研磨くんにそう聞かれて、大声で「うん!」と叫んでいた。先ほどまでの肌寒さはどこかに飛んでしまって、夏になったかのように身体が熱い。研磨くんといると、よく思うことがある。私、火星の裏側まで飛べちゃいそうだなって。なぜなのか、到底分かるはずもないのだけれど。

「じゃ、準備したら出かけるからついてきて」

「えっ? 外で配信するの?」

「うん。いい場所あるから。電波は微妙だけど」

 寒いからこれ着て、と赤色のパーカーを手渡されて、それに袖を通した。私が着るとぶかぶかで、まるで寝巻きみたいなサイズ感になって。研磨くんって男の子なんだなぁ、って当たり前のことを思った。

 研磨くんの準備を待って、ふたりで外に出る。空は先程よりも藍色に染まっていて、夜の訪れを知った。今夜も星がよく見える。

「うしろ、乗って」

 研磨くんが、玄関脇にとめられていた自転車を動かしながらそう言う。ふたり乗りなんて、友達ともしたことがない。

「ふたり乗り、したことない」

「真面目なんだ」

「真面目って言われるの好きじゃない」

「褒めてるつもりだけど」

 研磨くんが自転車に跨ったので、私も荷台に腰をおろす。「重いからね」と言ったら、「知ってる」とからかわれた。

「行くよ」

 そう聞こえて、ペダルがカラカラと回り始める。私の周りの景色が急速に色をつけて、目が回りそうな早さで動きはじめた。風が、草のにおいを連れてくる。研磨くんの髪が風に吹かれてさらさらと揺れて、私の髪も同じように揺れた。

「ちゃんと掴まってて」

 腕をぐいっと引き寄せられて、研磨くんに抱きつくような格好になる。なにこれ。まるで、恋人同士みたいな、そんな距離感。きみと私の距離は、惑星ひとつ分離れているはずなのに。心臓の音が聞こえそうなくらい、今は近くにいる。

「いま見えてる一番星は金星。宵の明星。いちばん明るい女神星」

「その声、ずるい」

「聞こえない」

「なんでもない!」

 研磨くんが、『火星の裏側』の声で囁く。ずるい。本当にその声、ずるい。研磨くんに対しての気持ちは分からないけれど、『火星の裏側』さんに抱く憧れが、私の心をぎゅっと掴む。

「あ、飛行機」

 研磨くんがそう言った瞬間、飛行機が流星のように飛んでいった。日は完全に沈み、夜のにおいが私たちを包む。視界をさえぎるものは何もない。

「上り坂重い……、降りて」

「聞こえない」

「それ、ずるい」

 なんて、さっきと逆のやり取りをされたから、聞こえてたんじゃんって思った。

 あー、本当にもう。隣の星まで飛べちゃいそうだよ。

火星の裏側で抱きしめて7

スピカⅠ

 研磨くんが用意してくれたアイスコーヒーには、今日も星型の氷が入っていた。あかねちゃんがガムシロップとミルクを入れて、それをぐるぐるとかき混ぜる。居間に通されて五分もしないうちに、私たちはお喋りに夢中になっていた。

「へぇ〜、あかねちゃんのお兄さんが研磨くんと同級生なんだ」

「そうなの! 高校の部活が一緒で」

「部活?」

「そう! バレー部! 研磨くんセッターだったんだよ! 星羅ちゃんスポーツは見る? バレーは素敵よ〜!」

「うーん、あんま見ないかな」

「じゃあ今度一緒に観に行こう!」

 あかねちゃんの提案に、なぜか自然と「うん」と了承していた。こんな風に、友人からの誘いにオッケーを出すのは久々かもしれない。というか、私の中であかねちゃんがもう友達認定されている、というのも不思議なんだけれど。

 それよりも、研磨くんがスポーツをしていたことにびっくりだ。だって、あんなに体力がないことを強調しているし。そういえばと、『セッターの極意』という本が棚に並んでいたことを思い出す。バレーボール、今でも好きなんだろうな。

 コーヒーを一口啜って、またあかねちゃんに話しかける。初対面なのに言葉に詰まらないのは初めてかもしれない。

「お兄さんと研磨くんが同級生ってことは、お兄さんとは二個違い?」

「ううん、三つだよ。あ、研磨くんって一年大学休学してたの。だから歳は私たちの三つ上」

「そうなの!? 知らなかった! ……まだ知らないことだらけだな〜、研磨くんのこと」

 研磨くんは、本当に謎の多い人だと思う。その謎を知りたいと思うのは、彼が『火星の裏側』さんだからだろうか。

 私がふう、とため息をつくと、あかねちゃんがわくわくしたような表情をして口を開いた。身体はテーブルに乗り出していて、目をきらきら輝かせている。そしてあかねちゃんの口から発せられた言葉に、私はコーヒーを吹き出しそうになってしまうのだった。

「ねぇ、もしかして、星羅ちゃんって研磨くんのこと好き?」

「ごほっ! えっ!? えっ!?」

「そういう顔してたよ〜!」

 女の子はすぐ恋愛の話に持って行きたがる。けれどもあかねちゃんの話はそういうのとは違う感じがして、いやじゃなかった。

 それよりも! んん!? 私が研磨くんのことす、す、好き!?

「ううん! そんなんじゃないから! それに、研磨くん彼女いるんでしょ?」

「いないと思うけど」

「……ルナさんは?」

「仕事相手でしょ! 研磨くんのそういう話聞いたことないけど、仕事とプライベートはきっちり分けるタイプだと思うの! だからルナさんともそういうんじゃないと思う!」

 そういえば、在宅仕事だからプライベートとは部屋を分けている、って言っていたっけ。ルナさんがただの仕事相手なら、私もそう。恋愛対象にならないのは、私も同じなんだろう。

「あっ、でもね! 星羅ちゃん望みあると思うの!」

「へっ!?」

「だって研磨くん、星羅ちゃんと話す時見たことない顔してたもの!」

 そんなことを言われたら、話しやすいあかねちゃんに対してでもなんと答えたらいいか分からなくなる。身体がかあっと火照ってしまうのを感じて、アイスコーヒーをズズッと飲み干した。星型の氷は、溶けて変な形になっている。

「星羅ちゃんと話す時口数多い気がするし! なんか喋り方も違うし!」

「そ、それは出会って間もないからだと思う! あかねちゃんたちと話す時は自然体っていうか」

「まあ、応援してるよ!」

「違うんだって〜!」

 友達ときゃあきゃあ恋愛話で騒ぐなんて、ばからしいと思っていた。けれども、この時間はなぜだか楽しくて不思議な感覚になる。私が研磨くんのことをどう思っているかはさておき、この時間が楽しいのはあかねちゃんのおかげだろう。

 笑い合ったあとはまたバレーボールの話に戻って、私たちは夏に行われる漫画とのコラボ試合を見に行く約束をした。研磨くんの仕事が終わるまで一時間ほどだったけれど、充実した時間を送れたのだった。

火星の裏側で抱きしめて6

フルムーンには敵わないⅢ

 帰宅した頃には、雨が本降りになっていた。濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭いて、部屋着に着替える。自室のベッドにゴロンと寝転んで、普段はあまり見ないスマホをタップした。今寝ているベッドは研磨くんのベッドより少し狭くて、あの部屋に泊まった日のことを思い出す。まぁ、何もなかったんだけれど。

 スマホの画面をなぞる指が、無意識に『コヅケン ルナ』と検索していた。予測変換で表示されたのは『コヅケン ルナ 動画』。その次に『コヅケン ルナ 交際』。『コヅケン ルナ 付き合ってる』と続いて、はぁ、と溜息をついた。

 どうしてだか、ふたりでコラボしている動画を見ることが出来ない。そのままスマホを閉じればいいのに、私はルナさんの動画を検索して開いていた。

『ルナ 動画』と検索して、今日会ったご本人の登場する映像を再生する。撮影用に可愛らしくセットした部屋なのだろうか。

 ピンクを貴重とした部屋の中で少し話をしてから、『じゃー今日はこれを進めていきまーす!』と私の知らないゲームをプレイし始めた。楽しそうにお喋りしながら、ゲームを進めていくルナさん。研磨くんの動画ですら数回しか見たことのない私にとってそれは斬新で釘付けになるのに時間はかからなかった。

 面白いじゃん、ルナさん。

 そう、今日私をモヤモヤさせた張本人ルナさんの動画は、とても面白かった。チャンネル登録者の数だって、見たこともないような数字だ。

 研磨くん、こんな凄い人とコラボしてるんだ。

 そう思うとまた胸のモヤモヤが増していって、私はスマホを閉じた。今度は研磨くんに借りたゲーム機を取り出して、電源を入れる。彼にとって私は仕事相手。少しでも役に立たなきゃいけない。まずはこのゲームについて把握することが大事だ。

 けれども心はモヤモヤしたままで、頭がゲームに追いつかない。私はそれを気圧のせいにして、数分後にゲームの電源を切った。

 雨は強さを増していた。

 私が研磨くんのうちに行くのは水・木・金の週三日間。午前中しか講義が入っていない曜日に合わせて、研磨くんが調整してくれた。

 つまり、ルナさんと顔を合わせた次の日も私はそこを訪れていた。

「昨日はごめん。日給入れておくから」

「いいのに」

「いや、俺の都合だから」

 今日の研磨くんは仕事モードだ。まぁ、私と作業部屋にいる時は大体こんな感じなんだけど。

 けれども、ルナさんといる時はなんだか違った。電話をしていたあかねという女の子や、翔陽くんという人と同じ、気を許しているような態度。付き合いが短いせいもあるかもしれないけれど、私にはそんな態度は見せない。

 じゃあ、あの夜は何だったの? 『火星の裏側』さんの時の研磨くんは一体何者なの?

 そんなことをぐるぐると考えても仕方がない。とにかく今は仕事モードにならなきゃいけない。

「この神様ってなんだっけ。みんな名前似てるし覚えられない」

「それはこのキャラの元になった神様だよ。ほら、杖の形いっしょ」

「なるほど。それなら覚えられそう」

 研磨くんは興味があるものしか覚えられないらしく、ゲームと絡めるとすぐに吸収してくれる。そのことを言ってみたら、『面白いものが好きなだけ』と言っていた。

 そういえば、私と初めて会った日も『きみって面白い』って言われたんだっけ。私を選んだ理由がそこにあるのならば、ルナさんとコラボしている理由も同じものなのだろうか。

「ね、研磨くんってどうしてルナさんとコラボしてるの?」

 研磨くんといると、疑問がどんどん湧いてくる。今もそうで、つい心のうちを声に出してしまった。

「ルナの動画面白いから」

「私も見た。面白いよね」

「……動画とか見るんだ」

「ちょっと興味あったから調べたの」

 そこまで話すと、研磨くんは作業に戻ってしまった。私も休めていた手を動かす。面白いから。

 そう、彼にとって選択するかしないかは『面白い』かどうか。私だけが特別なわけじゃない。『面白い』という括りの中にいるだけだ。まあ、人生でそんな枠の中に入ったことは初めてだから、誇らしくもあるのだけれど。

 そこからは作業に没頭していて、我に返ったのは玄関の呼び鈴が鳴った時だった。またルナさんが来たのかと思って、つい身体がこわばってしまう。時計を見れば二時間が経過していて、自分の集中力に驚く。

「あー、忘れてた……。来るって言ってたのに」

「? ルナさん?」

「ルナだったら勝手に上がってる。ごめん、ちょっと付き合って」

 ルナさんだったら勝手に上がってる。その一言にまた心がずんと重くなるのを感じた。その理由も分からずに、研磨くんのあとをついて玄関へと向かう。彼が扉を開くと、そこには小柄で可愛らしい女の子が立っていた。

「あら、新しいバイトの子? 私研磨くんの友人の妹で、山本あかねです!」

 あかね。あかねさん。この子は、昨日研磨くんと電話をしていた女の子だ。

 私を見るなり明るく挨拶をしてくれるその子は、どうやらルナさんとはまた違った『陽キャタイプ』のようにみえる。感じのいい挨拶をされたので、私も自己紹介をした。

 研磨くんが、申し訳なさそうな顔をして口を開く。すっかり彼の仕事モードは抜けているようだった。

「折角来てくれたのにごめん。今立て込んでるから、ちょっとこの子と話してて」

 研磨くんはまた私のことを『この子』とかそういう呼び方をする。名前で呼んでくれないのはなぜだろう。っていうか、初対面の女の子とふたりきりにさせるつもり!? 研磨くんの意図が分からなくて、戸惑うことしか出来ない。

「同い年でしょ、ふたり」

「そうなの!? よろしくね!」

 あかねさんがそう言って、私の手を握る。やはりこの子は陽キャタイプのようだ。いやな感じはしないので、私も「よろしくね」と言っておいた。

 そうして研磨くんの仕事に区切りがつくまでの間、私とあかねさんは居間で謎のお茶タイムを過ごすことになったのだった。

火星の裏側で抱きしめて5

フルムーンには敵わないⅡ

 水曜日の1コマ目のあと、友人たちから逃げるようにして図書館を訪れた。はしご階段を上り、3階の一段上のスペースへと辿り着く。研磨くんは先に到着していたようで、床に座って分厚い本を捲っていた。

「お疲れ」

 物音で気づいたのか、研磨くんからそう声をかけられる。読んでいたのはくずし文字で書かれた文献で、経済学部の彼が読めるとは到底思えなかった。

「研磨くん、それ読めるの?」

「まさか。日文科の人はみんな読めるの?」

「うーん。そういう授業取ってる人だけかな」

「じゃ、読めるんだ?」

「うん。私は読めるよ」

 あれ。あれれ。今日の研磨くんはなんだか穏やかだ。仕事部屋にいないからだろうか。言うならば、『火星の裏側』モードに近い。この人、本当にコヅケンと同じ人なのかな、なんてまた疑ってしまう自分がいる。

「じゃ、また本選んで行こっか」

「……ね、研磨くん。私と一緒にいたの噂になってる」

「……へー、そうなんだ」

「一緒に歩いたら、勘違いされちゃうかも」

「いいんじゃない?」

「へ?」

「起こして」

 そう言って手を伸ばしてくる研磨くんを、引っ張り上げるようにして立ち上がらせる。手と手が触れ合って、やっぱり思っていたより大きくてごつごつしている手だな、なんて思った。互いの体温が伝わって心地良い。引っ張ったら近づいてくるこの距離感は、私の胸をドキドキさせるには充分すぎる。ああ、もう。調子狂うな。

「火星大接近」

「え?」

「七月末にさ、火星が地球に大接近する」

「そうなんだ。知らなかった」

「晴れたら配信するから、一緒に見る?」

「うん……」

 研磨くんはそう言って、また瞳をきらきらさせながら私の顔を見た。研磨くんの瞳の中に、私の姿がうつる。吸い込まれてしまいそうで、思わず目を瞑った。

ーーこと座のベガは織姫星。青い一等星。夏の大三角を結んだ先にある彦星は、わし座の一等星アルタイル。出逢ったふたりは恋をした。

ーー今年の七夕は晴れるかな?

 眠りながら聴いた『火星の裏側』さんの声を思い出す。七夕はどうでもいいから、火星大接近の日は晴れてほしいな、なんて思った。

 胸の奥がどくどくと音を立てるのはなぜだろう。身体の奥が沸騰しそうなくらい熱いのはなぜだろう。引力に引っ張られるかのように、あの瞳に釘付けになってしまうのはなぜだろう。

 初めての気持ちに戸惑いを覚えるばかりで、それからの移動時間のことはよく覚えていなかった。

「じゃ、今日の作業しよっか」

「うん。一章のキャラの元になった神様まとめてきた」

「ん、そこ置いてて」

 研磨くんは作業部屋に入ると、途端に『コヅケン』モードに入ってしまった。置かれたグラスの中はまた、星型の氷入りのアイスコーヒー。これを用意してくれる辺り優しい人なんだろう。

 研磨くんの横に腰をかけて、書き込んだルーズリーフとコピーした資料を差し出す。研磨くんは真面目そうな顔でそれを見ていた。私も仕事モードに切り替えなければならない。

 研磨くんのスマホが音を立てたのは、そんな時だった。画面を見た彼の顔から『仕事モード』が抜けて、『孤爪研磨』のそれになる。

「もしもし? あかね?」

 あかね。……あかね。

 電話の向こうから聞こえるのは女の子の声で、彼女いるんじゃん、と心の奥の自分がつぶやいた。いるよね、彼女くらい。目立つし、有名人だし、イケメンだし。だって今、研磨くんの顔が見たこともないくらい自然体だ。

「うん、分かった。トラにもそう伝えてて。じゃ、また」

 そう言って電話を切る研磨くんに、思わず「彼女さん?」なんて聞いてしまう。ああ、バカ。こういうことには踏み込んじゃいけないのに。

「あかねは彼女じゃないし」

 どうしてだか、そう返ってきた瞬間ホッとしてしまう自分がいてそのことにまた戸惑いを覚える。あかねは、ってことは、他の子が彼女なの? それとも彼女はいないの? どうしてだか、そんなことが気になってしょうがない。研磨くんに彼女がいようがいまいが、私には関係のないことなのに。

 次の言葉に迷っていると、研磨くんのスマホがまた音を立てた。今度はビデオ通話のようで、スマホの画面にパッと誰かの顔がうつる。ユーチューバーって忙しいんだなぁ。

「もしもし、翔陽?」

『あっ、研磨今大丈夫!? あっちにいた間のスポンサーの件なんだけど!』

「うん、今いいよ」

『あれっ!? 隣女の子いる!? 研磨くんにもついに春が!?』

「仕事相手だから……」

 仕事相手だから。

 その言葉にどうしてだかまた胸の奥がモヤモヤしてしまう。仕事相手の他に私を表す言葉なんてない。彼は正しいことしか言っていないのだ。

 研磨くんは五分間ほど『翔陽さん』と喋っていたけれど、私はその間ずっと研磨くんのことを考えていた。頭の奥がぐるぐると回る。まるで無重力に酔ってしまったみたいな、そんな感覚だ。

「……ごめん、電話終わった。進めてくれててよかったのに」

「あっ、ごめんね! 続きやる!」

 友達らしき人物から連続で電話があるだなんて、きっときらびやかな人生を送ってきたのだろう。私なんて、講義のノートなんかが目当てで友人が集まってきているようなものなのに。彼はコミュ障だなんて言っていたけれど、そうじゃない。私とは正反対の、輝かしい人物。

「あ、誰か来た」

 電話の次は呼び鈴だ。本当ユーチューバーって思っていたより忙しいんだな。

 ピンポーンと数回音が鳴って、玄関の開く音がする。研磨くんが作業部屋のドアを開けると、「コヅケ〜ン♡」と高い声で飛び込んでくる若い女性の姿が見えた。

「……ルナ、勝手に上がらないで」

「いいじゃん! コヅケンと私の仲でしょ?」

「来るって聞いてないし」

「さっきメッセージ送ったよ〜♡  あれ? 新しいバイトさん?」

「そう」

 金髪に、胸の谷間を強調するような服、短めのスカート、目元がキラキラした派手なメイク。物凄いハイテンションで飛び込んできた彼女は、見るからに『陽キャ』な人物だ。

 ……っていうか誰!? 誰!? あかねの次はまた女の子!? やたらと馴れ馴れしいんだけど!

「前のバイトくんコヅケンがコミュ障すぎて辞めたんでしょ〜? もっと優しくしなきゃ! 私みたいに!」

「ルナは陽キャすぎんの」

「コヅケンが陰キャなんでしょ!」

 自称コミュ障で、女の子が苦手、人付き合いが苦手だという研磨くん。けれども今は、この『ルナ』という女性と親しげに話している。唖然としていると、ルナさんが私の方を向いて話しかけてきた。

「ごめんね〜、いきなり来てびっくりさせたかな!?」

「はぁ……、初めまして」

「……もしかして、私のこと知らない?」

「……すみません」

 あー……、もしかして、この人もユーチューバーなのかもしれない。研磨くんと親しそうなあたり、きっと有名配信者なのだろう。そんなことをぐるぐる考えていると、研磨くんが口を開いた。

「その子、俺のこともあんま知らなかったから」

 そう言われて、ズンと心の奥が重くなる。『その子』。私、『その子』なんだ。

 あかねさんのことも、ルナさんのことも下の名前で読んでいるのに、私の名前を呼ばれたことは一度もない。『青い星さん』の、たった一度だけ。それもハンドルネームだし。

「へぇ〜! 絶滅危惧種〜!」

 ルナさんが物珍しそうな目をして、そう言う。なんだか見下されたような気分になって、また胃の奥がズンと重くなった。

 大学でだって、いや、小学生の頃からそうだった。私は真面目な優等生で、それだけで相手にバカにされてしまう。集まってくるのは宿題を移させてほしい子たちばかりで、いつもその中で馴染めずにいた。きっと、研磨くんの隣にいるには相応しくない人種だ。

 研磨くんが「コーヒーでいい?」と聞いて、ルナさんが「カフェオレがいい〜♡」と答える。カフェオレを用意しに部屋を出た研磨くんの背中を見送った頃、ルナさんが小さな声でつぶやいた。

「ね、コヅケン女の子のこと仕事相手としてしか見ないから、勘違いしないでね♡」

 耳元でそう囁かれて、ぞわりと寒気が走る。

 ……私、そういう風に見えてた?

 そう思うとかあっと身体が熱くなっていく。そんな、まるで私が研磨くんに恋しているみたいな、そんな言い方。そんなんじゃないのに、女の子はいつもそういう方向に持って行きたがる。

「何これ? 星座と神話の本? コヅケンこんなの読むの?」

「……! 触らないで!」

 私と『火星の裏側』さんの接点に触れられたような気がして、思わず本を奪い取ってしまった。ルナさんは何かを確信したような顔で、私の方を見ている。

「なにー? 本気狙い?」

 そんなんじゃない。私と研磨くんはそんなんじゃないし、『火星の裏側』さんに憧れているだけ。

 なんと答えればいいのか分からなくて黙ってしまったその時、ルナさんお望みのカフェオレを持った研磨くんが戻ってきた。

「カフェオレだぁ♡ コヅケンって本当ルナには優しいよね」

「……ごめん、これからコラボ動画撮ることになったから、今日はここまででいい?」

 研磨くんにそんなことを言われたら、頷くしかなかった。勝ち誇ったような顔をしたルナさんを見ると、モヤモヤが更に増殖していく。まるで星空を隠す雲のように。

『地球すごい綺麗』

 あの言葉は、あの行動は一体何だったのだろう。私、揶揄われてるのかな。

 そうして帰った帰り道はぽつりと小雨が降っていて、私の心の雲をさらに広げていった。今日は星空は見えない。このモヤモヤが何なのか正解も分からぬまま、ただ電車に揺られるしかなかった。

『きみの好きな星は何?』

 リフレインする彼の声は、優しい響きだった。

火星の裏側で抱きしめて4

フルムーンには敵わないⅠ

ーーこと座のベガは織姫星。青い一等星。夏の大三角を結んだ先にある彦星は、わし座の一等星アルタイル。出逢ったふたりは恋をした。

ーー今年の七夕は晴れるかな?

 はっ、と目を覚ますと、見慣れない天井が視界に広がった。きょろきょろと辺りを見渡す。壁に掛けられている男性もののジャケット、和室に似つかわしくない奇妙な形の照明。どうやら私はベッドの上に寝ていて、普段私が寝ているものよりも少し広いと気がつく。

 目をこすりながら、昨日の記憶を呼び覚ます。えっと、どうしてこんなところにいるんだっけ?

 昨日は確か研磨くんのうちに来て、一緒に配信を聴いて……、そのまま眠くなってきて……。

『地球すごい綺麗』

 そこまで思い出したところで研磨くんの声が蘇ってきて、身体が爆発するかと思った。かあっと体温が上昇していくのが分かる。

 きのうの、あれは何だったの?

 研磨くんに手を握られて、顔を見つめられながら言われたことば。あれは何!? 一体何なの!? やっぱりコヅケンってチャラいんじゃないの!?

 とにかく、この場所を脱出せねば。『あんま男の部屋にホイホイ入んない方がいいよ?』と言われたことを思い返して、もそもそと布団から抜け出した。衣服の乱れはない。そのことにホッとしつつ、部屋の扉を開いた。

 とりあえず、研磨くんに帰りますと伝えなければならない。作業部屋にいるのかな、勝手に開けていいのかなと戸惑っていると、玄関の扉がガラガラと開く音がした。上がってきたのはもちろん家主の研磨くん。玄関の方にひょこっと顔を出すと、「起きたんだ」とクールな表情で話しかけられた。

「お、おはよう。あの、昨日は……」

「寝てたから、連れてっただけ」

「ありがとう。重かったよね」

「うん。俺体力ないし」

 そう言う彼が身につけているのは赤色のジャージで、少し額に汗をかいている。じろじろと見つめていると、研磨くんははぁ、と溜息をつきながら答えた。

「ウォーキング。在宅仕事だと体鈍るし、運動しないと頭働かないから」

「へぇ」

 運動なんてしそうにないのに意外だな。体力がないのを強調するわりには、しっかり運動しているんだ。っていうより……、昨日と態度違う!?

「あの、わたし朝イチ講義だから帰るね」

「うん、お疲れ」

「おじゃましました……」

 研磨くんはそっけない態度で、後ろを向いたままゆるく手を振った。丸まった背中が作業部屋へと消えていく。私はそれを見届けてから、研磨くんのうちを後にした。

 ……んー。んんん!? 今の研磨くんって仕事モードだよね!? じゃあ、『火星の裏側』の時の彼って一体何者!? 本当に同じ人物なの!?

 手を握られて見つめられたというのに、そんなことは覚えていないかのような態度で接されてしまった。なんだか心の奥がずん、と重くなる。そんな気持ちになるのは、きっと急にクールな態度をとられたからだろう。

 けれども私の心は昨日(性格に言えば今日)の夜置き去りにされたままで、まぶたを閉じれば星空が浮かんでくる。まだ、ドキドキしている。当たり前だ。憧れの『火星の裏側』さんの配信を、真横で聴けたのだから。

 電車に揺られながら夜の出来事を思い出しているうちに、大学の最寄駅に着いていた。

「星羅、コヅケンと一緒に歩いてたって本当!?」

 大学に着いて友人に会うなり、ぶっ飛んだ質問が降ってきた。飲んでいたカフェオレを思わず吹き出しそうになってしまうほどに、私は動揺していた。研磨くんといっしょに歩いたのは水曜日。木・金・日と研磨くんの家に行って、今日は月曜日。まだ一週間も経っていないというのに、というか一回しか一緒に歩いていないのに、どうして噂になっているのだろう。有名人の持つ力は半端ない。

「えっ、なんで……!」

「さよちゃんが見たって言ってた! 他ゼミの子も見かけたみたいだし、どーなってんの!?」

 友人の言葉に、周りに座っていた他の友人たちも詰め寄ってくる。質問攻めにあってしまった私は、正直に答える他なかった。

「……あー、なんかね、動画の手伝いのバイト? することになった」

「ハァ!? 何それ羨ましすぎるんだけど!?」

「何がどうしてそうなったの!?」

「ってことはコヅケンの家に行ったってこと!? ふたりきり!? なんかあった!?」

 みんなが前のめりになりながら、質問を投げかけてくる。なんかあった!? の質問にむせそうになりながら、「何もないよ」と答えた。

 きっと友人たちの言う『何か』と、私の中の『何か』は全く違うものだ。手を繋いで見つめられたくらい、年相応の大学生である友人たちには『何もない』に等しいのだから。

「星羅真面目だもんな〜!」

「でもさ、今のうちに処女捨てといた方がいいよ!? その辺の男でさ!」

 友人のひと言に、次は本当にごほごほとむせてしまう。カフェオレが気管に入りそうになって、喉の奥が痺れた。

「ちょ、声大きいって」

「だってさ、いざコヅケンとヤることになるとするじゃん!? バージンは重いよ!」

「それね! だって相手有名人じゃん? 絶対慣れてるって」

「だからそんなんじゃないから」

「星羅本当に真面目〜!」

 友人たちはこの手の話題が大好きなようで、オブラート無しで大声で話す。正直そういう話は苦手な方なので、モヤモヤした気持ちでいっぱいになった。どうしてこう、ヤる……、とかそういう方向に持っていくんだろう。私たちは、そういう関係じゃないのに。

『たまにあるんだよね、女の子から襲われそうになるの』

 ふと、研磨くんが言っていたことを思い出す。襲われそうになって、そのあとどうなったんだろう。私にその気がなくて安心だと言っていたし、何も無かったのかもしれない。まあ、本当のところは分からないけれど。

 でも、研磨くんがそういうのに流される人だったら、なんだかいやだな。なぜだかそういう気持ちがふっと湧き出てきて、はっ、と我に返る。いや、違う。たぶん、『火星の裏側』さんに憧れているから、そういう風に思うのだろう。研磨くんがどうであれ、私には関係のないことだ。

 心の中に渦巻くモヤモヤしたものを押し込めるようにしながら、シャーペンを手に取る。ルーズリーフを一枚取り出して、これから始まる講義に集中することにした。隣ではまだ友人たちがコヅケン談義に花を咲かせている。

 コヅケンかぁ。火星の裏側さん。孤爪研磨。けんま。けんまくん。

『地球すごい綺麗』

「わーっ!!!!!」

 その瞬間、いきなり夜の出来事を思い出してしまって、気がついたら叫んでいた。ストローを刺したミルクティーが、傾いて少しこぼれる。乳白色に近いそれはまるで天の川。こと座のベガは織姫星。青い一等星。研磨くんの声が、顔が、瞳が鮮明に浮かび上がってくる。

「星羅どした!?」

「ミルクティー溢れてるし!」

「珍し! やっぱ何かあったんじゃなーい?」

 ポケットティッシュを取り出して、溢れたミルクティーを拭きながら、「違うから!」と言い訳がましく返す。これ、余計に怪しいじゃん。

 火照った顔を手でペチペチと叩いて、冷静さを取り戻そうとつとめる。けれども数秒後、『研磨くん』からのメッセージの通知音でその努力は無駄となってしまった。

『水曜1コマ目のあと、図書館3階のあの場所ね』

 どうやら、次に彼に会うのは二日後のことらしい。たったそれだけの約束なのに、身体の芯から熱が湧き上がってくる。その理由も分からないまま、火照る身体を冷まそうと努力するのだった。

火星の裏側で抱きしめて3

スターダストミッドナイトランⅢ

 スターダストミッドナイトラン。日本神話とギリシャ神話を織り交ぜた独自のストーリーを展開する、最新のゲーム。研磨くんに借りたそれの一章をクリアする頃、約束の日が訪れていた。

「おじゃまします」

 研磨くんのうちの最寄駅で電車を降りて、真っ暗な夜道を歩いて到着した。研磨くんは「迎えに行くつもりだったのに」と少し焦った様子で、それが意外で笑ってしまったんだけれど。

「ま、無事に着いたならいいや。今度から先に連絡して」

「はーい。この辺、星がよく見えるんだね」

「田舎だからね。予定、真夜中だからゲーム進める?」

「おじゃまします。うーん、今日は一章クリアしたから、ストーリーまとめたいかも」

 そんな会話を繰り広げながら、靴を脱いで彼のうちに上がる。玄関の床が、ギシリと音を立てた。

「……またホイホイ夜中に男のうちに来た」

「研磨くんが来てって言った」

「ま、そーだけど。……二時から配信するから」

「二時? そんな時間にゲーム配信?」

「そっちじゃない」

 研磨くんが顔を上げて、いつもの不敵な笑みをみせる。次に鼓膜に届いた言葉は、私の心を潤わせるには充分すぎた。

「今日は、『火星の裏側』」

 心臓がどくどくと脈打つのを感じる。『火星の裏側』。その言葉を聞いただけで、呼吸が乱れそうになるほどにおかしな気持ちになる。この気持ちはきっと、ただのあこがれ。

 速まる胸を抑えて、配信までの時間ゲーム考察をまとめて過ごした。

 瞳を開けば満天の星空。どうしてだか今私は、研磨くんとふたりで芝生の上に寝転がっている。

「ハロー、火星の裏側です!夜なのにハローは変かな。今夜はこと座流星群だね。きみの住んでる街の天気はどう?こちらは晴れ、視界良好。天体望遠鏡も用意したよ」

 約一時間前、研磨くんのうちのお庭に天体望遠鏡を立てて、上弦の月が沈むのを見届けた。天候は晴れ。月は沈んで、遮るものは何もない。絶好の星座観察日和だ。

 研磨くんのスマートフォンが、生配信画面に切り替わっている。『コヅケン』の動画を見てみたけれど、『火星の裏側』の時は少しだけ声を変えているようだっだ。優しく届く柔らかい声が、深夜二時の空気を澄んだものに変える。どきどきしていた。きっと今、憧れの『火星の裏側』さんの配信を本人の隣で聞いているからだろう。

「ピークは3時。月がないから条件サイコーだね。日本列島って長いからさ、月の見える位置とかも違うのかな。こっちは一時頃に月が沈んだんだけど。あ、西の民さんこんばんは! コメントありがとう。九州なんだね。そっちは曇りなんだ。雲、晴れるといいね。ペルセウスさん、ありがとう! 北海道なんだね」

 研磨くんの声を聴きながら、芝生に寝そべったまま夜空を見つめる。彼が火星にまつわる話なんかをしている間、私は黙って流れ星を待っていた。

日付が変わって4月23日。深夜2時15分。真上を見上げているので方角なんて分からない。宇宙に放り込まれたような空間の中で、隣にいる研磨くんの手がこつんと当たる。ドキドキしているのは『火星の裏側』さんの生配信のせいだ。見た目よりごつごつした手をしているんだな、意外だな。そんなことを考えていると、夜空に一本の筋が流れるのが見えた。続けてもう一本、細い線が流れる。

「……っ!」

 声を上げそうになったその瞬間。研磨くんの手が私の唇を覆った。『静かに』っと人差し指を立てられて、今が配信中であることを思い出す。研磨くんの手が直接唇に触れて、流れ星を見たことよりもそっちに心が持って行かれてしまう。心臓が口から飛び出してしまいそうだ。例えるならそう、このまま火星の裏側まで飛んでいってしまいそうなくらいに、ドキドキしている。

「今日は青い星さん来ないね」

 研磨くんが、またにやりと笑いながら私の方を見る。私の横に置かれたスマホの画面を、彼がトントンと叩く。また目配せされて、口パクで『早く』と促された。

『こんばんは。私は東京です。流れ星見えました』

 急いでスマホを手に取り、動画をミュートにしてコメントを打ち込む。最新コメントに『青い星』からのメッセージが表示されて、研磨くんの顔が満足そうなそれに変わった。

「青い星さん来てくれると思った! いつもありがとう! 東京なんだ、俺もわりと近くにいるよ」

 わりとって、隣にいるじゃん。そう思って研磨くんの方を見れば、目が合ってふっと柔らかく笑われた。

 このひと、こんな風にも笑うんだ。いつもの企んでいるような顔じゃない。柔らかで、優しい雰囲気の表情をしている。

 このひとは、『火星の裏側』さんなんだろうか。それとも、孤爪研磨? コヅケンじゃないよね、今は。分からない。分からないけれど、私の気分は高揚していた。この星の重力にさからって、ふわふわと浮いてしまえそうな気持ちにさえなる。初めてだ。こんな感情を抱くのは、生まれて初めてだからなんと表現したらいいのか分からない。けれども、ドキドキしているということだけは分かった。

「こういう時にさ、誰かといっしょに星空眺めてさ、時間を共有出来たらいいよね。友達だったりとか、恋人だったりとか。もし光の速さで飛べるなら、きみはどの星に行きたい? 俺は火星かな。赤い惑星ってのがロマンあるし」

 そう言う研磨くんの隣で、スマホをタップしてコメントを打ち込む。時刻はピークの三時に近づいている。いつの間にそんなに時間が経ったのだろう。体感時間は何百分の一だ。

『一番好きな星は火星ですか?』

 私がそう質問すると、研磨くんはうーん、と深く考えるような仕草をみせて答えた。優しい声がまた鼓膜に届く。

「うーん、前はそうだったけど最近は違うかも」

 時計が午前三時をさす。空には無数の流れ星。その絶景に思わず息を飲んでしまう。お互い初めて見る流れ星は、思っていたものの何百倍も綺麗だ。体感時間が何百分の一で、流れ星は思っていたよりも何百倍も綺麗で、身体は重力に逆らってしまいそうで。本当に宇宙空間に飛び立ってしまいそうだ。感覚が狂ってしまう。

「俺たちが住んでるこの星って本当は一番綺麗なんじゃないかって、最近思った。宇宙に行けるのならさ、俺はこの青い星を見たいよ。住んでるのに見れないって酷だよね」

 研磨くんの手が、また私の右手に当たる。皮膚と皮膚が一瞬触れ合っただけかと思えば、指先を探るように彼の手が伸びてきて、指を絡め取られた。ぎゅっと手を握られて、わけが分からなくなる。身体が爆発して消えちゃいそうだ。研磨くんの方が見れない。それでも気になってちらりと横目で見たら、研磨くんは反対側を向いていて表情が分からなかった。

「今誰かが隣にいるなら、手を繋いでみてほしい。このひと時がもっと素敵なものになると思うんだ。寝転がってみて? すご、俺いま、宇宙のなかにいる」

 うん、私もいま、同じことを考えていた。私たち、宇宙のなかにいる。

南の民さん『地球は見えましたか?』

オリンポスさん『地球みえたー?』

 コメントが次々と更新されていく。それを追うことも出来なくなって、左手に握っていた私のスマホの明かりが消えた。研磨くんの顔が、こっちを向く。

「うん、地球すごい綺麗」

 いま、研磨くんは星空を見ていない。私の瞳をじっと見つめて、そんなことを言ってのける。なにこれ。なにこれ。地球って『青い星』のこと? そんな解釈、自己都合すぎる?

 分からない。彼が何を考えているのか分からない。『火星の裏側』さんなのか『研磨くん』なのかすら分からない。どきどきしている理由も分からない。分からなさすぎて、本当にもう。この身体の熱だけで、本物の火星の裏側に触れられそう。

「あ、流れ星」

 こと座流星群だから、こと座の話をするよ。こと座のベガは織姫星。青い一等星。

 そんな話が始まって、その柔らかい声のトーンに意識が持っていかれるのを感じた。まどろみの中に引きずり込まれていく。

『きみの好きな星は何?』

 以前ならば、迷わずに地球と答えていた。宇宙で一番綺麗な星なのだから。けれども、今は即答することが出来ない。すっとまぶたを閉じても、浮かぶのは満天の星空。

 まぶたの裏に、真っ赤な星が浮かんだ。

火星の裏側で抱きしめて2

スターダストミッドナイトランⅡ

 星の数ほど人がいる中で、巡り会える確率はどのくらいなんだろう。何億分の一、いや、何十億分の一。きっと、それくらいの確率なんだと思う。その中で、チャンネル登録者数がそんなに多くはない『火星の裏側』さんを知り、校内で姿を見かけない有名人『コヅケン』さんと出会った。そして今、私は混乱している。コヅケンさんが火星の裏側さんで、火星の裏側さんがコヅケンさんだったのだから。

『それじゃ、今日からよろしく。青い星さん』

 あのあと交わした言葉はたったそれだけ。なぜ私が『青い星』だと分かったのか、どうしてコヅケンさんは『火星の裏側』として活動しているのか。聞きたいことは山ほどあったけれど言葉にならなかったし、向こうからもそれを話そうとはしなかった。

 思考というものは、時に人の行動を足止めしてしまう。電車を乗り換えて、また乗り換えをして、彼のうちの最寄駅に着くまでの間、私たちはずっと黙っていた。

「最寄駅着いた。こっから少し歩くから。俺は自転車あるけど」

「本……、ずっと持ってくれてありがとうございます」

「別に……、これくらいいいし。嘘。俺本当体力ないんだよね」

「持ちます!」

「いいよ。カゴに乗せる」

 自転車を押しながら歩くコヅケンさんの後ろについて、一本道を歩く。辺りを見渡すと山がそびえ、畑が広がっているのが目に入った。土の中から顔を覗かせている玉ねぎの列、収穫したばかりであろうそれを吊るしている民家。数週間前に見頃を終えた桜の木は、鮮やかな緑色の葉に包まれている。

 んんん? ここ、東京都だよね? なんていうか、有名配信者が住むのってもっと……。

「ヒルズとかに住んでると思った?」

「……う」

「よく言われるから」

 穏やかな田舎道に、新緑がよく映える。しばらく道なりに進んで脇道にそれたところに、その家はあった。立派な和風の一軒家だ。隣の家からは数メートル離れていて、ぽつんと一軒だけ存在している。築年数はそれなりに経っていそうだけれど、綺麗に手入れされているようだ。

「……ご実家ですか?」

「ひとり暮らしだけど? 実家は大学近いから、たまに泊まってる」

「ひとりで一軒家に?」

「それもよく言われる」

 コヅケンさんは小さく笑うと、玄関の鍵を回して扉を開いた。ふわり、となんだか懐かしい香りが漂ってくる。靴を脱いだコヅケンさんに「上がって」と促されて、私も靴を脱いだ。

「おじゃまします……」

「ねぇ」

「はい?」

「あんま男の部屋にホイホイ入んない方がいいよ」

「はぁ……?」

 入んない方がいいよ、って。そっちから連れてきたんだし、そっちから上がってって言ったのに。不思議に思ったのが伝わったのか、彼は私の顔を見るとまた小さく笑った。

「……きみって純粋だね。ま、その方が俺も安心だけど」

「?」

「たまにあるんだ。女の子の方から襲われそうになるの」

 そう言われて初めて、彼がどうして『ホイホイ入んない方がいいよ』と伝えたのかを理解した。自分が酷く幼く思えて、かあっと身体じゅうに熱がこもる。友人たちの赤裸々な話を聞かされているから、それなりの知識は持っているはずだった。まぁ、男性経験どころか誰かとお付き合いしたこともないのだけれど。

「じゃ、作業部屋行こっか」

「広いですよね。部屋いくつあるんですか?」

「居間とゲーム配信部屋と、作業部屋と寝室。四つかな」

「すご。うち四人家族だけど同じですよ」

「基本在宅だからさ。部屋分けてないと私生活とごちゃ混ぜになるから」

 私生活と仕事がごちゃ混ぜになったらいけないのだろうか。アルバイトすらしたことがない私には、その境界線のことが分からない。学生が本業の私は自室でだって勉強するし、学校にいても家族のメッセージのやり取りをすることはある。彼ほど有名になれば、本物の自分が分からなくなったりするのかもしれない。

 そんなことを考えながら、コヅケンさんのあとをついて作業部屋へと向かった。

 コヅケンさんの作業部屋は六畳ほどの和室で、長めのデスクにチェアが二脚置かれていた。ひとり暮らしなのになんで二脚あるんですか? と聞いたら、仕事相手と対面で打ち合わせする時なんかに便利だからだそうだ。結局そのほとんどがオンラインで行われているらしいけれど。

 大きな本棚にはあまり本が並べられていなくて、何かのゲームのフィギュアらしきものがぽつぽつと置かれている。ゲーム関係の本の他にも『セッターの極意』なんて本が混ざっていて、これもゲームに使うのかな? なんて思った。

「じゃ、まずアルバイトについて説明するけど」

「えっ、お手伝いってアルバイトなんですか?」

「無償じゃさせられないでしょ。これ契約書。読んでサインしてて」

「はぁ……」

 コヅケンさんはそう言うとどこかに消えて、数分後にふたり分のコーヒーを持って戻ってきた。星型の氷が、カランと音を立てる。ぐるぐると波紋を成すブラックコーヒーは、本で見た宇宙空間のようだ。

「ありがとうございます」

「ブラックでいい?」

「はい。氷……、可愛いですね。星が好きなんですか?」

「まあ、そんな感じ」

 『火星の裏側』さんのことをもっと聞きたかったけれど、コヅケンさんの態度がクールになったような気がしてやめておいた。もしかして、仕事スイッチ入ってる感じ? 『火星の裏側』さんのことを切り出した時とは、顔つきも雰囲気も随分と違ってみえる。

 ねぇ、どうしてあなたは『火星の裏側』の顔を持っているの? どうして私のことが『青い星』だって分かったの?

『火星の裏側』さんのことを聞き出したいけれど、とてもそんな雰囲気ではない。コヅケンさんはチェアに腰掛けると、コーヒーを一口飲んでから口を開いた。

「サイン、ありがと。今回さ、このゲームの考察動画の依頼が来て。そういう知識ないし断ってたんだけど突発企画ってことで了承した」

「スターダストミッドナイトラン?」

「知らない? 新作なんだけど」

「すみません。ゲームとか詳しくなくって」

「うん、とりあえず一回はプレイしてみてほしいかな。これがゲームの公式HP。日本神話とギリシャ神話を混ぜたような設定みたい」

 パソコンを操作するコヅケンさんの方に、自然と椅子を寄せる。HPの説明文を見ようと顔を近づけたら、彼のさらさらの髪がちくりと私の頬に触れた。ふわり、と石鹸のようないい匂いが鼻をくすぐる。

 ……近くで見ると本当にイケメンだな。みんなが騒ぐのもまぁ分かるかもしれない。瞳なんか、外国人みたいだし。

「……この辺とか、さっき俺が選んだ本に載ってると思うんだけど」

「あっ、ハイ! このふたりは夫婦の神様なんですけど、エピソードがあって……」

「そう、そういうの分かんないから。きみを選んでよかった」

 コヅケンさんがもう一度コーヒーをひと口啜って、にやりと笑う。ああ、この笑い方。何かを企んでいるような、全てを見透かされてるような、そんな瞳。この瞳をされると、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。

「えっと、ユーチューバーって依頼とか来るんですね! 好きなことしてるのかと思ってました」

「まあ基本好きなことしてるけどね。登録者増えたら事務所と契約する人もいるし、俺の場合は会社設立してる。名が売れるほど広告塔としてクライアントさんからこれ使ってほしいとか依頼が来るってわけ」

「へぇ……、大変なんですね」

「編集とかの作業もあるしね。俺も手回らない時外部に依頼するし」

 正直、こういう人たちは好きなことだけして運良く稼げてるだけで、大した苦労はしていないんだと思っていた。承認欲求の塊なんじゃないかとか、そういうふうに思ったこともある。けれども彼の話を聞いていると、一筋縄ではいかないようだ。

「楽に稼いでるとか思ってた?」

「……!」

「まあ、そういう偏見持つ人は多いよね。言われ慣れてるし。でも、きみみたいなのはきらいじゃないよ」

 目と目が合う。鋭い瞳に見つめられて、心の中を全て読まれているような気がした。心臓がばくばくと音を立てる。それは私が抱いていた偏見を見透かされていたことに対するものじゃない。それとは別の何かが、胸の奥にたしかに存在している。そんな気がした。

 コヅケンさんが、また口を開く。

「きみはどうして俺についてきたの?」

 きらきらと光る瞳は、夜空に輝く星みたいだ。黙っていると、目を奪われてしまう。その瞳にとらえられたら、逃れられない気がした。何からか分からないけれど。胸の音が、光のようなスピードで加速していくのが分かる。

「分からないけれど……、何だか胸の奥がそわそわしたので」

「いいね。そういうの、きらいじゃない。ひとつだけいい?」

「はい?」

「……敬語やめて」

 そう言ってコヅケンさんがまたにやりと笑った。ああ、まただ。今私の頭、宇宙空間の真ん中にいるみたいだ。

 どくり、どくりと脈が跳ねる。胸の奥はまたおかしな音を爆速で奏でていた。

 敬語をやめて、と言われて一時間。私はカタコトの言葉を使い、彼のことを『研磨くん』と呼ぶようになっていた。『研磨さん』と読んでみたら、そういうのやめて、って言われたからなんだけれど。

 あれから、ゲームの公式HPとプレイ画面を見ながら、登場人物と設定を把握する作業を進めていった。しかし今、私は作業部屋に置かれたソファの背もたれに体重を預けて、ぐったりしている。ゲーム画像の3Dに酔ってしまった私を見かねて、研磨くんが休憩を入れてくれたのだ。

「休憩はこまめに取った方が効率いいよ。俺はタイマー使ってる。はい、水」

「ありがとう……。画面に慣れてないから……」

「3D酔いする人って本当にいるんだね。俺も徹夜とかすると熱出るけど。大丈夫?」

「……もう大丈夫みたい」

 コップに注がれた水を一杯飲み干して、それをローテーブルの上に置く。冷たい水を飲んだおかげか、少しだけ気分がすっきりしていくのが分かった。

 研磨くんが、私の顔色をうかがうようにして口を開く。先程までのクールな態度とは少し違ってみえた。

「民俗学専攻ってことは、日本文化学科だよね?」

「そうだけど?」

「今日手に持ってた星座と神話の本、関係ないんじゃない?」

 そう言われて、どくん、とまた胸の奥が跳ねるのを感じた。今日星座と神話の本を手に取ったのは、ゆうべ聴いた配信のせいだ。

「……『火星の裏側』さんのせい」

「きみって、きっと『コヅケン』に興味ない方の人間だよね? 『火星の裏側』が俺でがっかりした?」

「! ……そんなこと!」

 そんなことない。そう言おうとしたけれど、続きを発する前にやめておいた。研磨くんが、何かを閃いたような顔をしたからだ。

「そうだ、22日の夜、暇?」

「……今のところ暇だけど」

「じゃ、うちに来て。いいもの見せてあげる。あー……、聴かせてあげるの方が正しいかも」

 研磨くんが、また何かを企んだような顔をする。身体の芯が熱い。研磨くんの瞳でじっと見つめられると、そこから目を離せなかった。まるで何かに、縛りつけられているみたいに。

「あったかい格好で来て。徹夜するし。この辺冷えるから」

「徹夜すると熱が出るんじゃないの?」

「うん、熱出るかもね」

 ぐるぐると思考が回る。一体この人は、何を考えているのだろう。分からないけれど、それを知りたい、もっと『孤爪研磨』という人を知りたいと思ってしまった。

 約束は数日後の夜、彼はその日に私に何かを見せたいという。どうしてだか、昼間聞かれたことを思い出す。

『きみの好きな星は何?』

 柔らかいトーンの声が、脳の奥で弾けた。

火星の裏側で抱きしめて1

 例え俺が隣の星にいても、必ず見つけ出すよ。だって俺たちもう、火星の裏側にだって飛べるから。きみは『俺』を見てくれた。だから俺も、『きみ』を見つけ出せる。俺たちは離れ離れにはならないよ、絶対。きみは宇宙で一番綺麗な星。

スターダストミッドナイトランⅠ

ーーこんばんは、『火星の裏側』へようこそ! リスナーのみんなありがとう! もうじきこと座流星群みたいなんだけど、みんなの住む街からは見えるのかな? 流れ星、見たことないんだよね。そんな俺だけど、今日は星座の話をするよ。きみの好きな星は何?

 音楽はあまり聞かない。お笑い番組も見ないし、みんなが見ている動画も見ない。ゲーム実況なんてもってのほか。おすすめ動画にすら出てこない。そんな私が唯一楽しみにしているのが、不定期で星の話なんかを配信している『火星の裏側』さんのチャンネルだ。動画配信なんだけれど、フリー素材らしき星空の画像がうつっているだけで、声だけで配信している。まるでラジオを聞いているような、やさしい声と雰囲気がお気に入りだ。そんな彼の声を聞きながら、私は今日も眠りにつこうとしている。水曜日は朝イチの講義が入っている。そのあとは暇だから、図書館でレポートの準備でもしよう。

ーー以上、『火星の裏側』でした! みんなありがとう! いい夢見てね。

 『青い星』という名のハンドルネームも、すっかり常連になってしまった。配信が閉じる間際、『ありがとうございました』とコメントを打ち込む。スマホを充電器に差し込んで、部屋の灯りを消した。

 その日、知るはずもない『彼』の夢を見た。

「コヅケンの配信見た?」

「見た見た〜! ゲーム分からんけどさ、イケメンだよね」

「あのゲーム弟がしてるんだけど、コヅケンしてるから私もしてみたんだ〜」

「コヅケンと言えば、水曜の仏語1にいるらしいよ」

「仏語1!? 四年なのに? あの人何学部なの!?」

「謎なんだよね〜! 水曜いるってことは、今日来てるってこと!?」

「マジ!? 探しに行かない!?」

 朝イチの講義が始まる前、友人たちが『コヅケン』とやらの話で盛り上がっていた。どうやら有名人らしく、この大学の四年生だという。何でも楽しめる大学生にとっては、恰好のネタになるわけだ。

「星羅はコヅケン興味ないの?」

「うーん、動画とか見ないし分かんない」

「星羅真面目だからな〜!」

 学生の本分は勉強だと思うのだけれど、真面目で何がいけないのだろう。周りの大学生たちの授業態度はひどいもので、勉強そっちのけで遊んでばかりいる。けれども大学で変わり者扱いされるのは、そちらでなく私のような人物らしい。

 大学内に有名人がいる。それがどうかした? 私には興味ない。みんなが言う『コヅケン』だって、きっとチャラチャラして遊んでばかりいる男なんだろう。必須科目である第二外国語を、四年生で履修しているような人なのだから。

「このあと講義入ってないからさ、コヅケン探しに行かない!?」

「行く行く〜!」

「星羅は?」

 そう問われて、「図書館行くから」ときっぱり断る。『図書館』というワードを聞いただけで、「星羅、本当に真面目〜!」と笑われるのだから意味が分からない。友人たちは講義中ずっとイヤホンをつけて、コヅケンの過去動画を見ているようだった。

 知らない有名ゲーム実況者より、『火星の裏側』さんの方がよっぽどいいや。そんなことを思いながら、朝イチの講義を終え、友人たちにバイバイする。

『こんばんは、火星の裏側です!』

 鼓膜にこびりついた優しい声のことを思いながら、図書館への道を急いだ。

 うちの大学の図書館は広い。マンモス大学だからあらゆる学部の資料が揃っているし、外部からの利用者もいるそうだ。けれども、学生たちが図書館を利用しているかと聞かれれば、答えはノーだと思う。広い図書館の三階の奥、昔の文字で書かれた専門書のエリアなんて訪れるのは、私くらいだろう。日本文化論のレポートで必要な、古事記や風土記なんかの文献。有名なそれらの本よりももっと専門的な、誰も見ないような本を検索して指定されたエリアへと向かう。三階からはしご階段を登った先にある、四階といっていいのか分からないその場所に辿り着くと、見知らぬ男子学生が立っていた。

 こんな場所、私以外に来る人いたんだ。そう思い、ついジロジロとその人を見てしまう。もちろん、無意識にだ。

「写真? 握手? どっちも断ってるから」

 いきなり届いた声に、びくりと身体が跳ねる。いま、この人私に話しかけたんだよね? 他に人、いないし。

「えっ? 握手……?」

「……もしかして、本当に調べ物で来たの?」

「えっと……、調べ物以外でこんなとこ来ませんよね?」

 そう返すと、彼は驚いた表情で私の全身を見つめているようだった。私が手元に抱えた一冊の本は、レポートには関係ない星座と神話のお話だ。

「じゃあ、ゲームしてる人? 神話系の資料なら俺が先に読みたいんだけど」

「あなたも民俗学専攻ですか?」

「経済学部だけど。俺のこと知らないの?」

「すみません。知りません」

「ふーん、きみって面白い」

 何が面白いんだろう。分からないけれど、いやな気分にはならなかった。真面目だとはよく言われるけれど、面白いなんて言われるのは初めてだ。

「ね、民俗学専攻ならさ、考察動画作るの手伝ってくんない?」

「動画……?」

「あ、他にバイトしてるの?」

「してないですけど……」

「じゃ、ちょうどいいじゃん。俺コミュ障だから。人探し苦手なんだよね。ていうか女の子苦手。でもきみなら任せられそう」

「ちょ、あなた誰なんですか? 話をする前にまずは名乗るものでしょう?」

 そう言うと、彼は少し申し訳なさそうな顔をして「ごめん」と謝った。その三文字がひどくやさしく聞こえて、『火星の裏側』さんのことを思い出す。もしかして、この人が……、なんて淡い期待を抱いた頃に、聞き覚えのある名前が鼓膜に届いた。

「孤爪研磨」

 こづめ……、けんま?

「コヅケンって言ったら分かる?」

「あーっ!」

 こづけん。コヅケン。KODZUKEN。まさかのまさか、大学一の有名人がこの人だというのだろうか。友人たちが探しに行ったその人物が、まさかのこんなところにいるだなんて。

「学校……、来てたんですね」

「第二外国語だけだけどね。履修するの忘れてて、絶対落とせないんだけど」

「それはコヅケンさんがいけませんね」

「わあ、正論言うね」

 それにしても……、この人考察動画とか作るんだ。好きなゲームでただ遊んで、それで稼いでるだけの軽い人だと思っていたのに。

「じゃ、校内目立つからさ、俺んち来て」

「えっ、ちょ!」

「本、先に読んでいいから」

 コヅケンさんに手を掴まれて、ぎゅっと手を握られる。一瞬何が起きたのか分からなかったけれど、握手を求められていたんだとその握り方で気がついた。このひと、私が思っていたようなチャラい男じゃないのかもしれない。

「きみのなまえも、聞いていい?」

「……青い星」

 私がそう答えると、コヅケンさんは一瞬動きをとめて、「それ本名じゃないでしょ」と笑った。

「……青井星羅と申します」

「あー、なるほど。いいね。可愛い名前」

 可愛い名前。うん、やはりこの人チャラいのかもしれない。コミュ障とか言ってるけど。本当にコミュ障ならば初対面でこんなに話さないし、そもそもゲーム実況なんて出来ないと思う。

「じゃ、その本借りたら行こっか」

「えっ、ちょっと、待って」

「あ、この後も講義?」

「……違いますけど」

「じゃ、いいね」

 そうして私とコヅケンさんの奇妙な日々が始まった。変装したコヅケンさんについてささっとキャンパスを離れ、微妙な距離を開けて駅へと向かう。トートバッグに入れた本は五冊、その重力に腕が痺れそうになる。空は快晴で、今夜は私の住む都会でも星が見えるかもしれないな、なんて思った。

 そんなことを考えていると、ふっと腕が軽くなるのを感じた。本五冊分の重力が、どこかに消えてしまったみたいだ。顔を上げればめがねをかけたコヅケンさんが、私のトートバッグを持ち上げている。

「体力ないけど、これくらい持つし」

「……ありがとうございます」

「ひとつ聞きたいんだけど」

「?」

「きみの好きな星は何?」

 その瞬間、周りの景色が鮮やかに染まって、頭の中に夜空が広がった。この声を、知っている。この優しい声を、私は繰り返し聞いたことがある。

ーーこんばんは、『火星の裏側』へようこそ! リスナーのみんなありがとう! もうじきこと座流星群みたいなんだけど、みんなの住む街からは見えるのかな? 流れ星、見たことないんだよね。そんな俺だけど、今日は星座の話をするよ。

ーーきみの好きな星は何?

「……火星の裏側さん?」

「わ、ビンゴだ! 青い星さん」

「え、コヅケンさんが……? 火星の裏側さん?」

「いつもありがとう。あっちのリスナーさんの名前は覚えてる。……それで、きみの好きな星は何?」

「……地球?」

「そうだと思った」

 恋のはじまりがどういうものかを、私は知らない。恋なんてしたこともないし、興味もなかったからだ。けれども。もし、恋の始まりが存在するのならば、きっと遠い宇宙で輝いている星たちみたいに、私をときめかせるものなんだと、そんなふうに思う。

 今この時が『それ』なのかは、今はまだ分からないけれど。宇宙で一番綺麗な青い星の中で、私たちは出逢った。

 星と星が引き寄せられるように、出逢ってしまったんだ。

あまくてにがくて青い24【完結】

 それからまた少し時が経った。影山くんの『ライバル』日向くんとの試合も観戦に行ったし、時々東京にも遊びに行った。彼が宮城に帰ってきた時は毎回会ったし、離れている間もメッセージや動画通話でやりとりをした。時代は進化したし、私たちの行動範囲も広がった。思っていたよりも、遠距離恋愛は楽しいものだったらしい。

 本当、不安だったんだよなぁ、あの頃は。

 錆びた赤色の自転車は、実家の隅に停められたままで、あの自転車置き場には卒業してから行っていない。それでも季節の匂いをまとった風が吹くたびに、きみと過ごしたあの日々を思い出す。そして、これから巡ってくる季節のことを考えると、嬉しくなるんだ。

 もう、思い出を作ることは怖いことじゃないから。

 空を見上げる。空気を吸い込んで、思い切り吐き出す。隣を向けば、愛しいきみが私の方を見て笑った。

 彼の左手には、きらりと光るシルバーのリングがひとつ。私の薬指にも、お揃いのそれが輝いている。

 私は来月、イタリアに旅立つ。愛を誓った薬指のリングは、私たちの未来を照らしている。