火星の裏側で抱きしめて5

フルムーンには敵わないⅡ

 水曜日の1コマ目のあと、友人たちから逃げるようにして図書館を訪れた。はしご階段を上り、3階の一段上のスペースへと辿り着く。研磨くんは先に到着していたようで、床に座って分厚い本を捲っていた。

「お疲れ」

 物音で気づいたのか、研磨くんからそう声をかけられる。読んでいたのはくずし文字で書かれた文献で、経済学部の彼が読めるとは到底思えなかった。

「研磨くん、それ読めるの?」

「まさか。日文科の人はみんな読めるの?」

「うーん。そういう授業取ってる人だけかな」

「じゃ、読めるんだ?」

「うん。私は読めるよ」

 あれ。あれれ。今日の研磨くんはなんだか穏やかだ。仕事部屋にいないからだろうか。言うならば、『火星の裏側』モードに近い。この人、本当にコヅケンと同じ人なのかな、なんてまた疑ってしまう自分がいる。

「じゃ、また本選んで行こっか」

「……ね、研磨くん。私と一緒にいたの噂になってる」

「……へー、そうなんだ」

「一緒に歩いたら、勘違いされちゃうかも」

「いいんじゃない?」

「へ?」

「起こして」

 そう言って手を伸ばしてくる研磨くんを、引っ張り上げるようにして立ち上がらせる。手と手が触れ合って、やっぱり思っていたより大きくてごつごつしている手だな、なんて思った。互いの体温が伝わって心地良い。引っ張ったら近づいてくるこの距離感は、私の胸をドキドキさせるには充分すぎる。ああ、もう。調子狂うな。

「火星大接近」

「え?」

「七月末にさ、火星が地球に大接近する」

「そうなんだ。知らなかった」

「晴れたら配信するから、一緒に見る?」

「うん……」

 研磨くんはそう言って、また瞳をきらきらさせながら私の顔を見た。研磨くんの瞳の中に、私の姿がうつる。吸い込まれてしまいそうで、思わず目を瞑った。

ーーこと座のベガは織姫星。青い一等星。夏の大三角を結んだ先にある彦星は、わし座の一等星アルタイル。出逢ったふたりは恋をした。

ーー今年の七夕は晴れるかな?

 眠りながら聴いた『火星の裏側』さんの声を思い出す。七夕はどうでもいいから、火星大接近の日は晴れてほしいな、なんて思った。

 胸の奥がどくどくと音を立てるのはなぜだろう。身体の奥が沸騰しそうなくらい熱いのはなぜだろう。引力に引っ張られるかのように、あの瞳に釘付けになってしまうのはなぜだろう。

 初めての気持ちに戸惑いを覚えるばかりで、それからの移動時間のことはよく覚えていなかった。

「じゃ、今日の作業しよっか」

「うん。一章のキャラの元になった神様まとめてきた」

「ん、そこ置いてて」

 研磨くんは作業部屋に入ると、途端に『コヅケン』モードに入ってしまった。置かれたグラスの中はまた、星型の氷入りのアイスコーヒー。これを用意してくれる辺り優しい人なんだろう。

 研磨くんの横に腰をかけて、書き込んだルーズリーフとコピーした資料を差し出す。研磨くんは真面目そうな顔でそれを見ていた。私も仕事モードに切り替えなければならない。

 研磨くんのスマホが音を立てたのは、そんな時だった。画面を見た彼の顔から『仕事モード』が抜けて、『孤爪研磨』のそれになる。

「もしもし? あかね?」

 あかね。……あかね。

 電話の向こうから聞こえるのは女の子の声で、彼女いるんじゃん、と心の奥の自分がつぶやいた。いるよね、彼女くらい。目立つし、有名人だし、イケメンだし。だって今、研磨くんの顔が見たこともないくらい自然体だ。

「うん、分かった。トラにもそう伝えてて。じゃ、また」

 そう言って電話を切る研磨くんに、思わず「彼女さん?」なんて聞いてしまう。ああ、バカ。こういうことには踏み込んじゃいけないのに。

「あかねは彼女じゃないし」

 どうしてだか、そう返ってきた瞬間ホッとしてしまう自分がいてそのことにまた戸惑いを覚える。あかねは、ってことは、他の子が彼女なの? それとも彼女はいないの? どうしてだか、そんなことが気になってしょうがない。研磨くんに彼女がいようがいまいが、私には関係のないことなのに。

 次の言葉に迷っていると、研磨くんのスマホがまた音を立てた。今度はビデオ通話のようで、スマホの画面にパッと誰かの顔がうつる。ユーチューバーって忙しいんだなぁ。

「もしもし、翔陽?」

『あっ、研磨今大丈夫!? あっちにいた間のスポンサーの件なんだけど!』

「うん、今いいよ」

『あれっ!? 隣女の子いる!? 研磨くんにもついに春が!?』

「仕事相手だから……」

 仕事相手だから。

 その言葉にどうしてだかまた胸の奥がモヤモヤしてしまう。仕事相手の他に私を表す言葉なんてない。彼は正しいことしか言っていないのだ。

 研磨くんは五分間ほど『翔陽さん』と喋っていたけれど、私はその間ずっと研磨くんのことを考えていた。頭の奥がぐるぐると回る。まるで無重力に酔ってしまったみたいな、そんな感覚だ。

「……ごめん、電話終わった。進めてくれててよかったのに」

「あっ、ごめんね! 続きやる!」

 友達らしき人物から連続で電話があるだなんて、きっときらびやかな人生を送ってきたのだろう。私なんて、講義のノートなんかが目当てで友人が集まってきているようなものなのに。彼はコミュ障だなんて言っていたけれど、そうじゃない。私とは正反対の、輝かしい人物。

「あ、誰か来た」

 電話の次は呼び鈴だ。本当ユーチューバーって思っていたより忙しいんだな。

 ピンポーンと数回音が鳴って、玄関の開く音がする。研磨くんが作業部屋のドアを開けると、「コヅケ〜ン♡」と高い声で飛び込んでくる若い女性の姿が見えた。

「……ルナ、勝手に上がらないで」

「いいじゃん! コヅケンと私の仲でしょ?」

「来るって聞いてないし」

「さっきメッセージ送ったよ〜♡  あれ? 新しいバイトさん?」

「そう」

 金髪に、胸の谷間を強調するような服、短めのスカート、目元がキラキラした派手なメイク。物凄いハイテンションで飛び込んできた彼女は、見るからに『陽キャ』な人物だ。

 ……っていうか誰!? 誰!? あかねの次はまた女の子!? やたらと馴れ馴れしいんだけど!

「前のバイトくんコヅケンがコミュ障すぎて辞めたんでしょ〜? もっと優しくしなきゃ! 私みたいに!」

「ルナは陽キャすぎんの」

「コヅケンが陰キャなんでしょ!」

 自称コミュ障で、女の子が苦手、人付き合いが苦手だという研磨くん。けれども今は、この『ルナ』という女性と親しげに話している。唖然としていると、ルナさんが私の方を向いて話しかけてきた。

「ごめんね〜、いきなり来てびっくりさせたかな!?」

「はぁ……、初めまして」

「……もしかして、私のこと知らない?」

「……すみません」

 あー……、もしかして、この人もユーチューバーなのかもしれない。研磨くんと親しそうなあたり、きっと有名配信者なのだろう。そんなことをぐるぐる考えていると、研磨くんが口を開いた。

「その子、俺のこともあんま知らなかったから」

 そう言われて、ズンと心の奥が重くなる。『その子』。私、『その子』なんだ。

 あかねさんのことも、ルナさんのことも下の名前で読んでいるのに、私の名前を呼ばれたことは一度もない。『青い星さん』の、たった一度だけ。それもハンドルネームだし。

「へぇ〜! 絶滅危惧種〜!」

 ルナさんが物珍しそうな目をして、そう言う。なんだか見下されたような気分になって、また胃の奥がズンと重くなった。

 大学でだって、いや、小学生の頃からそうだった。私は真面目な優等生で、それだけで相手にバカにされてしまう。集まってくるのは宿題を移させてほしい子たちばかりで、いつもその中で馴染めずにいた。きっと、研磨くんの隣にいるには相応しくない人種だ。

 研磨くんが「コーヒーでいい?」と聞いて、ルナさんが「カフェオレがいい〜♡」と答える。カフェオレを用意しに部屋を出た研磨くんの背中を見送った頃、ルナさんが小さな声でつぶやいた。

「ね、コヅケン女の子のこと仕事相手としてしか見ないから、勘違いしないでね♡」

 耳元でそう囁かれて、ぞわりと寒気が走る。

 ……私、そういう風に見えてた?

 そう思うとかあっと身体が熱くなっていく。そんな、まるで私が研磨くんに恋しているみたいな、そんな言い方。そんなんじゃないのに、女の子はいつもそういう方向に持って行きたがる。

「何これ? 星座と神話の本? コヅケンこんなの読むの?」

「……! 触らないで!」

 私と『火星の裏側』さんの接点に触れられたような気がして、思わず本を奪い取ってしまった。ルナさんは何かを確信したような顔で、私の方を見ている。

「なにー? 本気狙い?」

 そんなんじゃない。私と研磨くんはそんなんじゃないし、『火星の裏側』さんに憧れているだけ。

 なんと答えればいいのか分からなくて黙ってしまったその時、ルナさんお望みのカフェオレを持った研磨くんが戻ってきた。

「カフェオレだぁ♡ コヅケンって本当ルナには優しいよね」

「……ごめん、これからコラボ動画撮ることになったから、今日はここまででいい?」

 研磨くんにそんなことを言われたら、頷くしかなかった。勝ち誇ったような顔をしたルナさんを見ると、モヤモヤが更に増殖していく。まるで星空を隠す雲のように。

『地球すごい綺麗』

 あの言葉は、あの行動は一体何だったのだろう。私、揶揄われてるのかな。

 そうして帰った帰り道はぽつりと小雨が降っていて、私の心の雲をさらに広げていった。今日は星空は見えない。このモヤモヤが何なのか正解も分からぬまま、ただ電車に揺られるしかなかった。

『きみの好きな星は何?』

 リフレインする彼の声は、優しい響きだった。