火星の裏側で抱きしめて12

楕円の軌道に乗ってⅠ

 私なんか、研磨くんには相応しくない。七夕の夜にそう確信したのに、恋する気持ちは加速するばかりだった。まるで光のスピードに乗ってしまったかのように、会うたびに好きが増えていく。隣の星に触れられてしまいそうだと、本気で思えてしまうくらいには。

「フランス語、呪文なんだけど……」

 私の隣で、ゆるくまとめた髪を触りながら研磨くんが言う。テスト期間ということもあり、しばらくアルバイトは休みだ。しかし今私は、彼のうちで第二外国語のフランス語の勉強を教えている。

「なんで仏語選んだの? 韓国語とかの方が簡単だと思うよ」

「韓国語は絵文字にしか見えない……」

「じゃー仏語頑張らなきゃ! 絶対落とせないんでしょ?」

 そう言うと研磨くんは眉間に皺を寄せて、しぶしぶシャーペンを手に取った。二、三行単語を並べて書いてみては、はぁ、と溜息をついている。

「そういえば研磨くんって一年休学してたんだよね? どうして?」

「動画の仕事が忙しくなってきて、会社設立した頃かな。どっちも中途半端になったから。思いきって休んでその年は配信に力入れようって、それだけ」

 それだけって、だいぶ凄いことだと思うんだけれど。そんな決断、なかなか出来ることじゃない。ただ尊敬することしか出来なくて、また自分とルナさんとを比較してしまった。今、ルナさんは関係ないのに。

「あー、そうだ。この前はごめん。配信……、出来なくて。うるさかったでしょ」

 研磨くんの口から先日のバーベキューのことな飛び出てきて、どくんと胸がいやな音を立てる。ルナさんとふたりきりで話をしていたことと、その内容が頭をよぎった。

 本当の自分が分からなくなることがある。ルナさんのその言葉に、研磨くんは確かに同意していた。私にはきっと、一生分からない悩みなんだろう。

「……ううん! すっごく楽しかったよ!」

「昨日、火星見えてた」

「えっ!? もう見えるの!? 月末だって言ってなかったっけ?」

「いきなり近づいてくるわけないでしょ。一番近づくのが七月の三十一日。六月ごろから見えてたよ」

 それでも、話題が星のことになると、ドキドキと胸が速まってしまう。研磨くんが星に詳しいだなんて、たぶん『コヅケン』のリスナーさんたちは誰も知らない。あかねちゃんも、ルナさんも、クロさんだって知らないかもしれない。

「そんなに早くから!? 早く教えてよ〜!」

「『青い星』さんなら知ってると思ってた」

「〜っ!」

 研磨くんはそう言って、からかうような瞳で私を見る。ずるい、その顔。その声。本当に、ずるすぎる。胸が爆音を立ててどうしようもない。

 ああ、本当に好きなんだなぁ。研磨くんのこと。

 火照った頬を手で覆って冷ましていると、研磨くんの声が柔らかく降ってきた。私の前でもたまに聴かせてくれるようになった、『孤爪研磨』くんの声だ。

「……次の配信、前にも言ったけど三十一日だから」

「……! うん!」

 約束、覚えててくれたんだ。もしかしたら忘れられてるかもしれないと思ったから、ホッとする気持ちの方が大きい。けれどもそれよりも、加速する恋心の方がもっと凄かった。

 研磨くんが、続ける。

「火星の軌道って地球と違って楕円形だから、年によって地球と接近する距離が違う」

「へぇ、知らなかった」

「すごい近くなるのが今年で、次は十七年後」

「十七年後!?」

「そう考えるとすごいよね。ワクワクする」

「研磨くんもワクワクとかするんだ……」

「するでしょ、普通に」

 凄いなぁ。十七年に一度の火星大接近。そんな貴重な日に私を選んでくれたんだと思うと、自惚れてしまう自分がいる。

 エアコンがブォンと音を立てる。冷気が直に降ってきたけれど、今の私には関係なかった。だってこんなにも、身体が熱いのだから。

「楽しみだね、『青い星』さん」

「研磨くんが仏語落とさなかったら一緒に見てあげる」

「……そういうの無しだから」

 梅雨明けが早かったこともあり、今年は猛暑続き。身体には酷だけれど、その分星空は見えやすい。どうか三十一日が晴れますように。ついでに研磨くんが仏語で点を取れますように。そんなことを願いながら、彼の横顔をちらりと見つめた。