火星の裏側で抱きしめて10

ミルキーウェイまで飛んで、熱帯夜Ⅰ

 あれから二ヶ月とちょっとが過ぎた。スマホの日付を見て、七月に入ったことに気がつく。梅雨はまだ明けそうにない。

「ほら、あの子」

「あー、コヅケンのとこでバイトしてるっていう子でしょ?」

「ふーん、地味じゃん」

 キャンバスを歩いていると、自然と耳に入る噂話。こんな風に言われるのももう慣れた。最初の頃は『彼女じゃないか』なんて噂もあったけれど、そんな噂はすぐに消えてしまった。それだけ私が彼に相応しくないということなんだろう。

 研磨くんとは、あれから恐ろしいほどに進展がない。あの夜が何だったのかと不思議に思うくらいに、全く、本当に全く進展がない。

 けれども、いいこともあった。単発であげた考察動画の再生数が伸びて、第二弾の製作が決まったのだ。つまり、これからも研磨くんのところでバイトを続けられるということ。それが私には嬉しすぎる事実で、心は踊るばかりだ。

 ……というわけで、授業を終え、電車を乗り継いで、研磨くんのおうちにたどり着いたのだけれど。

「星羅じゃーん! おっつー! 今日も考察の作業?」

「ルナさん、来てたんだ」

「だからさん付けやめてってば〜! 私と星羅の仲でしょ? 数回会ったらマブダチ〜!」

 そう、何度かルナさんに会ううちに、どうしてだか気に入られてしまったらしい。ルナさんが豊満なバストを押しつけるようにしながら、私にぎゅーっと抱きついてくる。け、け、研磨くんにはこんなことしていないよね!? と、ちょっと心配になってしまった。

「ルナさんはコラボ動画?」

「うん! 今終わったとこ〜! こう見えて私朝型だから!」

「わぁ、意外」

「星羅も言うようになったわね〜! じゃ、私は帰るからこれで!」

「うん、お疲れ」

 嵐のようにルナさんが去って、研磨くんとふたりきりの空間が出来上がる。二ヶ月経って、ふたりきりにももう慣れた。

 ……嘘。全然慣れません。好きだと自覚してからは余計にそう。意識してしまって、ずっと緊張状態に置かれている。

 ふわぁ、と欠伸をこぼしながら伸びをする研磨くんの方を、ちらりと見る。冷房が効いているからだろうか。彼は今、あの日私が着た赤色のパーカーを身に纏っていて、そのことが私の身体を熱くさせた。冷房、効いているのにな。

「ごめん。ちょっとだけ休憩する」

「いいよ。先に進めておくね」

 最近、ちょっとだけ嬉しいことがある。これまで作業部屋では仕事モードだった研磨くんが、休憩時には仕事モードが外れるようになった。ルナさんにはまだ追いつけないけれど、少しでも気を許してもらえてるのかな、と思うとなんだか嬉しくなる。

 ニヤニヤしそうになる表情筋を抑えながら、参考文献の本を開く。研磨くんはワイヤレスのイヤホンをはめて、何か音楽を聴きはじめたようだった。

「何聴いてるの?」

 あ、私のバカ。こういうのって、邪魔しちゃいけないのが常識でしょうが。そんな私の心配をよそに、研磨くんは閉じていた瞳を開いて、さらりと答えてくれる。

「ボカロ」

「ふふ、研磨くんっぽい」

「機械が歌うって面白いから聞いてる。面白いものは好き。退屈しないし」

 面白いものが好き。それは知ってる。研磨くんは面白いものが好きで、それを基準に選択しているんでしょう?

 私のことを選んだのも、きっとそれが理由。けれどもそれじゃ物足りないと思うのは、贅沢なんだろうな。

 私が黙ったのを見て、研磨くんが不服そうな顔で続ける。

「……ロックとかも聴くけど」

「研磨くんがロック? 嘘!」

 ロック。研磨くんがロック。思いがけぬ発言とその似合わなさに、思わずお腹を抱えて笑ってしまった。だって、似合わなさすぎるんだもの。

「そんなにおかしい?」

「ごめんごめん。それも面白いから聴くの?」

「うーん、人間が弾いてて人間が歌ってるのが面白いかな。でもそういうの聴きはじめたのは最近」

「最近? どうして聴きはじめたの?」

 あっ、また私のバカ。休憩中なのに、質問しすぎだって。分かってはいるけれど、研磨くんのことがもっと知りたくて、ついつい質問をしてしまう。研磨くんは少し悩んだ顔をして、「……うーん、生きてるって感じることが増えたからかな」と答えた。

「どうして増えたの?」

 あー、また質問。休憩させてあげなさいよ。ごめん、休んでて。そう言おうとしたその時、研磨くんの視線を感じた。今、彼は私の顔をじっと見ている。そして、いつもより少し柔らかい声でつぶやいた。

「どうしてだろう? 『青い星』さんを見てるせいかもね」

 そんなことを言って、ふっと笑う研磨くん。それは、私が彼を好きだと自覚した夜に見た笑顔と同じで。時間が止まってしまったかと思うくらいに、私は固まってしまったんだ。

 研磨くんの瞳が、照明を反射してきらきらと光る。その美しさに飲み込まれそうになって、一瞬だけ目を瞑った。

 何これ。何これ。『青い星』って私のことだよね?

 二ヶ月も何の進展もなかったのに、不意打ちでこれはずるい。ずるすぎる。

 ぐるぐると回る思考はまるで宇宙。不思議だらけで、無重力になってしまいそうだ。

 けれども、次に聞こえてきた声は少しトーンが低いそれで。いつもと何かが違う気がした。

「……ね、自分が二人いるってどういう感じか分かる?」

「え?」

 何? 何の質問? 研磨くんが分からなさすぎる。瞳から一瞬光が消えた気がしたけれど、まばたきをしている間に『普段の研磨くん』に戻っていた。

「ごめん、忘れて。それよりさ、七月七日は空いてる?」

 七月七日。その日は土曜日だから研磨くんのところに来る日じゃないし、他にも何の予定も入っていない。何だろう。何かのお誘いだろうかと、期待してしまう私がいた。どくん、どくんと胸の奥が強く音を立てる。

「うん。なんの予定も入ってないよ」

「七夕配信するけど、聴く?」

「……! もしかして!」

「うん。あっち」

 予想を上回る言葉に、私の胸は高鳴った。だって、『火星の裏側』は私たちだけの秘密なのだから。その秘密の時間が増えるのは、私にとって一番嬉しいことかもしれない。

 研磨くんが、続ける。

「でも、晴れじゃなかったらやめる」

「うん!」

 突然降ってきた約束に、心が躍らないわけがない。ばくばくと胸の音が高鳴るのが分かる。それだけ会話すると、研磨くんは横になって眠ってしまった。

 あー、本当贅沢だな。私。

 神様仏様、どうか七夕の日は晴れますように。そう願った私は、小学校の遠足ぶりにてるてる坊主を作るに至ったのだった。