ミルキーウェイまで飛んで、熱帯夜Ⅰ
あれから二ヶ月とちょっとが過ぎた。スマホの日付を見て、七月に入ったことに気がつく。梅雨はまだ明けそうにない。
「ほら、あの子」
「あー、コヅケンのとこでバイトしてるっていう子でしょ?」
「ふーん、地味じゃん」
キャンバスを歩いていると、自然と耳に入る噂話。こんな風に言われるのももう慣れた。最初の頃は『彼女じゃないか』なんて噂もあったけれど、そんな噂はすぐに消えてしまった。それだけ私が彼に相応しくないということなんだろう。
研磨くんとは、あれから恐ろしいほどに進展がない。あの夜が何だったのかと不思議に思うくらいに、全く、本当に全く進展がない。
けれども、いいこともあった。単発であげた考察動画の再生数が伸びて、第二弾の製作が決まったのだ。つまり、これからも研磨くんのところでバイトを続けられるということ。それが私には嬉しすぎる事実で、心は踊るばかりだ。
……というわけで、授業を終え、電車を乗り継いで、研磨くんのおうちにたどり着いたのだけれど。
「星羅じゃーん! おっつー! 今日も考察の作業?」
「ルナさん、来てたんだ」
「だからさん付けやめてってば〜! 私と星羅の仲でしょ? 数回会ったらマブダチ〜!」
そう、何度かルナさんに会ううちに、どうしてだか気に入られてしまったらしい。ルナさんが豊満なバストを押しつけるようにしながら、私にぎゅーっと抱きついてくる。け、け、研磨くんにはこんなことしていないよね!? と、ちょっと心配になってしまった。
「ルナさんはコラボ動画?」
「うん! 今終わったとこ〜! こう見えて私朝型だから!」
「わぁ、意外」
「星羅も言うようになったわね〜! じゃ、私は帰るからこれで!」
「うん、お疲れ」
嵐のようにルナさんが去って、研磨くんとふたりきりの空間が出来上がる。二ヶ月経って、ふたりきりにももう慣れた。
……嘘。全然慣れません。好きだと自覚してからは余計にそう。意識してしまって、ずっと緊張状態に置かれている。
ふわぁ、と欠伸をこぼしながら伸びをする研磨くんの方を、ちらりと見る。冷房が効いているからだろうか。彼は今、あの日私が着た赤色のパーカーを身に纏っていて、そのことが私の身体を熱くさせた。冷房、効いているのにな。
「ごめん。ちょっとだけ休憩する」
「いいよ。先に進めておくね」
最近、ちょっとだけ嬉しいことがある。これまで作業部屋では仕事モードだった研磨くんが、休憩時には仕事モードが外れるようになった。ルナさんにはまだ追いつけないけれど、少しでも気を許してもらえてるのかな、と思うとなんだか嬉しくなる。
ニヤニヤしそうになる表情筋を抑えながら、参考文献の本を開く。研磨くんはワイヤレスのイヤホンをはめて、何か音楽を聴きはじめたようだった。
「何聴いてるの?」
あ、私のバカ。こういうのって、邪魔しちゃいけないのが常識でしょうが。そんな私の心配をよそに、研磨くんは閉じていた瞳を開いて、さらりと答えてくれる。
「ボカロ」
「ふふ、研磨くんっぽい」
「機械が歌うって面白いから聞いてる。面白いものは好き。退屈しないし」
面白いものが好き。それは知ってる。研磨くんは面白いものが好きで、それを基準に選択しているんでしょう?
私のことを選んだのも、きっとそれが理由。けれどもそれじゃ物足りないと思うのは、贅沢なんだろうな。
私が黙ったのを見て、研磨くんが不服そうな顔で続ける。
「……ロックとかも聴くけど」
「研磨くんがロック? 嘘!」
ロック。研磨くんがロック。思いがけぬ発言とその似合わなさに、思わずお腹を抱えて笑ってしまった。だって、似合わなさすぎるんだもの。
「そんなにおかしい?」
「ごめんごめん。それも面白いから聴くの?」
「うーん、人間が弾いてて人間が歌ってるのが面白いかな。でもそういうの聴きはじめたのは最近」
「最近? どうして聴きはじめたの?」
あっ、また私のバカ。休憩中なのに、質問しすぎだって。分かってはいるけれど、研磨くんのことがもっと知りたくて、ついつい質問をしてしまう。研磨くんは少し悩んだ顔をして、「……うーん、生きてるって感じることが増えたからかな」と答えた。
「どうして増えたの?」
あー、また質問。休憩させてあげなさいよ。ごめん、休んでて。そう言おうとしたその時、研磨くんの視線を感じた。今、彼は私の顔をじっと見ている。そして、いつもより少し柔らかい声でつぶやいた。
「どうしてだろう? 『青い星』さんを見てるせいかもね」
そんなことを言って、ふっと笑う研磨くん。それは、私が彼を好きだと自覚した夜に見た笑顔と同じで。時間が止まってしまったかと思うくらいに、私は固まってしまったんだ。
研磨くんの瞳が、照明を反射してきらきらと光る。その美しさに飲み込まれそうになって、一瞬だけ目を瞑った。
何これ。何これ。『青い星』って私のことだよね?
二ヶ月も何の進展もなかったのに、不意打ちでこれはずるい。ずるすぎる。
ぐるぐると回る思考はまるで宇宙。不思議だらけで、無重力になってしまいそうだ。
けれども、次に聞こえてきた声は少しトーンが低いそれで。いつもと何かが違う気がした。
「……ね、自分が二人いるってどういう感じか分かる?」
「え?」
何? 何の質問? 研磨くんが分からなさすぎる。瞳から一瞬光が消えた気がしたけれど、まばたきをしている間に『普段の研磨くん』に戻っていた。
「ごめん、忘れて。それよりさ、七月七日は空いてる?」
七月七日。その日は土曜日だから研磨くんのところに来る日じゃないし、他にも何の予定も入っていない。何だろう。何かのお誘いだろうかと、期待してしまう私がいた。どくん、どくんと胸の奥が強く音を立てる。
「うん。なんの予定も入ってないよ」
「七夕配信するけど、聴く?」
「……! もしかして!」
「うん。あっち」
予想を上回る言葉に、私の胸は高鳴った。だって、『火星の裏側』は私たちだけの秘密なのだから。その秘密の時間が増えるのは、私にとって一番嬉しいことかもしれない。
研磨くんが、続ける。
「でも、晴れじゃなかったらやめる」
「うん!」
突然降ってきた約束に、心が躍らないわけがない。ばくばくと胸の音が高鳴るのが分かる。それだけ会話すると、研磨くんは横になって眠ってしまった。
あー、本当贅沢だな。私。
神様仏様、どうか七夕の日は晴れますように。そう願った私は、小学校の遠足ぶりにてるてる坊主を作るに至ったのだった。