ワールドエンドの恋人②

 梅雨明けと同時に訪れた季節は、温度を急激に上昇させた。校内に植えられた紫陽花はとうに枯れていて、その残骸が地面に貼りついている。

 あれから彼には会っていない。大学に来ているのかも分からない。灼熱から逃げるように早歩きしていると、突然後ろから肩を叩かれた。

「ねぇ」

 私の右後ろからはっきりと、ゆっくりと鼓膜に到着する声は柔らかくてどこか懐かしい。肩を叩いてくれるということは、たぶん私のことを知っている人だ。振り返ると、あの日の彼がそこに立っていた。

「よかった。会えた」

 よかった? なにが?

 不思議に思い首をかしげると、彼はまたあの日と同じ顔でにっと微笑んだ。目を合わせたらいけないような気がした。

「ノート、コピーさせてほしくて」

「この前の講義の?」

「うん。来週テストだし」

「そんなに忙しいなら、テストのない講義選べばよかったのに」

「必要なかったら取ってない。それに。写させてくれるでしょ?」

 断れない言い方をしてくる辺り、ずるい男だ。はぁ、とわざとらしく溜息をついてから、「いいよ」と返事をした。一番近いコピー機まで並んで歩いたのはたった数十秒。それなのに男の子の隣を歩くことが新鮮すぎて、つい体が強張ってしまう。

「ありがとう。待ってる間、なんか飲んでて。奢るから」

「暑いから炭酸飲みたい」

「サイダーでいい?」

「うん」

 カップの自販機から出てきたそれを、「はい」と手渡されてまた指先が触れた。これだけですこし意識してしまうなんて、男性に疎すぎて自分で呆れてしまう。かっこいいし、きっと向こうは何とも思っていないんだろうな。

 しゅわしゅわと弾ける炭酸の泡は、昔プールで溺れかけた時に見た気泡によく似ている。あの時溺れてしまった方がよかったのだろうか。それならば、こんな想いをしなくてよかったのかもしれない。ぐぐっと一気にそれを飲み干して、握り潰したカップをゴミ箱に投げ入れた。

「あれー? コヅケンじゃん」

 届いたのは甲高い女の子の声。その声量に、はっと我に返った。高い音はよく耳に届く。

 コヅケン? コヅケン。 孤爪研磨? 彼のことだ。

 あっという間に女の子たちに取り囲まれてしまった彼が、助けを求めるような顔でこちらを見た、……気がした。

「来てるの珍しいね! レア体験!」

「ねぇねぇ、いっしょ遊び行こうよ」

「ちょっとー! コヅケン来てるって!」

 本人は彼女たちに構うことなく、急いでコピーを続けている。もしかして、この人有名人? だから、おれを見て驚かないのって言ったの? 帽子で顔を隠しているのはそのせい?

「終わった。行こう」

「えっ、何その子! 彼女じゃないよね!?」

「ちょっとー! コヅケン!」

 コピーを終えた彼に腕を掴まれて、そのまま引っ張られるようにして走った。三十五度超えのキャンバスを駆け抜ける。噴水から噴き出た水が、太陽に反射して綺麗だ。

 どうしてだろう。こんな世界は終わっちゃえばいいのになんて思っていたはずなのに、なぜだかこのとき、私の世界は鮮やかに色を変えた気がした。水の音がする。走る彼の息づかい、伝わる体温と汗、まあるい背中、蝉の声。音が、色をまといながら走り抜ける。一番端にある棟のベンチに着地した時には、ふたりとももうくたくただった。

「……あっつ」

「さっきの、なに?」

「んー? 取り巻き?」

 握られた手がほどけても、その感覚が残っていて身体の火照りがおさまらない。どくどくする。この前の目眩の時とは違う意味で。きっと、それは全力で走ったせい。

「有名人?」

「本当に知らないんだ」

 彼のポケットから取り出されたのは、果物マークのついた最新のものだ。タップされた画面の先は、有名な動画サイト。耳がこうなる前はよく見ていたし、それなりにお世話になった。

「KODZUKEN……?」

 開かれたのはゲーム実況とやらの類で、私が普段見ないジャンルの動画だ。今隣に座っている彼が、画面の向こうで実況しながらゲームをプレイしている。下に表示された関連動画たちも含め、かなりの再生回数を達成しているようだ。

「!? フォロワー数!?」

「あー。おかげさまで、それなりに」

「バンドの曲あげてた時フォロワー一桁だったのに。しかも全部知り合い」

「曲? あげてたの?」

 そんな質問に、喋りすぎてしまったと後悔した。ただの昔話。まあ、一年ちょっと前までのことだから、そんなに昔話でもないんだけど。

「いまは、音がきこえるものは遮断してるから」

 そう答えると、彼は何も聞かずに動画アプリを閉じた。その代わりにトークアプリを開いて、連絡先のQRコードを私に突きつけてくる。

「また、連絡してもいい?」

 音が回る。回りはじめる。それはまるで、オリジナルの楽曲を完成させた時のような、そんな鮮やかさ。温度が、湿度が、ばかみたいな速度で上がっていく気がした。

 音の波に飲み込まれて、言葉は出てこなかった。こくこくと頷きながら、スマホの画面を差し出すだけで精一杯。なんでかな。私の世界が、ほんのすこしだけ変わった気がしたのは。

 透明扉の向こう、青空が笑った気がした。