テスト勉強をする集中力も、中高生の時よりは衰えた気がした。二十歳そこそこの若者が何を言っているんだ、と言われそうだけど、事実は事実だ。ローテーブルの上にシャーペンを放り投げ、ベッドに寝転ぶ。つい手に取ってしまったスマートフォンを、薄くなった指の腹でタップする。もうすっかり、楽器を弾いていない人の指だ。
『こんにちは。KODZUKENです。今日はこれを進めるよ』
思い立って開いた動画の向こうでは、あの日の彼がリズミカルに喋っている。心地いい声だ。男の人の声は聴き取りづらいけど、彼の声はそうじゃない。特別高いわけでもないのに、聴き取りやすくて懐かしい感じがする。いいね、を押したところで、トークアプリの通知がブブッと振動した。
kenma:『夏休みなにするの?』
彼からだ。ドクン、ドクンと胸の奥が跳ねる。初めてのメッセージなのに挨拶もないし、短文一行だけなのが、彼のイメージ通りすぎて笑ってしまった。
『なにもしないよ』
kenma:『暇なんだ』
『今バイトもしてないし』
暇なんだ、って。まあ、暇ですけど。筆不精そうにみえるのに、秒で返信が来てちょっと面白い。あんなに、忙しいって言っていたのに。
kenma:『昨年の夏休みはなにしてたの?』
『夏フェス行ってた』
kenma:『なにそれ? 楽しいの?』
『すごく』
kenma:『じゃ、それ一緒行こ』
なんて返ってきたので驚いた。これって何のお誘い? あれ以来音楽は辞めたし、ライブにも行かなくなった。今は聴くことすらしていない。それなのに、どうしてだか無性にこの季節の訪れを喜んでしまう自分がいるのも事実だ。それよりも、KODZUKENと夏フェスの温度差がおかしくてしょうがない。
『暑いし人多いしうるさいよ?』
kenma:『なんでおれが苦手なもの知ってんの』
『ブログ見たから。研磨くんはロック苦手だと思う』
そう送って、無意識に研磨くん、と呼んでしまったことに気がついた。エアコンの風が頬を撫でているというのに、そこは火照って熱を帯びている。
音楽なんてもうやらない。聴かないし、生音なんてもってのほか。この世界になんの期待もしないから、明日この世が終わっても悔いはない。
それなのに、その誘いにイエスと答えてしまったのは、きっとあの日きみが音を連れてきたから。それともうひとつは、この季節のせい。
窓の向こうは白と青のコントラスト。枯れた紫陽花はどこかに消えてしまっただろうか。
夏休みが始まる。
◇
「人多い……」
「だから言ったじゃん。人多いし暑いしうるさいよって」
夏休みが来た。
快晴だけれど、風が肌をくすぐって心地いい。ゲートをくぐり抜けたところで、既にへばってしまった研磨くんを見て笑ってしまった。
「こんなに多いなんて聞いてない」
「そっちから誘ったのに? あっち行くよ」
「みんな向こうに歩いてるけど」
「人混みは声聴き取れないし、これ取れちゃうと怖いから。テント張ったりイス置いたり出来るエリアがあるの。そこから聴ければ充分でしょ?」
イスは持って来れなかったけど、レジャーシートを持参したからそれで充分だ。シートエリアの方へ足を向けた私に、研磨くんがのそのそとついてくる。まさかKODZUKENがこんなところにいるとは、誰も思わないはずだ。
「前はダイブとかモッシュとか参加してたんだけどね」
「モ……?」
用語を知らなさすぎる研磨くんが、KODZUKEN解釈(って言っても知ったばかりだけど)と一致しすぎておかしい。心地いい風に乗って、楽器たちの音が鼓膜に到着する。一年しか経っていないのに、既に懐かしく聴こえるのはきっとこの耳のせいだ。
「あ、リハ聴こえてきた。この曲知ってる?」
「全然知らない」
「そうだと思った」
だだっ広い芝生の上にレジャーシートを敷いて、靴を脱いだら解放感が私を包んだ。昔みたいに最前列を狙ったり、人に揉まれながら聴くことはもうないけれど。この空気が好きだったんだなと、改めて実感する。
「あっちビールあったけど、飲む?」
「飲む!」
「飲めるんだ」
「私、わりと強い方だと思うよ。昨年は未成年だったから飲めなかったけどね」
なんて、まだお昼にもなっていないのに早速の乾杯。二十歳になったらこの場所でビールを飲もうと決めていた。その夢も叶うことはないのかな、なんて思っていたけれど、そうでもなかったらしい。
そのうち曲が始まって、胸を掴まれるような、なんとも言えない気持ちに包まれる。コップの中で、気泡が音に合わせているかのように揺れた。研磨くんの喉仏が、ごくごくと動いている。私の胸の音に合わせるみたいに。こんなに気分が上昇したのは久々だ。
「この曲好きなの」
「初めて聴いた」
「ぜんぶ初めてじゃん。研磨くんは音楽聴かないの?」
「聴くけど、こういう感じのは初めて聴くから新鮮」
「わりといいでしょ?」
「そうだね」
今日初めてしっかりと目が合って、ふっと逸らしてしまった。どきどきする。それはたぶん男の子とここにいるからじゃなくて、この音楽と高揚感がそうさせているんだと思う。そうじゃなければ、どきどきしている理由が単純すぎて、自分のことがますますいやになっちゃうから。
「わ、今日のギターめちゃくちゃ弾けてる」
「何の楽器してたの?」
「……歌ってたよ」
ステージの真ん中でマイクを握っていたあの頃を思い出すと、今でも胸が締めつけられる。下手くそだったけど、ギターもベースもそれなりに弾けるし、曲だって作っていた。キーボードは挫折したけど。
「曲も作ってた」
「もう作らないの?」
「うん」
そこまで話したところで、風が強さを増してきた。山が近いし、天気が変わるのかもしれない。晴れていたのに雨が降るなんてことは、あるあるでしかない。
「雨降るかもね」
そう話題を変えたら、「そう?」なんてきょとんとした瞳で見つめられた。心に侵入してくるのはやめてほしい。だってこれでもまだ、世界なんて終わっちゃえばいいって思っているのだから。