ワールドエンドの恋人①

 明日、世界が消えてしまったらどれだけいいだろう。すこしだけ目を瞑る。国道を走っているらしい車のライトが、瞼の上から侵食してきた。静かだ。わずかに機能している右耳が、ブォンと鳴った情けない機械音をとらえる。

 世界なんて終わってしまえばいい。ここに来てまでまたそんなことを考える私に、きみはやさしく触れて笑うのかな。

 それでも、たしかにあの日、私の世界に音が回りはじめた。

ワールドエンドの恋人

 スマートフォンの振動で、朝が訪れたことを知った。どうやら今日も世界は終わっていないみたいだ。起きて一番にぐぅ、となるお腹の音が、生を殴りつけてきて苛々する。一限目の開始は九時過ぎだ。一直線に伸びた時計の針を見て、今朝はカフェに寄る時間がありそうだと理解した。

 好きでカフェに行くわけじゃない。ただの暇つぶし。厚切りのモーニングトーストを食べることと、居心地のよさはほんの少しの楽しみではあるけれど。

 タオルケットを剥ぎ取り、ベッドから起き上がる。いきなり立ち上がったせいで絡まった足に、一瞬だけ目眩を起こしたのかと錯覚した。ばくばくする。ベッドサイドに置いていたミネラルウォーターの蓋を開けて、安定剤を半錠口の中に放った。こじ開けたカーテンの向こうは今日も雨だ。梅雨はまだ続くのだろうか。雨の音はきこえない。

「あら。もう起きたの?」

「うん。一限だから、朝は外で食べる」

 リビングに降りると、母親がコーヒーを啜りながらテレビニュースを眺めていた。どこかの国に降ってきた隕石らしきものが、空中で燃えて塵になったらしい。母が、しっかりと私の目を見て喋るようになったのはいつからだろう。きっと、いや、間違いなく、それは昨年の夏の終わりのことだった。

「雨だから、気をつけていってらっしゃい」

「うん」

 安かったからと、両親が国道沿いの家を買った時は心底イヤだった。排気ガスより何よりも、大型トラックやバイクの走り抜ける音がうるさくて窓を開けられない。おまけに近くに大きな救急病院があるので、昼夜問わず救急車が音を鳴らして駆け抜けていく。

 それも、今はもう気にならない。

 七時過ぎには大学近くのカフェに腰をおろして、控えているテストのためにシャーペンを手にとった。こんなに真面目な大学生は、私くらいじゃないのかと思う。以前は授業の前に早朝バイトを入れることもあったというのに。

 モーニングセットのトーストのお供に選んだのはイチゴジャム。甘いものは好きだ。この時間はすこしだけ、心がやさしくなれる気がする。

 唯一居心地よく感じられるその場所は、ついつい長居しすぎてしまうことが多い。結局講堂の席についたのは九時ぴったりで、間もなく講義が始まろうとしていた。テストが近いせいか、いつもよりも参加している学生が多い気がする。どうにか空いていた窓際の席を確保して、傘を足元に、荷物を隣の席に置いた。

「ここ、座ってもいい?」

「……え?」

 ひと息つく暇もなく、からだの左側に影を感じてはっと顔をあげる。斜め上を見上げたら、猫背の男の子が立っていた。

 ゆるく結ばれた髪の毛の先が、きらきらと光っている。猫のようなまなざしに一瞬怯んでしまう。

 今、話しかけられた?

「こ、こ! いい?」

 補聴器の存在に気がついたのか、指差しをしながら口をはっきりと動かしてくれる。気がつかない人も多いからこれまた驚いてしまって、私は無言でこくこくと頷いた。

「ありがとう。席ぜんぜん空いてなかったから」

「ごめんなさい。左側から話しかけられたら分からなくて気づかなかった」

「喋れるんだ」

「右はそれなりに聴こえるから。これ外したらちょっと困るけど」

 私の隣に腰をかけたその男の子は、ノートも開かずにまじまじと私の顔を見つめて、それからふっと笑った。

「……おれを見て驚かないんだね」

「どうして?」

「どうしてって……、動画とか見ない?」

「音が出るものは苦手」

「そっか」

 どこか安心したような顔でまた笑う彼を見て、なんだか不思議な気持ちになる。私を珍しそうな目で見る人の方が多いのに、おれを見て驚かないのって、変な人だ。

「ね、いつもこの講義とってる?」

「うん」

「じゃあ、この前のノート見せてもらえない? 最近忙しいから、来れなくて。でも友達も少ないし、自分で出席するしかないから今日は来たけど」

 猫目が少しだけ下がる。一瞬目が合って、その瞳に怯んでしまいそうになった。ざわざわと、普段は気にならない講堂の音が耳にさわってしまう。

「いいよ。忙しいって、バイト?」

「んー、仕事?」

「ふーん」

 インターンシップか何かだろうか。そういうのには行きそうにない人だけど、人は見かけによらないって言うし、真面目な人なのかもしれない。

 ノートを手渡したら、すこしだけ手が触れた。指が綺麗なひとだなぁ、と思う。

 ちょっとだけかっこいいなとは思ったけど、きっともう会うこともないだろう。今度のテストが終わったら、この講義を聴くこともない。学年も名前も、どこの学科なのかだって知らないし、うちのマンモス大学じゃ出くわす機会も存在しないに等しい。

「助かった」

 左側にいる彼が、ジェスチャーを交えながらノートを返してくれる。左から話しかけられると分からないと、先ほど伝えたからだろうか。机の端に置かれた学生証を、無意識に覗き込んでしまう。

 三年、経済学部経済学科、孤爪研磨。

 初めて聞く名前だ。同い年で、同じ学科。それなのに存在を知らなかった彼に、もう少し早く出会いたかったなと、過去をすこしだけ悔やんだ。

「またね」

 講義の終わり、そう言って去っていった彼の背中を見送った。またね、って。また会えるかも分からないのに。

 しとしとと降っていた雨は、少し強さを増している。夏の足音がきこえたような気がした。