カテゴリー: long story

あまくてにがくて青い16

〜2014 Winter〜

 はぁ、っと息を吐けば白い気体がもくもくと空へ向かって駆け上っていく。空はもう暗くなっていて、自転車置き場の電球の灯りだけが私を照らしていた。久々に影山くんと待ち合わせたこの日は、彼の誕生日だった。

 アルバイトを始めた私と、春高に向けて毎日練習に励む影山くん。会える時間は教室だけになり、ふたりきりで待ち合わせることも少なくなった。

「お待たせ」

「ううん。部活お疲れ」

「もう遅いけど、飯でも行くか?」

「うん。親には遅くなるって言ってるし」

 朝早くからの練習のため自転車で来た彼とは、今日はふたり乗りはしない。彼の黒色の自転車に並んで、私の錆びた赤色がのろりと走る。途中でバレー部の集団を追いこして、何やら冷やかされた。

 私たちが訪れたのは学校近くのファミレスだった。高校生が来られるところなんて、せいぜいこんな場所。私はハンバーグを頼んで、影山くんはポークカレーに温泉卵をトッピングしたものを頼んだ。誕生日にポークカレーって、って私はおかしくなって笑ったんだけど、彼の好きな食べ物も知らなかったんだなぁ。彼の好きな食べ物を知ったのは、ずいぶん経って雑誌のインタビューをたまたま見かけた時だった。

 私はきっと、深く彼を知りすぎてしまうことが怖かった。影山くんを知れば知るほど、離れがたくなるような気がした。春になれば、私たちは離ればなれになる。それが分かっているからこそ、近づきすぎてしまうのが怖かった。

 それでも身体は恋心と欲に忠実で、手を伸ばしてしまう。この日もそうだった。帰り道の公園でプレゼントを渡したあと、無意識に抱きついてしまったのだ。ぎゅっと触れ合うと、彼のマフラーが頬に当たってちくちくした。冬の冷たい温度が突き刺さったまんまの身体が、彼に触れたいと叫んでいた。

「苗字さん」

「あっ、ご、ごめんね! 私……、こんなところで抱きついて……」

「苗字さん、俺……」

「……?」

「苗字さんのこと、拐いたい」

 クリスマスのイルミネーションがちかちかと色を変えて、私たちの顔を照らす。影山くんの表情は真剣そうで、それでいて不安そうだった。緑、ピンク、青とイルミネーションが変わっていく。青い光を見て、花火大会で食べたかき氷と、私たちを照らした花火を思い出した。青春はあまくてにがくて青い、あの日分け合って食べたかき氷みたいだ。

 イルミネーションが点滅する。冬が来た。春がすぐそばまで来ている予感がした。年が明ければ春高本番が来て、私たちは自由登校になる。新しい季節が来るのが怖い、変わってしまうことが怖いと本気でそう思った。

『苗字さんのこと、拐いたい』

だから、その言葉は私たちの意思が通じ合ってる証みたいに感じて、本当に嬉しかったんだ。

 寒さで震えた声で、心の声を言葉にする。

「……私は、影山くんに拐ってほしい」

 思い出なんていうものがあるのならば、この一瞬は思い出になってほしくなかった。今が今であってほしかった。ふたりの自転車を公園の駐輪場に置いたまま、手を繋いで走った。みんなが未来へと進んでいく中で、私たちだけが逆行している気分だった。

 たどり着いたのは、さびれた繁華街の、古いホテルの一室。そこで私たちは、ほんの少しの逃避行を経験した。ほんの一瞬でいいから、現実から目を背けたかったんだ。彼も私も、きっとそうだだったんだと思う。

あまくてにがくて青い15

〜2017 Autumn〜

 夜勤明けの翌日の、貴重な休日。出来ることなら一日寝ていたいし、のんびり過ごしていたいところなのに。どうしてだか今私は、体育館にいる。会場はほぼ満員で、間もなく始まる試合を皆心待ちにしているようだった。

「やっと折れたわねー」

 友人の声に、私はぽつりと小さな声で返事をした。

「かつてのクラスメイトの活躍を拝みにきただけだよ」

「元カレのね」

「……グリーンロケッツ応援しようかな」

「やめてよ、私アドラーズユニ買ったし」

 アドラーズユニに着替えた△△の横で、ぼんやりとコートを見つめる。応援に行った春高予選、テレビで見た春高本番。次々とあの頃の記憶が甦っては、鮮やかに色をつけていく。

 こんな隅っこの方に座っている私のことなんて、コートにいる影山くんからは見えるはずがないのに、隠れるようにして縮こまってしまう。それでも、クローゼットの奥に仕舞っていたお気に入りのワンピースを着てきたのは、きっと彼の存在が頭をちらついたからだろう。

 アドラーズに入ってからの影山くんは、ますます遠い存在になってしまった。雑誌やテレビで見かけることも増えたし、オリンピックにだって出場した。イケメンセッターだって騒がれてたっけ。

 きっと、きみは新しい生活に染まって、私のことなんかこれっぽっちも思い出さないんだろうな。そんなことをぼんやりと思った。

 私のスマホの写真ホルダーの中には、今でも体育祭で撮ったツーショット写真が残っている。削除出来ない理由は、私が一番分かってる。

 スマホも変えたし、連絡先も消した。なのに、この写真だけはバックアップまでとって残している。ああ、残酷だなぁ。残酷すぎるよ。あの時写真を撮ったことを後悔しても過去は過去。もう戻ることなんて出来ないのに、私はなぜ今ここにいるんだろう。

「あ、ほら。選手たち出てきたよ。わ、牛島選手だ!」

 △△の声に顔に、はっと我に返る。選手たちが登場しはじめて、彼らの紹介が始まった。生の牛島選手だ。背高いなぁ。星海選手も知ってる。テレビで見たから。すごいなぁ、本物だ。

 そんな風に感動したのはほんの一瞬で、数秒ののち、続けて登場した『彼』の姿に息をのんだ。時間が止まったような錯覚に襲われる。『彼』だけが、スローで動いているように見えて、私はしっかりと目を見開いた。

 なんで、視界が揺れてるの?

「ほら、出てきたよ」

 友人の声に答えられないほどに、身体が熱を帯びていくのが分かる。瞼の奥がじんと熱く重くなって、まばたきひとつすら出来なかった。

「うそ、ガチ泣き!?」

 そう言われるまで、自分が泣いていることを自覚していなかった。ようやくまばたきをひとつしたのと同時に、涙の粒がぽたりと降っていく。視界が滲んで、コートの中、ウォーミングアップを始めようとしている影山くんと目が合った。……ような気がした。

 目が合った、と思っただけかもしれない。観客席を眺めただけかもしれない。群衆の中のひとり、それだけかもしれない。ううん、むしろ確実にそう。だって影山くんは、今や日本中で人気の選手なのだから。

 対戦相手のグリーンロケッツの選手たちが登場して、試合開始のホイッスルが鳴り響く。

 ああ、もう。こうなるのが分かってたから、来たくなかったのに。

 好き。今でも、昔も、ずっと好き。忘れられない。好きで好きでどうしようもない。今もこんなにも好きだって認めてしまえば、もう前には進めないのに。認めたくなかったけれど、認めるしかなかった。だってこんなにも、涙が溢れて止まらない。

 桐生選手のスパイクを、リベロの人が拾いあげる。影山くんの手が柔らかに伸びて、片手がボールに触れた。ストン、とボールの軌道が弧を描く。見事なツーアタックに、観客席から拍手が起こった。

 ああ、本当凄いや、このひと。

 

 そのあとの試合は、ずっと泣きながら観戦していた。アドラーズ対グリーンロケッツの試合は、3:1でアドラーズが勝利した。

あまくてにがくて青い14

「お前は怖くねーのか?」

 魚のうろこのような形をした雲を見つめる。自販機で買ったヨーグルト飲料がやたらと冷たく感じて、ああ、今日は寒いんだなと気がついた。

 俺の隣で、日向はパンを齧っている。もぐもぐと咀嚼したあとに、「何が?」と不思議そうな顔で返された。

「ブラジルに行くんだろ」

「ブラジル? あー、海外に行くのは不安だけど、怖くはねーかな」

「そうじゃねぇ」

「? 何だよ?」

 日向と恋愛の話をすることなんて、一度もなかった。それなのに勇気を振り絞ってこいつに相談を持ちかけたのは、境遇が似ていたからだ。

「……エンキョリレンアイっつーのか?」

「ぶふっ! 影山くんの口から恋愛!」

「うるせー」

「何? 俺相談されてんの?」

「ちげーし!」

 日向は腹を抱えて笑いながら、残りのパンを口に詰め込んでいた。それをごくりと飲み込み、口を開く。

「怖くはねーよ。……地球の裏側っつったってさ、今はビデオ通話とか出来るべ? それに、たった二年だし。待ってるって言ってくれたし」

「……」

「影山くんは怖いんですか?」

 怖くねーよ、とは言えなかった。しーんとその場が静まり返って、ヨーグルト飲料を啜る音だけが響く。数十秒黙ったその後に、日向が顔を赤くして口を開いた。

「お、俺もさ、影山に聞きたいことあんだけど」

「あ?」

「……ちゅーしたいとか、抱き潰したいとか思っちゃうのって変なのかな?」

「!?」

「苗字さんとどこまでした?」

「……教えねー」

「ハァ!? もーいい! もう影山くんには相談しません!」

 怖くないと言いきれるこいつのことが、凄いと思った。待ってると言うこいつの彼女も凄いな、と思った。

 苗字さんは、どうして待つとは言ってくれないのだろう。それはたぶん、俺たちがエンキョリレンアイを選ぶとしても、いつまで続くものなのか想像がつかないからだ。

 それだけじゃない。俺も苗字さんも、東京を地球の裏側のように思っているんだと、そう思う。

『ビデオ通話とか出来るべ?』

 俺はそんなに器用じゃない。バレーボールに、新しい日々に夢中になって、苗字さんと疎遠になってしまうだろう。苗字さんには苗字さんの将来があるし、俺にそれを邪魔する権利もない。

 未来はいつも不透明で、ゆらゆらと揺れている。

 春になれば全て終わるのだろうかと、ぼんやりと考えてしまう自分がそこにいた。びゅっと冷たい風が吹いて、俺の身体を震わせる。真っ赤に染まった葉が舞い散って、足元に着地した。頬が冷たい。

 冬の足音がきこえる気がした。

あまくてにがくて青い13

〜2014 autumn〜

 秋の涼しい風が頬をくすぐる頃のことだった。

 春高予選も終え、無事に出場を決めたあと俺を待っていたのはテスト期間だった。テスト期間中は、原則部活は休みになる。テスト前最後の授業を終え、廊下に出たところで目が合ったのはチームメイトの山口だった。

「影山」

「おう」

「日向と一緒にコソ練とかしてないよね?」

「してねーよ」

「テストは大丈夫そう? 今日みんなで一緒に勉強する?」

「や、先約ある」

「あ、彼女か」

 いいなぁ、と言われたらなんだか照れくさくなって顔をそむけた。窓から吹き込む風が心地いい。俺に『彼女』が出来たというのは、ふたり乗りを見かけたらしいクラスメイトから一気に広まり、学校全体にすぐに知れ渡ってしまった。『彼女』の方は女子に取り囲まれて大変そうだったけれど。最近は俺たちがふたりでいることに、周りも慣れてきたようだ。

 山口に、「じゃ」と挨拶をして教室の方をふり返る。下校の支度を終え出てきた彼女に「影山くん、お待たせ!」と声をかけられたら、自然と頬が緩むのが分かった。

「今日は一緒に勉強って約束、覚えてる?」

「覚えてる」

「じゃ、行こっか」

「ん」

 自然に絡まる指と指が熱い。夏が終わってしまっても、彼女に触れると熱くてしょうがなかった。手を繋いでいるところをクラスメイトに見られて、「ひゅー、ラブラブ!」と声をかけられる。俺は平気だったけど、苗字さんは真っ赤になっていた。

 校舎の裏手、冷たい風が吹き抜ける場所にある自転車置き場まで、ふたり手を繋いだまま歩いた。ガシャン、と音を立てる彼女の錆びた自転車に、今日も俺が跨がる。苗字さんが荷台に座ってぎゅっと俺にしがみついて、背中があったかくなるのを感じた。

 苗字さんのことを好きになったのはいつからか分からない。一年生の時に隣の席になったから? 消しゴムを拾ってあげた時に可愛いと思ったから? 三年間同じクラスだから?

 分からないけれど、自覚したのはたぶん、あの夏休みの係で一緒になった時だと思う。可愛いなって思って、気がついたらそれを言葉にしていた。

 錆びた自転車は、秋の匂いをつれて走っていく。走って、走って、走って。このまま苗字さんをどこかにさらってしまえたらな、と思った。

 春になれば、俺たちは離ればなれだ。俺の夢に近づくその時、彼女は隣にはいない。そんなのはいやだけれど、どうすればいいのか分からなかった。遠距離恋愛できる自信もないけれど、別れる勇気もない。季節が移ろいでいるのを感じるたびに、時間がとまってほしいとさえ思った。

 自転車はいつの間にか道を進んでいて、あっという間に俺の家についた。今日も両親は仕事でうちにはいない。家の鍵を開けて、彼女を部屋に招く。あの夏と違って、窓を開ければ部屋はたちまち涼しくなった。

「なんだか秋の風ってせつないよね」

 俺にはよく分からなかった。夏が終わったって感じがする、と苗字さんは言っていた。

「さ、勉強しよっか」

 苗字さんが俺の部屋のローテーブルの上に、ノートを広げる。彼女の書いた丁寧な字がやたらと眩しかった。短いスカートから覗く白い太腿が、艶やかで愛おしい。

 すっとそこに手を伸ばすと、「だめだよ」と言われた。

「今日はできない日」

「……触っただけだろ」

「お触りもだーめ」

 そのかわり、ね。

 そう言って彼女が、目を閉じて唇を寄せてくる。激しく抱いてしまいたくてしょうがなかったけど、彼女の仕草が可愛くて俺も唇を寄せた。一度、軽く触れるだけのキスをする。苗字さんの唇からは、はちみつみたいな匂いがした。

「冬が来なければいいのにね」

 彼女が言う。俺もそうだと思った。

「私、テスト終わったらバイト始めるんだ」

「……そう」

「会える時間、減っちゃうね」

「ああ」

 苗字さんは、俺との思い出が増えることに戸惑いを覚えているように見えた。俺は他人の気持ちなんて察することができるほど、出来た人間じゃないけれど。苗字さんの考えていることは、なぜかよく分かった。たぶん、俺も同じ気持ちだからだ。

「影山くん」

 もう一回。そう言われて、今度は強く唇を押しつける。彼女は、バレーボール以外で、もっともっとと先を求める唯一の異性だった。そんな人は、たぶんこの先に現れる気がしない。

 時間が経つことが怖い。大人になることが怖い。彼女と違う道に進むことが怖い。

 大人のまねごとのようなキスを繰り返しながら、そんなことを思った。

あまくてにがくて青い12

〜2017 autumn〜

 目を瞑ると今も鮮やかに思い浮かぶ。入道雲、焦げたアスファルトの匂い、錆びた自転車の回転する音、大きな背中。

 高校を卒業して専門学校に入って、そこを卒業したのが今年の春。就職した介護施設は肉体労働で、なかなかハードな環境だ。慌ただしい毎日は、ほどよく過去の記憶を封じ込めてくれる。

 夜勤を終えて仮眠をとったあと、高校の頃の友人の△△とカフェで待ち合わせをした。人と会うのは久しぶりだ。職場と家との往復が日常となっていたから、△△と会う約束は唯一の楽しみで、私の心を踊らせた。

 ひと足早くカフェに到着して、コーヒーを一杯注文する。こんな苦い飲み物も、お砂糖なしで飲めるようになった。もはや毎日の必需品だ。大人になったのかなぁ、と思う反面、学生の頃に縛られたままのような感覚に襲われるのも事実だ。

 スマホのカレンダーアプリで日付を確認して、ふうっとため息をつく。今日は仙台でバレーボールの試合が行われている。アドラーズのサブホーム試合だ。

 私は卒業してから一度も、彼の試合を見に行っていない。けれども試合の日程をいちいちチェックしてしまうのは、私が過去から抜け出せていない証拠なのだろう。

 影山くんの顔がぱっと浮かんできて、ぶんぶんと頭を横に振る。覚えている。いつも隣にいたあの顔を、こんなにもリアルに覚えている。

 コーヒーをひと口含んで、気持ちを落ち着ける。顔を上げたら、窓の外から手を振る△△の姿が見えた。

「お待たせ!」

「ううん、全然待ってないよ。久しぶり」

「名前が就職してから会うの初めてだっけ? 久しぶりだね、本当! 何頼んだ?」

「ブレンド」

「大人〜! わたしカフェオレにする」

 大学生の△△は、可愛らしいワンピースを着てバッチリ化粧をしているようだった。一方夜勤上がりの私はニットにジーパン。専門学校時代は少しはおしゃれをしていたけれど、今は全くだ。いや、彼がこの街を去ってから、そういうことに疎くなってしまったのかもしれない。

 甘ったるそうな色のカフェオレが運ばれてきて、△△がそれをごくごくと飲む。おいしそうに飲む彼女が可愛いなぁ、なんて思いながらコーヒーを啜っていると、△△はとんでもない言葉を口にした。

「名前さぁ、明日休みって言ってたでしょ? バレーボールの試合見に行かない? 二日連続で試合なんだって!」

 いきなりそんなことを言い出すものだから、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになってしまう。ごほ、ごほ、とむせたあと、はーっと息を吐いて、「……行かない」とひと言で答えた。

「まだ引きずってんの? 影山のこと」

「そんなわけじゃ……! ……もう遠い存在だよ、彼は」

 そう、彼は遠い存在なのだ。

 いや、もしかすると昔から遠い存在だったのかもしれない。少なくとも付き合う前はそうだった。将来有望なセッター。同じクラスにいるだけで、自慢になっちゃうような。

 けれどもあの頃私は彼にいちばん近い場所にいた。当然だ。身体を重ねたのだから。

「ぶっちゃけさ、名前と影山ってどこまでいってたの?」

「ごほっ、ごほっ!」

「なーに、その反応! もしかして、初めての相手だったりー?」

「……」

「えっ、本当に!? やるじゃん、あいつ」

 私と彼はあの夏の日に身体を重ねた。秋が訪れてもそれは変わらず、時々会っては彼の部屋でそういう行為に及んだ。

 たった十七、八の私たちの好奇心は、とどまることを知らなかった。手を伸ばせば届くところにあった。お互いに手を取り合ってしまった。身体と身体をくっつけ合って、ぴっとりと重なった私たちは、あの頃、世界でいちばん近い場所にいたんだと本気でそう思う。

 せめて今だけはと、いちばん近い場所を求めていた。

 思い出してしまう。今でも、こんなにも鮮明に。

あまくてにがくて青い11

 九月下旬に行われた体育祭の頃には、みんなの前で影山くんと話すことにもだいぶ慣れていた。二人乗りを見かけた誰かが噂を広めたらしく、私たちの仲はあっという間に周知されてしまったからだ。今や私は、誰から見ても『影山くんの彼女』になっていた。

 夏のような暑さの日はたまにあるけれど、それでも秋の涼しさを感じる日も増えてきた。季節が過ぎるのは早い。思っていたよりもその日が来るのが早いんじゃないかって、そんなことを考えては首を横に振ってみせた。春はまだ遠い。遠いんだ。

 思い出が増えるのは怖いことだ。けれども私たちは、恋心と欲に従うことを止められなかった。夏休みと同じように彼の部活終わりに一緒に帰って、毎日のようにキスをしたし、時々身体を重ねた。

 彼と触れ合うと、時が過ぎるのを忘れられた。現実から遠いところにいられた。

 それでもまだ。思い出を作ることが怖かった。

「ねー、名前。今日の体育祭、影山と写真撮ってあげよっか?」

 体育祭が始まる少し前、着替えを済ませて髪を結っていた私に話しかけてきたのは、友人の△△だった。

 写真。……写真かぁ。

 私はあまり乗り気がしなかった。写真なんて残してしまえば、彼が東京に行ったあと寂しくなってしまうに違いない。そう思ったからだ。

「うーん。時間あったらね」

「あんたさぁ、影山モテるんだからもっと彼女アピールしなよ? この前なんて一年の子に告られてたよ?」

「えっ? そうなの?」

「聞いてない? 結構可愛い子だったよ」

 △△はそう言うと、マジックを取り出して私の腕にキュッキュッと何かを書きはじめた。急に何か書かれたのでびっくりしたけれど、書かれた『とびお♡』の文字にはもっとびっくりした。

「ほら、これくらいしなきゃ」

「ちょ! これは無理だって!」

 無理! 無理! と叫びながら、着替えに使われている空き教室を出る。腕を隠しながら校庭に向かうと、腕に『名前♡』と書かれた影山くんがそこにいた。きっと、誰か友達に書かれたのだろう。

「……うっす」

「そ、それ……」

「あー……、クラスのやつに書かれた」

「私も。……お揃いだね」

 なんだかくすぐったい気持ちに包まれて、これはこれでいいかもしれない、と思った。だって、いくら油性マジックだからって、洗えば落ちてしまうのだから。これは、記憶の中にしか残らない。写真とは違って。

「日向〜! こっち向いて!」

「ひゅー! いいねいいね! ピースしてよ」

 聞こえてきた声に顔をあげると、視線の先に影山くんのチームメイトの日向くんがいるのが見えた。親しい様子の女の子と、ツーショット写真を撮っている。ふたりとも満面の笑みで、とても楽しそうに見えた。

 彼女、さん……、なのかな?

「あいつ、彼女出来たらしー」

「そうなの?」

「ブラジル行くのにどーすんだろな」

 影山くんは遠くを見つめながら、ぽつりとそうこぼした。彼の腕に書かれた私の名前が、やたらと目につく。なんだか不安な気持ちが襲ってきて、私は影山くんの手をぎゅっと握った。

ーーねぇ、私たちはどうするのかな?

 そう聞きたかったけれど、とても聞く勇気なんてなかった。今の私にとっては、東京はブラジルくらい遠い場所だ。春になったら、どうなっちゃうのかな。不安が不安を呼んで、影山くんの手を握る力が強くなっていく。

「……い、一年の子に、告られたんだって?」

「……断った」

「聞いてない」

「断ったし」

「教えてほしかった」

 ぶすくれた私の頬を、影山くんがぷにっと突く。そのまま頬をびよんと引っ張られて、「なぁ、写真撮るか」と言葉を投げかけられた。

「へっ……!?」

「……写真。イヤならいい」

「いっ、イヤじゃないよ。……撮る!」

 思い出が増えるのが怖かった。それでも写真を残してしまったのは、いつか思い出になったその時に、寄りかかれるものがほしかったからなのかもしれない。私の心の、支えになるもの。

 友人の△△が駆け寄ってきて、カメラを構えてシャッターを下ろす。カシャリ、と音がした瞬間、私と彼の一瞬は形となった。

「これ、データでも送るねー」

「ありがとう……」

 思い出が増えるのは怖いことだ。

 けれども、嬉しいと思うのもまた事実だった。

 嬉しい。楽しい。もっと一緒にいたい。くっついていたい。手を繋ぎたい。キスがしたい。抱き合っていたい。

 溢れていく欲を止める術など知らずに、恐怖心と恋心のはざまで、揺れる心に戸惑うばかりだ。

 後日、現像した写真を彼に渡して、データをメッセージで送っておいた。形に残ることの残酷さを、この時の私はまだ知らなかった。甘かったんだなぁ、本当に。

 春はまだ遠い。大丈夫。きっと、大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、撮った写真を何度も眺めた。

 そうしている間に、季節はすっかり秋になっていた。

あまくてにがくて青い10

〜2014 autumn〜

 九月のはじまりは、夏のなごりを引き連れている。朝晩は少し涼しくなったといえども、日中の気温は高いままだ。気を抜けば倒れてしまいそうなほどに、直射日光にくらくらさせられる時もある。ほんの数ヶ月前までは外でテニスしてたのになぁ、なんて、遠くに見えるテニスコートをぼんやりと見つめた。

 私は影山くんみたいに、ひとつのことに打ち込んでいたわけじゃない。それなりに勉強して、それなりに部活して、内申点のために委員会なんて入って。ほどほどに、でも自己満足するくらいには集中して、時には力を抜いて。そういう風に器用に過ごしてきたんだと思う。

 だから私は、影山くんのことをひとつ上の存在のように感じていたのかもしれない。同じ壇上にはいない、雲の上の存在。影山くんが彼氏になったって、きっとそれは変わっていなかったんだろう。

 新学期初日の空は、夏を引き連れながらも秋の模様を成していた。

「ねぇ、名前! 影山くんとふたりで花火行ってたって本当!?」

「係一緒だったよね!? もしかして、付き合ってるとか!?」

 非日常だった夏休みが終わり、日常が始まった。それでも私の心はどこか夢の中にいるようで、ふわふわと浮き足立っていた。新学期の初日、クラスメイトからの質問攻めにあってしまった私は、これが紛れもない『現実』であると改めて実感させられてしまったのだ。

「あー、……うん。そうみたい」

 そう答えた私を、友人たちが取り囲む。あの影山くんの彼女になっただなんて、自分でもまだ信じられなくて、誰にも報告していなかった。

 いや、理由はそれだけじゃない。彼は卒業したら東京へ行ってしまう。いつか思い出になるのなら、彼とのことは自分の心にしまっておきたい。だから私は、友人たちにあまり多くを語らなかった。

「そうみたいって、付き合ってるってことだよね!?」

「影山くんってデートの時どんな感じなの?」

「ちゅーとかした?」

 友人たちからの質問を、「ほら、先生来ちゃうよ」と言ってかわす。影山くんの方をちらりと見たら、目が合ってぺこりと頭を下げられた。

 私たちさ、夏休みが始まる前までただのクラスメイトだったよね。なのにさ、夏の間に私たちは付き合うことになって、あんなすごいことも経験した。思い出すだけで、身体がかあっと熱くなっていく。頬が熱い。

 夏はまだ身体に濃く色をつけたままで、終わってはいないんだろう。そう思った。

あまくてにがくて青い9

〜2017autumn〜

 いつも同じ夢を見る。

 高校最後の夏休み、日焼けどめの匂いと蒸し暑い教室。緑ゆらめく植物。揺れるカーテンと、彼女の伏せた睫毛。

 高校を卒業してチームに入って、もう三年が経つ。サヨナラを言ったのはお互いだった。俺だって同意したはずなのに、三年という月日が経っても彼女の存在を忘れることができないでいる。仙台。地元に帰る度に、彼女はどうしてるだろうかとそればかりが頭をよぎっては、無理矢理掻き消していた。

 今日はサブホーム仙台でのゲームで、結果は勝ちだった。ロッカールームに戻り汗を拭く。試合中はゲームのことだけを考えていられるし、試合前も集中は出来ているつもりだ。けれども、終わった後はどうだろう。地元にいるという現実を思い出し、ぷつりと糸が切れたように頭の中が『思い出』で溢れていった。

「影山って彼女いるの?」

 ふっと横から聞こえてきた声に顔を上げる。大学を卒業と同時にチームに入ってきた同期だった。同期、といっても歳は向こうが四つも上なので、一応敬語を使っている。今日も変わらず敬語で、簡単に返事をした。

「いないっすよ」

「へぇ、意外。いつからいないの?」

「高校卒業してからっすね」

「あー、東京来る時別れた感じ?」

「……そっすね」

「だからか。お前さ、サブに来ると観客席よく見てんの」

 ずけずけと色々聞いてくるこの同期の言葉に、はっと目を見開いた。観客席。見ていたのだろうか。自覚なんてものはひとつもなかった。

「見て……ますかね」

「見てるね! 今日も見てたよ」

「そっすか……」

「わぁ、もしかして忘れられない感じ!? 女の子紹介しよっか?」

「遠慮しときます」

 忘れられない、のところには返事をせず、あとの提案にだけ遠慮しておいた。図星、だった。選手としての活動と、慣れない土地での暮らし。それと恋愛を両立させる自信なんてなかった。

 それに、今のチームにずっといるつもりもない。海外への移籍を視野に入れていて、出来ればイタリアでプレイしたいと思っている。そうすればまた、慣れない土地での暮らしが始まる。優先させるべきは何なのか、あの冬真剣に考えた。なのにどうして、頭の奥に彼女が焼きついて離れないのだろう。

「わぁ、ガチなのだ」

 そう言われたので無視をした。

 シャワーや着替えを済ませ、チームのバスに乗ってホテルへと向かう。部屋に入ると、ベッドに仰向けに倒れてすぐに眠ってしまった。バスの窓から見えた景色は、烏野からは少し離れているのになぜだか懐かしい空気が漂っていた。

 いつも、同じ夢を見る。

あまくてにがくて青い7

 花火大会の日も俺は一日中部活で、終わった頃には外は暗くなりはじめていた。花火が打ち上がるのは午後八時。あと一時間しかないと把握して、今日の自主練は止めにしておいた。明日朝早く来て、その分たくさん練習すればいい。

 自分の自転車に跨り、ブレーキをかけながら学校の坂を降りて、大きな県道に出る。街の風景をぐんぐん追い越して、花火大会の会場へと急いだ。景色が変わるたびに、人の群れが増えていく。浴衣姿の集団を見かけて、彼女の浴衣姿を想像した。

 早く、会いたい。誰かに対してこんな風に思うのは初めてだった。例えるならそう、日向とどっちが早く体育館に着くかで競い合っていた時のような、心の底から湧き上がる何かを放出している、そんな気分。いや、それとも少し違うかもしれない。上手く説明できないけれど、説明なんて必要なかった。俺が苗字さんを好きだという事実があれば、それでいいと思った。

 花火大会の会場に着いて、駐輪場に自転車をとめる。会場となっている河川敷へと続く緩やかな坂の途中に、苗字さんを見つけた。

「影山くん」

 纏わりつくような湿度と、人の波。暑さで汗をかいて、身体じゅうがべたつく。それでも、彼女に触れたいと思った。

「変かな?」

 白いうなじと、後ろでまとめ上げられた髪。首筋に何か塗っているのだろうか、きらきらと光っている。名前も知らない花の絵が描かれた紺色の浴衣は、彼女の顔をさらに彩っていく。よく見たら化粧もしているのだろう。変なわけ、ねぇだろ。

「可愛い」

 気がついたら、そんなことを口走っていた。彼女の頬が赤く染まっていくのを見て、あっ、と我に返る。そんなの照れくさくてしょうがなかったけれど、身体は勝手に動いてしまうもので、苗字さんの手を掴んでいた。

「腹減った」

「練習お疲れ様」

「あざす」

「何か買いに行こっか」

 好きな人といると、どうしてこんなにも時間が経つのが早いんだろう。部活終わりに急いで来た俺には時間がなさすぎて、ありつけたのはかき氷ひとつだった。青いシロップのかけられた、山盛りの氷。初めてキスをした日に見た、夏の青空のような、鮮やかなブルー。俺たちはひとつのスプーンで、それを一緒に食べた。

「これ、何味なんだろうな?」

「ね。甘くて、ちょっとだけ苦いような気もして。それでいて青いんだよね」

「苗字さん、舌青い」

「影山くんだって青い」

 普通の高校生が経験する青春なんて、自分には無関係だと思い込んでいた。それなのに今のこの時間は、なんだか胸がぎゅっと押し潰されるように、楽しくてせつない。あまくて、苦くて、それでいて青い。初恋は、鮮やかなブルーに染まったかき氷みたいだ。

「あっちの階段のとこ、座ろ?」

「っす」

 連日続く熱帯夜のせいで、ブルーの氷は段々と溶けていく。俺の体温も上昇して、このまま溶けてひとつになればいいのに、と思った。

 来年の花火を、彼女は誰と見るのだろうか。そんなことが頭をよぎったけれど、すぐに考えるのをやめた。一瞬浮かび上がった苛立ちのようなものに、気がつかないふりをする。深呼吸をして目を開くと、屋台の照明たちがふっと消えた。

「あ、花火はじまるよ」

 いつの間にか真っ暗になっていた空に、バーン、と打ち上がる大きな花の輪。次々と色を変える花火たちが、彼女の顔を照らす。

 キスがしたい。そう思って、花火に照らされた彼女の顔に近づいた。色をまとっていた彼女の光る顔に、影がおちる。塞いだ唇は、あまくて少しだけ苦くて、そして青かった。

「……見られちゃうよ」

「みんな空見てんだろ」

「影山くんって、意外と大胆だよね」

「してぇと思ったからした」

「嬉しいよ。私しか知らない影山くんを見られるの」

「あざす」

「……これもさ、このまま思い出になるのかな?」

 その言葉の最後の方は、花火の音にかき消されてよく聞こえなかった。打ち上がった青色の花火が、彼女の顔を照らす。今すぐに彼女を抱きしめたくなった。

 彼女の瞳にうつるのは、花火じゃなくって俺で。俺の瞳にうつるのも、花火じゃなくって彼女だった。食べかけの青いかき氷は、すっかり溶けて液状になっている。コンクリートの階段は昼間の熱を纏ったままで、俺たちの重なった手をさらに熱くした。

「苗字さん、花火終わったら俺んち……」

「遅くなりすぎないなら、いいよ」

「親、たぶんまだ帰ってねーから」

「ん」

 夏休みが始まる前まで、ただのクラスメイトだったのにな。二年とちょっとの間ずっと。顔と名前しか知らないけれど、可愛いな、と思えるそんな存在。小さなつぼみだった彼女の存在は、大きくなりすぎていて、俺はそのことに戸惑った。

 俺は彼女に触れたい。

 俺は彼女と手を繋ぎたい。

 俺は彼女にキスをしたい。

 俺は彼女を抱き潰してしまいたい。

 液体になってしまった青いかき氷を、ごくりと飲み干して、花火のフィナーレを見届けないまま立ち上がる。ぎゅっと手を繋いで、駐輪場までの道を歩いた。

 いつもは苗字さんの錆びたママチャリ。今日は俺の自転車。彼女を自転車のうしろに乗せて、夜の街を駆ける。背景にはまた、色鮮やかな花火たち。綺麗な景色だったけれど、彼女の方が綺麗だと思った。

『このまま、思い出になるのかな?』

 彼女は確かに、そう言った気がする。

 思い出を作ろうなんて、これっぽっちも思っていなかった。だってまだ、季節は夏なのだから。

 苗字さん、進路変えねぇのかな。なんて、そんな自分勝手なことを考えて、頭の隅に追いやる。苗字さんは絶対に、俺にバレーボールを辞めろなんて言わないのだから。

 自転車は夏の夜の熱い風を纏って、ぐんぐんと進んでいく。バーン、と音が鳴って、青色の花火がまた俺たちを照らした。

あまくてにがくて青い6

〜2014 summer〜

 いつからだろう。そばにいたいという気持ちが、苛立ちに変わっていったのは。

 少なくとも夏の間は、卒業なんて先のことのように思っていた。

 夏休みの間俺たちは、相変わらず週3ペースで係の仕事をしていたし、部活終わりに待ち合わせて無駄話をして過ごした。もちろん、自主練なんかは続けていたけれど。彼女はどれだけ遅くなっても、俺を待っていてくれた。

 俺はそんな時間が、永遠に続いてほしいと願っていたんだと思う。いや、永遠に続くものだと、勘違いしていたのかもしれない。

 あの夏確かに、彼女に恋をしていた。

「かーげやーまくん! 最近少しだけお帰りが早いようですが何してんの?」

 いつもと変わらない部活後の時間。日向が純粋な眼差しでそう質問した瞬間、月島は溜息をつき、山口は『あー……』と赤面した。なぜ山口が赤面するのだろう。意味が分からない。

「君いま面倒な質問したね」

 ぼそぼそと呟いた月島の言葉を聞いても、日向は頭の上に疑問符を浮かべている。俺は三人を無視して、彼女の待つ駐輪場へと急いだ。

「なんで無視すんの!?」

「だから日向、アレだよ、ほら!」

 日向が俺の後ろをついて来ているけれど、気にしないことにする。あいつは自転車通学だから、きっと自転車を取りに来ているだけだろう。なぜか山口までついてきて、日向にホラとかアレとか伝わらない説明をしている。駐輪場にたどり着き、彼女に手を振ったところで、ようやく日向も気がついたようだった。

「えっ!? 彼女!? まじで!?」

「だからマジなんだって! ほら、ジャマしちゃいけないからもう行くよ!」

「影山のくせになんかむかつく」

「ほら日向、ガリガリ君奢るからさ! も、行こ!」

 あいつ……、日向は、卒業したら一年間修行をして、それからブラジルへ渡るらしい。東京に比べたら遥かに遠いその地。ブラジルなんて地球の裏側だ。それでもこの時の俺は、東京のことを地球の裏側くらい遠くに感じていた。地の果てのように遠い場所なんだと。

「苗字さんって、進路決まってんっすか?」

 日向と山口が去っていくのを見届けてから、彼女の方を見る。女子にしては身長は低い方ではないはずだが、隣に立つと随分と小さく感じた。そんな彼女のことを、可愛いな、と純粋にそう思った。

「私は仙台の専門学校。この前決まったの。推薦で」

「推薦……」

「委員会活動とかしてたからかな? 内申点だけはいいんだ」

「委員会……っすか」

「ね、その敬語やめよ?」

「……ああ、分かった」

 俺は彼女のことを何も知らなかったんだな、と思わされる。知っていたのは顔と名前だけで、部活も委員会も、どこに住んでいるかだって、何も知らなかった。知りたかった。知りたいと思った。だからこの頃の俺は、彼女に変な質問を繰り返していたと思う。

「苗字さんどこ中なんっすか?」

「ほら、また敬語」

「あっ、どこ中?」

「△△中」

「何委員会?」

「去年は一年間、美化委員長してたよ」

「何部?」

「テニス」

「意外だな。色白ぇし」

「ふふっ、さっきから影山くん、質問ばっかり」

 知りたいことだらけなんだから、仕方がないだろ。そう思った。

 影山くん、と呼びかける声が好きだった。柔らかく弧を描く瞳が好きだった。笑うと下がる眉毛と、長い睫毛が好きだった。彼女のぜんぶが、好きでしょうがなかった。

 ずっとそばにいたいと思った。手を繋いだままでいたいと思った。抱き合ったままでいてもいいとすら思った。きっと彼女も、そう思っていた。

 けれども時間は残酷で、あまくてにがくて青い夏は、一瞬にして過ぎ去っていく。

「ねぇ、影山くん」

 彼女が、柔らかい声で俺の名前を呼ぶ。すっかり暗くなった空には夏の星座が輝いていて、夜風はすこしだけ涼しかった。

「花火大会、一緒に行きたいな」

 昨年の夏、部活終わりにみんなと行ったその花火大会。今年の夏は『恋人』と行くのだと思うと、なんだかむず痒かった。

「……行く」

「嬉しい! 浴衣着て行くね」

 自分が恋愛なんてするとは思っていなかったし、望んでもいなかった。バレーボールがあればそれでいいと思っていた。バレーボール以外に、自分の中に欲があるなんて知るはずもなかった。

 かわいい。愛しい。抱きしめたい。そばにいたい。キスをしたい。くっついていたい。

 色んな感情がどんどん増えていって、追いつけなくなりそうだった。彼女は、俺にたくさんの感情を教えてくれた大切なひとだ。

 心にブレーキなんて、かけられるはずもなかった。