カテゴリー: short story

研磨が初めてじゃないと聞いて嘘をついちゃう話

 私が初めての相手だと思っていた。だって、あの研磨だし。付き合ってた子がいたなんて、そんな情報を耳にしたこともない。軽々しく、緊張してる? なんて聞いた私がバカだった。そんな情報、知りたくもなかった事実だ。

「べつに初めてじゃないし……」

 研磨の部屋のベッドの上、制服のシャツのボタンを外しながらそういう彼は、緊張とはほど遠い顔をしている。そうだよね、もう高校三年生だし。春高後に爆モテしはじめた研磨だけど、その前に彼女がいたのならば周りにも知られていないと思う。私だって、存在すら知らなかったわけだし。

 けれども胸の中はなんだか黒いものが渦巻いていて、気がついた時には事実でもなんでもない言葉が飛び出していた。

「わ、わたしも初めてじゃないから」

 ごめんなさい大嘘です。それどころか研磨が初めての彼氏だし、自分で触ったことすらありません。

 これから始まる行為に慣れたそぶりを見せ、それに伴うであろう痛みをごまかさねばならない。初体験のハードルが上がってしまった。でも発言を撤回はできないから、私は非処女を装うしかなくなった。くっそぉ。自分のせいだ。しょうがない。

「そう、安心した」

 研磨はそう言ってシャツを脱ぐと、私の制服に手をかけた。あー、やっぱり処女って重いんだ。安心したって言うってことは、そういうことなんだろう。もそもそと入ってきた研磨の手の感触がくすぐったい。体に入る力を抜くことはできないし、胸の奥はばくばくと変な音を奏でている。おまけに目まで閉じてしまう始末。ファーストキスよりもかたくなった体が、重力に逆らえずに沈んでいった。はむ、とやさしく唇同士が触れ合う。

 もう、どうにでもなっちゃえ。

「ふ、体かたすぎ」

「ひぇ……?」

「おれも緊張しちゃうから、困るんだけど」

「ご、ご、ごめんなさい……!」

 緊張して強張って、こんなの萎えちゃうよね。それでも先程の言葉が嘘だと言い出せなくて、視界がゆらりと揺らぎはじめてしまう。あー、もう。エッチの時に泣く女とか、重すぎでしかない。

「ごめん、そういう意味じゃないから」

 研磨の指が、私の目尻を撫でる。こつん、と額をくっつけられて、今度は軽く触れるだけのキスをされた。

「違ってたらごめん。初めてじゃないって、嘘?」

 図星をつかれたら、ますます涙がとまらなくなった。まだ肝心なところに触れられてもないのに。押し倒されてキスをして、ちょっと肌を撫でられた。それだけ。それなのにこんなに体が強張ってしまって、おまけに嘘もバレバレ。情けなさすぎる。

「……だって、研磨初めてじゃないって言うし。処女とか重いよねって」

 涙ぐんだ声でそう伝えると、研磨は眉間に皺を寄せて、はぁと溜息をついた。

「嬉しすぎるんだけど」

「え?」

「おれが初めての男ってことでしょ?」

「そう、だけど……」

「それに、ごめん。俺も嘘ついた。かっこつけたかっただけ」

 嘘? なにが?

 理解力が追いつかなくて、思考がこんがらがる。会話から推測するに、最初の研磨の言葉に対して言っているのだろう。たぶん。間違いじゃなければ。

「えっ、と、……。それって研磨も初めてってこと?」

「……彼女いたことないし。手繋いだのもキスしたのもぜんぶ初めて」

「そうなの!?」

「おれでも、好きな子の前ではかっこつけたいって思うよ」

 何それ、嬉しすぎる。

 研磨のぜんぶの初めてを私が貰えるんだと知って、さっきまでの黒い感情はどこかに飛んでいってしまった。それと入れ替わるように浮上してきたのは、なんと言い表わせばいいのかわからない胸の高鳴り。部屋の温度と湿度が、急激に増していくような気がした。

「研磨、大好き!」

 そう言って抱きついたら、「もう知らないからね」って唇に噛みつかれた。それから先のことはお話することはできない。ごめんね。

あーもう、幸せすぎる。

back

銀島結が好きすぎる

 高校生ナンバーワンセッターの侑、その侑の補完が出来ちゃう治、体幹が凄い角名。スポーツが強い上にお顔が整っている三人は、凄くモテるし目立っている。もはやアイドル並みだ。異常である。
 分かる。分かるよ。でもね、その影に潜む銀島結という存在の魅力に、誰も気がついていない……わけがないでしょう!
 銀ちゃんはモテる。うちの高校では、三人をおさえてナンバーワンのモテ男だと思う。結婚するなら銀島くん♡ とかいうガチ勢がたくさんいることを、きっと本人は知らないのだろう。今彼は私の隣で、ズーンと肩を落としているのだから。
「なぁ、マネ。俺って目立たへんのかなぁ……」
「銀ちゃんは目立ちたいとか思うタイプじゃないでしょ?」
「せやな。でもな、レギュラーやし背番号一番若いのに、俺だけ実装されてへん……。さすがに凹むわ」
 言っちゃった! 自分で言っちゃったよ!
 そう、私たち稲荷崎高校のメンツが、バレーボールのゲームに実装されたのだ。けれどもそこに、銀島結の名はなかった。理石ですらいたのに。
「ま、せやけど、侑も治も角名もかっこええなぁ。めでたいなぁ!」
「理石に負けたとか思わないの?」
「理石はええプレイヤーやで!?」
「グヌヌ、鼻血出る! そういうところですよ! はぁひとし尊い!!!!」
「ん? 何か言うたか?」
「ううん気にしないで!?」
 そういうところ! そういうところなんですよ! 私だって侑たちをディスる気は全く無いし、まぁあいつらもイケメンではあるよな……、強いし……、とかは思うけれども! 銀島結の魅力は彼らと違うところにあるんですよ! 侑とか、ひとりだけ実装されてなかったら絶対ハァア!? なんやこのクソ運営が! とか言ってるだろうし。(何度も言うがファンが怖いのでディスっていないことは伝えておきたい)(ファンが怖いので)(怖すぎるので)
 銀ちゃんは優しいし! 熱いとこあるし! 試合してる時カッコイイし! 言う時ちゃんと言うし! 最高! 好き!
 そう、マネージャーであるこの私も銀島ガチ勢だ。かなり惚れ込んでいるし、正直結婚してくれバージン貰ってくれ! くらいには思っている。けれどもそれを悟られるわけにはいかないのだ。私と銀ちゃんがくっついたらファンたちが悲しむわけだから。隠れファンが多いのが銀島結の魅力なわけだし。あ〜! でもひとりじめしたい! 私のものになって銀島結〜!
「マネは、俺のこと目立たへんって思うか?」
「そんなことない! 私にとって銀ちゃんは一等星だよ!」
「ありがとうな! マネは優しいなぁ」
 トゥンク。優しいのはあなたです! はぁもうファンが悲しむとかどうでもいいわ! あなたが好きです私と結婚して下さい!
「一等星言うのは、マネの本音やんな?」
「うん? そだけど?」
「それだけで俺頑張れそやわ。ありがとうな!」
「私でいいならいつでも言うよ!? 銀ちゃん推しだし!」
「んん!? マネ、俺推しなん!?」
 私が銀ちゃん推しだと告げると、彼は驚いた顔をして、ぐぐっと詰め寄ってきた。うお、近い。近くで見ると本当カッコイイし、筋肉凄いし、これでなぜ実装されないんだ運営様よ!? と言いたくなる。彼が実装されていないのは、後から登場させて目立たせるためなのではと考えてしまうくらいにカッコイイとしか言いようがない。はぁ、これは私もヲタクモード止められないわ。
「気づいてないみたいだけど銀ちゃんモテるんだよ!? 銀ちゃん推しが一番多いと思う! カッコイイもん!」
「他の子もありがたいけど、マネが俺推しかどうかが大事やねんけど」
「えっと!? ハイ私は銀島結を推していますが!?」
「それはどういう意味で?」
「ひぇ!? ど、ど、どういう意味とは!?」
「俺マネのこと好きやねんけど。同じ意味かどうか聞きたいねん」
 ヒィ!? ヒイィイイ!?
 俺マネのこと好きやねんけど!?
 銀島結は告白する時絶対熱烈ストレートだとは思っていましたけど!? 解釈一致すぎるんですけど!? えええ!? 私今、告白されているのですか!?
「で、どーなん?」
「お、お、同じいみです……」
「ほな、俺と付き合うてくれるん?」
「ハイ結婚して下さい……」
「ぶっ飛び過ぎやけど、俺もそのつもりやからな!?」
 運営様、正解すぎだわ。彼がこれ以上人気になってしまったら困る。こんなに素敵でストレートに愛を伝えてくれる人が、もっとモテたら大変すぎる。ありがとうございます、運営様!
 天を仰ぐ私を見て、銀ちゃんは「? マネは面白いなぁ」なんてこぼすのだった。これは、私が将来の相手をゲットした日のお話。

back

黒尾さんと夏フェス

 暑い。暑すぎる。
 空は快晴。風は生ぬるく、人々の歓声を運んでくる。それと共に聴こえてくるのは、私が楽しみにしていたバンドの演奏と、ボーカルの歌声だ。救護室で貰った氷水を額に当てながら、テントの中でひとりその歌声に耳をすませる。今頃仲間たちはみんな、前の方で楽しんでいるんだろうな。そう思うと、バテてしまった自分が情けなくてしょうがなく思えてくる。折角大好きな黒尾さんと、一緒にフェスに来られたのに。
 そんなことを考えながら寝返りを打ったところで、テントの中に光が射し込むのを感じた。
「名前ちゃん、調子はどーですか?」
「黒尾さん!? みんなと一緒に行ったんじゃなかったんですか!?」
「んー? そろそろのんびり聴こうかなって思って。ん、顔色いいじゃん」
 身体を起こすと、先程よりも頭がすっきりしていることに気がついた。火照ってはいるけれど。
「ハイ。コレお土産」
 手渡されたのは、しゅわしゅわと泡が立ったレモネードだった。彼の手には、生ビールのカップ。手元にあった水はすでにお湯と化していたので、ありがたくてしょうがない。
「ありがとうございます」
「ビールは水分じゃないから、名前ちゃんはそっちね」
「もう干からびちゃいそうです」
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
 カップ同士を合わせると、レモネードの炭酸が鮮やかに弾けた。しゅわしゅわと湧き立つ泡は、止まることなく浮かび上がる私の恋心のようだ。口に含むと、ぴりっと喉の奥が焼けるように響く。BGMは片想いをうたった、せつない恋の歌。流れるように響く音が、私の胸の音と重なる。
「黒尾さんは優しいですね」
「卑怯な男だよ、俺は」
「卑怯?」
「好きな子がバテてるところにつけ入るような、そんな男」
「!?」
「さ、元気そうだし外で聴きましょーか? この曲好きでしょ」
 今、なんと言われたのだろうか。黒尾さんがビールを片手に少し微笑んで、テントをはらりと開く。射し込む光は、私には眩しすぎた。もうちょっと、ふたりきりでいたい。夏の魔法は、私を少しだけ大胆にさせる。
「……もう少しここにいて下さい」
 彼の腕を掴むと同時に伝わってくる熱。この熱は暑さのせい? それとも私のせい? 分からないけれど、黒尾さんの顔が真っ赤に染まるのを見て、後者であることを確信する。私も卑怯な女だ。
「ふたりきりでいたいから……」
 きっと私も彼も、夏にのぼせてしまっている。片想いの曲が終わって、始まったのは永遠の愛を誓う歌。飲み干したレモネードのカップは、音も立てずに転がっていった。

back

可愛い後輩に先を越されて焦る夢主ちゃん(黒尾)

「あの、会うたびするのって変ですかね」

 卒業以来何度か訪れていた体育館。その隅でスポーツドリンク補充の手伝いをしながら、私は思考を巡らせていた。

 する? するって、もしかして、そういう系の話?

 隣にいるのはふたつ年下の可愛い後輩マネージャー。小さくて可愛らしくって、そんな話はしませんって顔をしている彼女の口から、「する」とかいう言葉が出てくるとは思っていなかった。だから一瞬固まってしまったけれど、私が処女だと悟られるわけにはいかない。なぜなら自分は、いわゆる頼れる先輩キャラだからだ。

「えっと、するって……エッチのこと?」

「きゃー! そんなハッキリ言わないで下さいっ!」

「え、研磨とエッチしたの?」

「そ、そ、そりゃ、付き合ってますから」

「ちょっと〜、早く教えてよ〜」

 んんんん!? んんんんんんん!?

 性欲なんてありませんって顔をしている可愛い後輩その一と、そういう系の話は無理です! って顔をしている可愛い後輩その二が、あ、あ、会うたびしている……!? ですと!?

「そ、それで、会うたびって変ですかね……?」

「えっ!? あ、あ、うーん、いーんじゃない!?」

 知らん! 知らんよ! だって私処女だもん! しかも片想いこじらせたゆえの処女だもん! でもそんなこと絶対に言えない! 黒尾のために大事に処女とってるなんて言えるはずがない!

「先輩は彼氏さんとする時、どーなんですか?」

「そーいうのは人によるものでしょ」

 なんて、余裕ぶった表情で説いてみせる。私、彼氏いないどころか処女なんですけど! 経験ない歴イコール年齢なんですけど!

「さすが先輩! そうですよね! 周りと比較する必要なんてないですよね! あ、でも」

「ん?」

「きのう、黒尾さんに見られてしまって」

「ファ!? な、な、何を!?」

「その、研磨くんちで、してたら入ってきて」

「ヒェ!?」

「ごめん、また来るわって言って去っていったんですけど……、謝った方がいいんですかね? 黒尾さん、気にしてなさそうでしたけど……」

 待て。待て待て待て待て。入ってきたの!? どんなパーソナルスペースだよ。……っていうか、黒尾、気にしてなさそうだったってそういうの慣れてるからかな? 絶対童貞じゃないよね。一番に卒業してますって顔してるし。処女って重いのかな。

「さ、さすがにそういう場面は経験ないな〜」

「先輩でもですか!?」

「人がいきなり入ってくるとかないでしょ〜! 気にしなくていいんじゃない!?」

「そうですよね! ありがとうございます」

 後輩は満面の笑みで礼を言うと、彼氏の元へと駆けていった。いいなぁ。可愛いなぁ。……っていうかあの可愛いカップルが……、へぇ、へぇええぇ。や、焦ってないですよ!? 後輩が先に大人の階段昇ってたからって焦ってないですよ!? 大学生で処女だからって焦ってないですよ!?

 ……うそ。たぶん、かなり焦ってる。私。

 とりあえず、顔出したんだし黒尾に挨拶してこよ。主将だし。まぁ、下心がないって言ったら嘘になるんだけど。

 そうして向かった片想いの相手の元。そこには先客がいて、何やら相談を持ちかけているようだった。黒尾と話していたのは、私と入れ替わりで入ってきたハーフの長身イケメンだ。

 何話してんだろ。背後から、こっそりと聞き耳を立ててしまう。しかし、聞こえてきた言葉は想像していなかった類のもので、思わず声を発しそうになってしまった。

「その、……黒尾さんって、彼女さんと初めてしたときどう誘いましたか?」

 ハ!? この人何聞いてんのおおおおお!? 今部活の休憩時間! した時、ってそういう話ですよね!? 何なの! どいつもこいつも発情期なの!?

 一方の黒尾は、ひょうひょうとした顔でオトナに返答をしている。

「こんなこと黒尾さんにしか相談できないんっすよ」

「そーいうことは自分で考えるのがオトナでしょーが」

「黒尾さん! さすがっす!」

 そう答えたのを聞いて、心の奥が黒いもので埋めつくされていく。

 黒尾、慣れてるのかな……。そう答えたってことは、経験あるってことだよね? しかも、ひとりやふたりじゃなさそうだし。

 なんだかなぁ、もう。でもさ、これって、私みたいな処女でも相手にしてくれるかもしれないってこと!? もしかしてチャンスなのでは!?

 っていうかね、四割くらいはもしかして両想いなんじゃ? と思ったことがあるのですよ。黒尾、私に優しいし。たぶん思わせぶりなんだと思うけど、四割、四割くらいはこれ両想いだよね? って思ったことがあるわけなの。これは、攻めるチャンスなのでは!?

「なーんの話してたの?」

 去っていったリエーフくんを見送って、恐る恐る黒尾の元へと近寄る。黒尾は私の顔を見ると、ぺこりとお辞儀をして「名前さん、お疲れ様です」と言った。キュン。相変わらずカッコイイ。

「いっちょ前に主将してんじゃん〜! で? 彼女とする時どう誘ったの?」

「そんなこと聞いてどーすんですか」

「んー? 私が黒尾に襲われる時の参考にしようと思って」

 わー! 言ってしまった! 言ってしまった! 黒尾はたぶん、これくらい余裕のある女の方が好き。でも騙すのはフェアじゃない。だから、ここは処女を武器に使うしかないと思うのです。処女は重荷でもあるけれど、武器にもなると思うから。

「いや、先輩の方が慣れてるでしょ」

「好きな人のためにとってる、って言ったら?」

「は」

「ごめん、引いた?」

 あー、ちょっと攻めすぎたかな? けれども目の前の彼は、きょとんとした顔で私を見ている。あれ、こんな顔の黒尾初めて見るかも。

 きっと彼は女慣れしているし、経験豊富だ。九割はそう思っていたけれど、もしかするとに賭けていた自分もいる。つまり。その。実はウブだといいなっていう私の願望。

「何を、って顔してるね」

「ちょっと、何言ってるのか理解できないですね」

「大学生で経験ないっておかしい? 黒尾のためにずっと処女でいるんだけど」

 真っ赤に染まっていく彼の顔を見て、私は心の中でガッツポーズを決めた。嘘。本当に? そんなことってある?

「……俺も先輩のためにとってましたから」

「へ!?」

「今夜辺り、どーですか?」

 まさかの期待通りすぎる展開に、もう余裕ぶることもできない。これ、何回も頭の中で妄想したのだ。嘘でしょ。夢でも見てるのかな、私。

 熱を持った顔を、縦に振ることで答える。見たこともない顔をした黒尾と、真っ赤になっているであろう私。熱気のこもった体育館の中で、ふたりの関係性が変わったことに誰も気づいていないだろう。

 たぶん、きっと。今夜私は、彼とひとつになる。

back

後輩たちに先を越されて焦る黒尾さん

 ちょっと待て。待て待て待て待て。俺は今何を見ているのだろうか。暑さで呆けた頭を、ぐるぐるとフル回転させる。

 えーっと、情報を整理しよう。部屋の冷房が効くのを待ちきれなかった俺は、隣に住む幼馴染の部屋を訪れたはずだ。玄関に女の子の靴があったことには気がついた。あー、マネ来てんのね。ジャマしちゃいけないかな。それくらいの気持ちは俺にもあったわけよ。

 ところがですね、帰ろうとした俺に研磨の母ちゃんが声をかけてきたもんだから、安心したわけ。おばさんいるんじゃんって。

 だから、こう。まさかそういうことをしているなんて、微塵にも思わなかった。だって、研磨とマネだし?

 しかし開いたドアの先には、座ったまま向き合ってチュッチュしてるふたりがいたのだ。掛けられたタオルケットによりよく見えないが、床に投げられた彼の制服のズボンが全てを物語っている。

「……クロ、ノックくらいして」

「ごめん、また来るわ」

 ええええぇ!? えええええええ!?

 混乱した頭を抱えながら、階段をドスドスと降りる。「あら、もう帰るの?」とおばさんに声をかけられたけれど、「ハイ」としか言えなかった。

 正直、先を越されるとは思っていなかった。最初に彼女が出来たのだって俺だし、ファーストキスだってたぶん俺が先。研磨にエロい知識を植えつけたのは俺だし、彼はそういう話をすると溜息をついて睨んできた。部内での猥談にだって入ってこなかったし、マネと付き合いはじめたっていうだけで奇跡だなんて思っていたのに。

 まさかの、年下幼馴染が俺より先に大人の階段を昇っていただなんて。

 いや、俺だって言い寄ってくる女の子のひとりやふたりや三人、いるんですよ? ただ最近はそういうの断ってるっていうだけで。まあ、その理由は単純で、俺に片想いの相手がいるっていうだけなんですけど。

 あー。あーっ!

 俺もしかして、……焦ってる?

 モヤモヤしたまま訪れた翌日の部活タイム。俺は研磨とマネの顔を見ることができなかった。けれども自然に目に入ってしまうもので、それだけでまた焦るような気持ちが浮かび上がってくる。

 そんな俺に声をかけてきたのは、後輩のリエーフだった。顔を赤らめて、デカい図体を丸めながら小さく口を開くリエーフ。何か相談でもあるのだろうか。

「黒尾さん、相談があるんすけど」

「あっ? あ、うん、ドーゾ」

「? なんかボーッとしてます?」

「や、べつに!? ドーゾドーゾなんでも聞いてちょーだい」

「その、……黒尾さんって、彼女さんと初めてしたときどう誘いましたか?」

「ハ!?」

「こんなこと黒尾さんにしか相談できないんっすよ」

 な、ん、だ、っ、て!?

 お前もか!? お前も先を越してしまうのか!?

 なんて言えるはずもなく、「そーいうことは自分で考えるのがオトナでしょーが」なんて返してしまった。リエーフは、「黒尾さん! さすがっす!」なんて俺を称えている。

 言えねー。童貞だなんて。

礼を言って去っていったリエーフと入れ替わるように、俺に近づいてきた人物がひとり。

「なーんの話してたの?」

 今年の春卒業したばかりの、ひとつ年上の元マネージャー。つまり女子大生。その彼女が、スカートをひらひら揺らしながら近づいてくる。

 そう、その彼女こそが俺の片想いの相手であり、俺を童貞に留めている原因でもあった。

「名前さん、お疲れ様です」

「いっちょ前に主将してんじゃん〜! で? 彼女とする時どう誘ったの?」

 どうやら、先程の会話は彼女の耳に届いていたらしい。いや、俺のお初はあなたのためにとっているんですけど。

「そんなこと聞いてどーすんですか」

「んー? 私が黒尾に襲われる時の参考にしようと思って」

「いや、先輩の方が慣れてるでしょ」

「好きな人のためにとってる、って言ったら?」

「は」

「ごめん、引いた?」

 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。とってる? 何を? 何をとってるんですか? 想像がつかないんですけど。

「何を、って顔してるね」

「ちょっと、何言ってるのか理解できないですね」

「大学生で経験ないっておかしい? 黒尾のためにずっと処女でいるんだけど」

 そこまでハッキリ言われて、ようやく彼女の言葉を理解した。ダッセー、本物の童貞じゃん。俺。ま、そーなんですけどね。

「……俺も先輩のためにとってましたから」

「へ!?」

「今夜辺り、どーですか?」

 まさかの展開に、ニヤける口元を押さえるだけで精一杯だった。こくりと頷く彼女を見て確信した。どうやら今夜、俺は童貞を卒業するらしい。

 熱のこもった体育館の中、たった今関係性の変わったふたりの存在に、だれも気づいていないだろう。

back

お試しの彼氏になった研磨

『いい加減諦めればいいのに』の続き

※次の長編はここからの派生だけど別物。

 なんでこうなったのか分からない。でもたぶん、きっと、いや絶対に自分のせいだとは思っている。
 天気は快晴。夏休み一日目の部活終わり、『お試しの彼氏』になった幼馴染と並んで帰っていただけのはずだった。暑さが苦手な彼に「ちょっと休も」と声をかけられて、日陰にあるベンチに座った。……だけのはずだった。
 17と書かれたアイスクリームの自販機のボタンを、研磨の手がぽちっと押すのを見つめる。鉄朗と比べてばかりいたけれど、私よりもだいぶ大きな手をしているんだな、なんてぼんやりと思った。
 先程『彼女』とふたりで帰っていた、私の初恋のひとのことを想う。まだ好きなのかなんて、分からない。先日『お試しの彼氏』になった、今隣にいるひとのことはもっと分からない。
 自分の気持ちがなんで分からないのかなんて、もっともっと分からない。だって今、私は少なからずドキドキしているからだ。
「ひと口食べる?」
「……なんで真夏にチョコ系? シャーベットがいい」
「じゃー名前が買えばいいでしょ」
「今日お財布持ってきてないもん。研磨が奢ってよ。口の中カラカラ」
 きっと今日は三十五度超えの気温。暑すぎてとろけてしまいそうになる。ぱたぱたと胸元を扇ぎながら、快晴の空を見上げた。
「そーいう無防備なの、本当やめて」
 聞こえてきた声をの方に、少しだけ顔を傾ける。無理、そーいうの。続けてそう聞こえたあとに、ふにっと唇が柔らかいもので覆われた。
「ね、まだクロのこと好き?」
「……分かんない」
 なんでこうなったのか分からない。でもたぶん、きっと、いや絶対に自分のせいだとは思っている。事実はどうであれ、今私は完全に鉄朗のことを忘れていた。速まる鼓動は、何を表しているのだろう。
「じゃ、おれの勝ち」
 なんて言って微笑まれたらもう、ただの幼馴染ではいられない。『お試しの彼氏』を了承したのだって、たぶん私の気まぐれなんかじゃない。少しでも気持ちが傾いてしまったからだと思う。
 たぶん、今、九十度よりもっと傾いたところ。一八〇度までひっくり返してみせてよ。
 夏が終わる頃には、きっときみの完全勝利になる。

back

いい加減諦めればいいのに(研磨)

※研磨→夢主→黒尾

※次の長編はここから派生したけど別物です。

 いいかげんに諦めればいいのに。
 自分でもそう思うくらいだから、他の人から見たらこの恋は余計に報われないものに見えているんだろう。六月の空は、グレーに染まっている。今にも泣き出しそうなその空は、叶わないこの初恋と同じだ。
 体育館から続く渡り廊下。その屋根の下でひとり、意味のない時間を過ごす。待っていたって、一緒に帰れるわけでもなんでもないのに。
「帰んないの?」
 聴き慣れた声に、ふと顔を上げる。そこにいたのは待ち人じゃなくて、もうひとりの幼馴染だった。
「研磨。どしたの? 体育館の方に戻ってきて」
「名前が見えたから来た」
「そっか。うーん、まだ帰んない」
「クロのこと、待っててもしょうがないと思うけど?」
 研磨はそう言って、私の目をじっと見た。この瞳に見つめられると、嘘はつけない。まるで猫に睨まれたかのような、ごまかしがきかないような、そんななのだ。
 彼はきっと、私の報われない初恋をしっている。たぶん、ずっと前から。
「あー……、うん、分かってるよ」
「じゃあ帰ればいいのに」
「そうだね」
 渡り廊下のずっと先、部室棟の方に見慣れた黒髪が見える。隣には私と同じ女子の制服。自分よりもずっと華奢で可愛らしいその子が、今は彼の隣を占領している。
 あー、……だよね。そうだよね。一緒に帰るんだよね。
 幼馴染だから特別だと思っていた。待っていたら一緒に帰れるかもしれないなんて、淡い期待は降り出した雨に打たれて消えていく。開かれた黒色の大きな傘の下には、愛しい彼とその恋人が肩を並べていた。
 期待なんかして、本当ばかみたい。いい加減諦めればいいのに。
「いい加減諦めればいいのに」
 隣からそう聞こえて、はっと顔を上げた。口を開けば溢れそうになる涙を、ぐっと飲み込む。その涙が流れないように、顔を上げたまま研磨の顔を見る。ふっと目が合ったその瞬間、彼の唇が緩く弧を描いた。
「そろそろ、おれにしときなよ」
「……は?」
「は? って……、結構傷つくんだけど」
「こんな時に冗談やめて」
「……だいぶ前から、ずっと本気だけど?」
 そんな真剣な顔しないで。そんな真面目な顔しないで。そんな、恋してる男の子みたいな顔しないで。私ばかだから、すぐ傾いちゃいそうになるよ。
「うーん、どうしよっかな」
 そう答えた声は少し震えていた。雨が本降りになる。傘は持っていない。もう少し雨宿りしてあてもいいかもしれないな。そう思ったのはなぜだろう。
 きっと、私の初恋の終わりまであと少し。

指先に触れた熱(山口)

「忠!これ蛍に返してて!」
 ツッキーが貸したであろう教科書を、名前はやさしく俺に手渡した。直接渡せばいいのに、俺を経由する理由は分かっている。去っていく名前の髪と、夏服の裾が揺れた。
 俺とツッキーと、それから名前。小学校の頃からずっと、俺の横には名前が、そしてその隣にはツッキーがいた。

名前は、ツッキーのことが好きだ。本人に聞いたわけじゃないから、これは俺の臆測。けれどもたぶん100パーセント確実なもので、真実だ。

「いいかげん告ればいいのに」
 外は暗くなっているのに、昼間の熱が残っているかのように空気は蒸し暑い。体育館のそばの水道で水を汲んでいる名前に、そう声をかけたのはなぜだろう。草むらで光るホタルを見かけたせいだろうか。
「私が? 誰に?」
「ツッキーに」
「はぁ?」
「教科書とか、テストの答え合わせとかもさ、俺じゃなくて直接言えばいいと思う」
 名前の手が止まって、ボトルからは水が溢れはじめていた。いまにも雨が降り出しそうな曇った夜空と、上がっていく湿度。ゆらゆらと揺れるホタルの光が眩しい。名前の顔を見たら、その瞳が揺れていることに気がついた。
「えっ? なんで泣いてるの?」
「忠がそんなこと言うから」
「……脈あると思うよ?」
「ううん、私の片想い」
「?」
「今、振られたところ」
 名前の右手が、きゅっと蛇口を締めた。半袖から伸びる白い腕で、ぐいっと涙を拭って去っていく。
 ツッキーに振られた? もしかすると、最低すぎるタイミングで声をかけてしまったのかもしれない。気がついたら、後ろを向いている彼女の腕を掴んでいた。きみに触れたいと思った理由はひとつ。ずっと、名前にもツッキーにも言わなかった自分の想い。ゆらりと、ホタルの光が揺れる。
「待って!」
「……!?」
「名前が勇気出したんだから、俺も言うよ。俺は名前のことが好きだよ。ずっと、昔から」
「!?」
 ぽつり、ぽつりと降りはじめた雨。水道の蛇口からは、ひたひたと音がしている。湿気を纏った風はぬるく、溢れ出した俺の想いを絡め取っていく。名前が、驚いた表情をして口を開いた。
「えっと……、もしかして忠、勘違いしてる?」
「え? さっきツッキーに振られたんでしょ?」
「ふふ、ふふふふ」
「えっ!? 何が面白いの!?」
「私が好きなのは忠だよ」
 忠がそんなこと言うから。ううん、私の片想い。今振られたところ。
 名前の口から出た言葉を反芻し、ようやく意味を理解した。身体が燃えるように熱い。握りしめた腕が白くて細いことも、俺の方が背が高くなったことも、全てが必然のことのように思える。
 つまり、俺たちは。
「両想いなんだね、私たち」
 名前の方が一歩上手のようで、掴んだ腕を辿るようにして繋ぎ直された。指と指が絡む。あー、昔は名前の方が手が大きかったのにな。くっそ、可愛い。
『先帰るから』
 ツッキーからのメッセージが届いた頃には、雨は本降りになっていた。だからもう少しだけ、ふたりきりで雨宿りをして帰ろうと思う。指先に触れた熱は、湿度をさらに上げてしまった。

仕事に行きたくなくて駄々をこねる(研磨)

「んぁー!もう!仕事行きたくないいいぃ」
 カチャカチャとパソコンの前で作業する研磨を見ながら、私はソファの上にごろんと寝転がった。GWも最終日。長かった連休も終わり、明日から仕事が再開する。行きたくない。行きたくなさすぎる。あまりに憂鬱すぎて、つい言ってはいけないひと言をつぶやいてしまった。
「研磨はいいよね、出勤時間とかないし」
「は?」
「だってそうじゃん。好きなこと仕事にしててさ、上司もいないし。ゲームしてればいいんじゃん」
「何それ、本気で言ってんの?」
「だってそうじゃん! 本当のことでしょ!」
 そんなこと、本当は一ミリも思っていない。在宅だとはいえGWも休み無しで仕事に励んでいて、オンラインで外部の人と打ち合わせをしていたことも知っている。夜中まで編集作業して、GWに合わせて生配信して、そんな中で一日だけでもって私のために時間作ってお出かけしてくれたこともありがとうって思っている。けれども今日の私はあまのじゃくで、思っていることと反対のことを言ってしまう。自分の情けなさに、ぽろりと涙がこぼれた。
「うぅ、ぅ〜っ」
 そんな私のそばに寄って、何も言わずに頭を撫でてくれる研磨。ぽろぽろとこぼれる涙が、研磨の服に染みていく。
「ナマエはそんなこと思ってないよね」
「ぅえぇん」
「俺まともな社会経験ないし、ナマエのつらさは分かってあげられないけど。凄いなって思うし。外で人と接するのってストレス溜まるだろうなって」
「……なぐさめてくれてる?」
 そう言って顔を上げると、頬を赤らめた彼が視線をそらしながら口を開いた。
「俺今すごい仕事たてこんでるんだけど」
「うん、知ってる」
「……ちょっと休憩」
「んん!?」
「甘やかしてあげるから、仕事頑張ってって言ってんの」
 ぎゅっと抱きしめられて、そのままソファの上になだれこむ。あれ、私たち喧嘩してたんじゃなかったの!? と戸惑う暇も無しに、唇に熱が降ってきた。手と手がきゅっと絡み合う。
 ああ、もう。こんなの、頑張れるに決まってるじゃん。

黒尾さんにお持ち帰りされる

 入社式には満開だった桜は、バタバタと走り抜けている間に葉桜になってしまった。新生活に合わせて買ったスーツでは汗ばむほど暖かい日も増え、思考が季節に追いつかない。

 この春大学を卒業した私は、新入社員として忙しい日々を過ごしていた。長時間机に張りついての新入社員研修を終えたと思えば、オフィスと外回りを往復する日々が始まった。怖い先輩(もちろん女性)はいるし、礼儀に厳しいし、覚えることも多いし、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。唯一の救いは、一緒に営業回りをしている黒尾さんがイケメンだということ、ただそれだけだ。

 はぁ、学生に戻りたいなぁ。黒尾さんに声をかけられたのは、ふうっと大きなため息をついたその時だった。

「だいぶ疲れてるね〜! どう? 今夜辺り飲みに行きませんか?」

 イケメンに誘われたからといって、正直面倒くさい気持ちが大きい。相手が黒尾さんだとしてもだ。先週も歓迎会があったし、先輩と飲むなんて気をつかうだけで面倒でしかない。

「えっと……」

「俺が苗字サンとふたりで飲みたいんだけど?」

 見上げれば整った顔がそこにあって、「ハイ」ということしか出来なかった。うう。その顔ずるい。その言葉もずるい。どうやら今日はふたりきりだと知って、肩の力がするりと抜けていく。

 イケメンの持つ力は思っていたよりも大きく、その夜私はべろんべろんに酔っ払ってしまうこととなる。

「それで、△△さんがこんなこと言うんです〜!」

「うんうん、しんどいね」

「同期の子なんて顔が広いみたいで元々の知り合いがどんどんお客さんについて! ずるいんです〜!」

「あー、そういうのは最初だけだから」

「比較されてしんどいです〜」

「うんうん、分かるよ」

「うえぇぇん」

 先輩と飲むなんて気を遣うし面倒でしかない。そう思っていた私の心は、その夜にはコロッと変わっていた。この人は、相手の感情をコントロール出来てしまうのだろうか。そう疑ってしまうくらいに、黒尾さんには本音をぽろぽろ言えてしまう。喋り上手だなと思っていた彼は、どうやら聞き上手でもあるらしい。

 私はビールのジョッキを机に叩きつけながら、黒尾さんに愚痴をこぼした。どうやら余程ストレスが溜まっていたらしい。今手元にあるのは八杯目。回らない舌で愚痴をこぼしながら、子どものようにわんわんと泣いた。

「俺ね、苗字サンは優秀な新入社員だと思うわけよ」

「ありがとうございますぅ」

「でもね、ちょっと先輩からひとつだけ注意していい?」

「ひゃい! ごめんなさいぃ」

 完全に酔っ払ってしまったことを自覚しながら、背筋を伸ばしてみる。けれども上手く力が入らなくて、私の身体はカウンター席の隣にいる黒尾さんの肩にもたれかかるように傾いた。見上げれば、整った顔立ちの彼と目が合う。わ、本当にイケメン。ずるい、このひと。

「そーいうとこ! 無防備すぎだし可愛すぎるし、気をつけとかないと俺みたいなのに襲われちゃうわけよ? 分かる?」

「黒尾さんになら襲われてもいいです〜」

 なんて酔ってるせいでぽろりと零れた本音に、はっと思考がクリアになる。一瞬にして冷めた酔い。今の言葉は、紛れもなく私の中にあった本音だ。訂正しようと口を開こうとしたら、先に彼の声が降ってきた。その目はゆるく弧を描いている。何かを企んでいるかのように。

「じゃ、先輩が色々教えてあげましょーかね」

 そんなことを言われたら、断れるはずなんかない。酔いは冷めてしまったけれど、私の心は新しい恋に酔いしれているようだ。気がつけば一緒のタクシーの中にいて、彼のうちへと連れて行かれていた。今日は金曜日。明日は休みだ。もう、どうにでもなっちゃえばいい。

 窓の外に見える夜景をぼんやりと見つめながら、黒尾さんの肩に体重を預けた。

治にお弁当を作る

 女として生まれたからと言って、料理が得意なわけではない。下手なわけでもないけれど、出来れば人には食べさせたくないと思うレベル。母や友人には『普通においしいよ?』と言われるけれど、私はそうは思っていない。だって私の彼は、食のプロなのだから。

 だからこそ、今聞こえた言葉を疑う他なかった。

「せやなぁ、一回でええから弁当作ってほしいなぁ」

 もう一度、同じ言葉が降ってくる。定休日デートの帰り、ぽかぽかとあたたかい春の夜道が、一瞬にして真冬に戻ったかと思った。一体、何の冗談を聞かされているのだろう。

 ひきつった顔をしているであろう私と対照的に、隣を歩く治くんは満面の笑みをこぼしている。

 治くん手作りの逆チョコを貰ったのが、一ヶ月前のバレンタインデーのこと。ホワイトデーのお返しは何がいいかな? と聞いたところ、まさかの言葉を頂戴してしまったのだ。返事をする声も、つい震えてしまう。

「えっ? 私、料理得意じゃないよ?」

「名前ちゃんの作る料理、食うたことあらへんもん」

「だって治くんの作る料理の方が絶対おいしいじゃん」

「……せやなぁ、ご飯はおにぎりがええな」

 そこは否定しないんだ、と思いつつも、そのあとに続いた言葉に声が出なくなる。おにぎりがいい。今、そう聞こえたのだろうか。おにぎり。……おにぎり。おにぎりこそ、彼の一番得意な料理だというのに。

「えっ、ごめん! 聞こえなかった」

「おにぎり! おにぎりがええ!」

「……せいぜい塩むすびだよ?」

「ええん!? 楽しみやわ」 

「本当期待しないでね! 下手だから!」

「むっちゃ期待しとる」

 治くんはそう言って立ち止まると、ひとつキスを落として帰っていった。はらりと春の花が舞い落ちて、地面にぺとりと張りつく。生ぬるい風が、去っていく彼の髪を揺らした。

 あー、これ、ガチで期待されてるのだ。どうしよ、本当。スキップしながら夜道を行く治くんの背中を、ただ見つめることしか出来なかった。

『おにぎり 作り方 おいしい』

『お弁当 おかず 簡単』

『おにぎり ラッピング おしゃれ』

 期待しないでねと言ったけれど、それなりに見た目や味を気にはするもので。スマホの検索履歴は、見事にそういうキーワードだらけになっていた。毎日のように試作を重ね、なんとか人に出せるレベルのものは作れるようになった。まあ、相手がおにぎり屋の店主となれば話は別なんだけれど。

 そうして迎えた当日、私は開店前の『おにぎり宮』を訪れていた。仕事は有給を取って、朝から三回作り直しただなんてとても言えやしない。

「本当に期待しないでね」

「名前ちゃんの手作り弁当や! 開けてもええ!?」

「……どーぞ」

 普段私が使っているお弁当箱と、100円ショップグッズで包装されたおにぎり。治くんはお弁当箱をぱかりと開けると、最上級の笑顔で口を開いた。

「いただきます!」

「えっ!? 今から食べるの!?」

「お昼には店開けるからな」

「えっ待って目の前で食べられるのなんだか照れるんだけど!」

「ええやんええやん」

 少し粉をふいた唐揚げと、焼いただけのウィンナー。甘くなりすぎた卵焼き。茹ですぎてくたくたになったブロッコリー。それから、治くんが握るのよりもずっと下手な握り方のおにぎり。

 治くんが箸を手に取るって、ニコニコしながらおかずをひとつずつ口に入れていく。それからおにぎりの包装をぺろんと巡り、はむっと噛みついた。

「ん〜! ええ塩かげん!」

「しょっぱくない!?」

「おいしい」

「本当に!?」

「俺な、最後に食うメシ何にするか言われたらほんまに迷うんやけど」

「うん?」

「名前ちゃんの作ったメシやて今なら言えるわ」

 とんだ爆弾発言を投下されて、頬がかあっと熱くなっていく。「さっ、仕込み仕込み〜」と言いながら前掛けをつける治くんは、随分と満足そうな顔をしている。私だけが照れていて、治くんの方が一歩上手な気がして、本当にずるい。ずるすぎるよ、治くん。

 そんなことを考えていると、治くんが私の顔を見つめながら新たな爆弾を投下してきた。その頬はほんのりと色づいているように見える。

「……なぁ、なんでおにぎりがええ言うたか分かる?」

「どうして?」

「……将来俺の隣で手伝ってもらわなアカンからな」

「!?」

 それって、そういう意味? そう聞こうとするけれど、言葉が声にならない。将来隣で、って。そういう意味ですよね!?

 わなわなと震えていると、治くんは馴染みの帽子をひょいっと外して、私の唇に唇を重ねた。一度触れるだけの軽いキスだけれど、そのあとそのままじっと見つめられて動けなくなってしまう。こんなに真面目な顔の治くん、見るの初めてかもしれない。

「そういう意味やから」

「〜!」

「今日、夜行くからな」

「う、うん」

「覚悟しとき」

 そう言って仕事に戻る治くんの背中は、この前の夜見たそれよりも随分と逞しい。鼻歌を歌う彼の背を見つめながら、私は火照りすぎた身体を冷ますことも出来なかった。

 そんな、春のお話。

さよなら、私の片想い【北】

 生ぬるい風と、春の訪れを予感させる花のつぼみ。涙がこぼれてしまわないように見上げた空は、悲しいくらいに青くて綺麗だった。

「ごめんな」

 勇気を出して口にした言葉は、そのひと言に飲み込まれていった。なんと返せばいいのか分からなくって、無言でお辞儀をする。口角を上げるだけで精一杯だった。卒業、おめでとうございます。震えた声で、最後にそれだけ伝えて後ろを向いた。

 たかが二年間、されど二年間。私の恋はその日、終わりを告げた。

 北さんと出逢ったのは、高校に入ってすぐ、マネージャーとして入った男子バレー部でのことだった。真面目で誠実で、真っ直ぐなひと。最初に見た時から気になっていたけれど、彼を知るたびにもっと好きになっていった。

 最初はただ見つめるだけで、話しかけるのも一苦労。けれども北さんが主将になってからは自然と話す機会も増えていって、『好き』はどんどん大きく強くなっていった。

 そんな彼が卒業してしまう。会えなくなってしまう。そう思うと黙っていられなくって、私はこの気持ちを伝えることを選んだ。

 きっと、断られるんだろうなって分かっていた。玉砕覚悟だったから、どんな振られ方をしても泣かない自信はあったし諦められると思っていた。けれども想像力とは現実に追いつけないもので。振られた後は大泣きしたし、告白から二ヶ月経とうとしている今も諦められずにいる。

 あれから、北さんとは会っていない。大耳先輩や赤木先輩なんかは時々部活に顔を出してくれたけれど、北さんが来ることはなかった。もしかして私に会いづらいのかな、なんて一瞬よぎったけれど、彼にとって私はそんなに重要な人物ではないと気づいて笑いが出る。それでも毎日北さんのことを考えたし、恋心が消えることはなかった。会えないのに、また彼のことを考えてしまうんだろうな。

 ところが、そんな『日常』は終わりを告げることとなる。北さんが部活に顔を出したのは、GW合宿が始まった初日のことだった。

「北さんや!」

 誰かがそう叫んだその時、体育館の扉の向こうから見えたその顔を見て、私の心は二ヶ月前のあの日に戻されてしまった。諦めたかった恋心が、爆速で色をつけて込み上げてくる。だめ、だめ。諦めなきゃいけないのに。今、彼に会うわけにはいかない。だってそばで会話なんてしてしまった日には、もっと好きになってしまうに決まっているのだから。

 北さんの存在を察知した瞬間、反対側の扉から逃げ出していた。五月の空気はあの日よりもずっと熱を持っていて、私の気持ちを表しているかのようだ。消したい、でも消えずに加速していくこの恋心。どうすれば諦めることが出来るのだろう。

 走って、走って、たどり着いたのは体育館の裏。誰も来ないであろうその場所に立ち止まり、乱れた呼吸を整える。はっ、と顔を上げたら、そこにいるはずのない北さんが目の前に立っていた。

「なんで……」

「苗字が走ってくの見て、先回りしたんや」

「……」

「俺のこと避けとる?」

「……なんだか、気まずくって」

 本当のことだけれど、それだけじゃない。会ってしまえば余計に諦められなくなるから、会いたくなかった。会話をしたくなかった。けれども会ってしまえば、そんなのは偽りだと分かってしまう。

 会いたかった。声が聞きたかった。永遠に片想いでいいから、あなたの顔が見たかった。

「ごめんな」

 あの時言われた言葉がもう一度聞こえて、思わず下を向く。今、もう一度振られたのかな。お願いだから、そんな風に謝らないでほしい。私が勝手に好きでいるだけなのだから。

「謝らないで下さい……」

「ちゃうねん」

「……?」

「もっかい、苗字と話したかった」

 とくん、と胸の奥が高鳴る。真っ直ぐに彼の顔を見たら、いつもよりも真剣なまなざしで見つめられた。心臓がばくばくして、どきどきして、頭の中が北さんで埋めつくされていく。

 あー、まだ好きなんだなぁ、大好きなんだ。私、北さんが好き。叶わないのに、諦められるはずなんてない。

「好きや」

 とても現実とは思えない言葉が降ってきたのは、その時だった。自分の耳を疑ってしまう。今、なんて言った?

「苗字のことが好きや」

「……へっ!?」

「本当は、あの時オッケーしたかったんやけど……」

「えっ!? えっ!?」

 じゃあ、なんで。そう聞こうとするけど、上手く言葉が出てこない。北さんは照れたような笑顔で私を見つめて、とんでもない言葉を口にした。

「高校生に、手ぇ出されへんやろ?」

「……っ!?」

「一年間も、待てる自信なかったんや」

「……待たなくて、いいで、す……っ!?」

私の言葉は、そこで止まってしまった。彼に抱きしめられたからだ。すぐそこにチームメイトたちがいるのに、身体を密着させて、ぎゅーっと抱きしめられている。思っていたよりも大きな身体と、彼の心臓の音。におい。顔に当たるさらさらの髪。その全てに頭がくらくらして、倒れてしまいそうだと思った。

「きたさ……っ、ん、」

 次の言葉は、押し当てられた唇に遮られてしまった。その後のことは、私たちだけしか知らない。

 これは、私の片想いが終わった日のお話。