黒尾さんにお持ち帰りされる

 入社式には満開だった桜は、バタバタと走り抜けている間に葉桜になってしまった。新生活に合わせて買ったスーツでは汗ばむほど暖かい日も増え、思考が季節に追いつかない。

 この春大学を卒業した私は、新入社員として忙しい日々を過ごしていた。長時間机に張りついての新入社員研修を終えたと思えば、オフィスと外回りを往復する日々が始まった。怖い先輩(もちろん女性)はいるし、礼儀に厳しいし、覚えることも多いし、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。唯一の救いは、一緒に営業回りをしている黒尾さんがイケメンだということ、ただそれだけだ。

 はぁ、学生に戻りたいなぁ。黒尾さんに声をかけられたのは、ふうっと大きなため息をついたその時だった。

「だいぶ疲れてるね〜! どう? 今夜辺り飲みに行きませんか?」

 イケメンに誘われたからといって、正直面倒くさい気持ちが大きい。相手が黒尾さんだとしてもだ。先週も歓迎会があったし、先輩と飲むなんて気をつかうだけで面倒でしかない。

「えっと……」

「俺が苗字サンとふたりで飲みたいんだけど?」

 見上げれば整った顔がそこにあって、「ハイ」ということしか出来なかった。うう。その顔ずるい。その言葉もずるい。どうやら今日はふたりきりだと知って、肩の力がするりと抜けていく。

 イケメンの持つ力は思っていたよりも大きく、その夜私はべろんべろんに酔っ払ってしまうこととなる。

「それで、△△さんがこんなこと言うんです〜!」

「うんうん、しんどいね」

「同期の子なんて顔が広いみたいで元々の知り合いがどんどんお客さんについて! ずるいんです〜!」

「あー、そういうのは最初だけだから」

「比較されてしんどいです〜」

「うんうん、分かるよ」

「うえぇぇん」

 先輩と飲むなんて気を遣うし面倒でしかない。そう思っていた私の心は、その夜にはコロッと変わっていた。この人は、相手の感情をコントロール出来てしまうのだろうか。そう疑ってしまうくらいに、黒尾さんには本音をぽろぽろ言えてしまう。喋り上手だなと思っていた彼は、どうやら聞き上手でもあるらしい。

 私はビールのジョッキを机に叩きつけながら、黒尾さんに愚痴をこぼした。どうやら余程ストレスが溜まっていたらしい。今手元にあるのは八杯目。回らない舌で愚痴をこぼしながら、子どものようにわんわんと泣いた。

「俺ね、苗字サンは優秀な新入社員だと思うわけよ」

「ありがとうございますぅ」

「でもね、ちょっと先輩からひとつだけ注意していい?」

「ひゃい! ごめんなさいぃ」

 完全に酔っ払ってしまったことを自覚しながら、背筋を伸ばしてみる。けれども上手く力が入らなくて、私の身体はカウンター席の隣にいる黒尾さんの肩にもたれかかるように傾いた。見上げれば、整った顔立ちの彼と目が合う。わ、本当にイケメン。ずるい、このひと。

「そーいうとこ! 無防備すぎだし可愛すぎるし、気をつけとかないと俺みたいなのに襲われちゃうわけよ? 分かる?」

「黒尾さんになら襲われてもいいです〜」

 なんて酔ってるせいでぽろりと零れた本音に、はっと思考がクリアになる。一瞬にして冷めた酔い。今の言葉は、紛れもなく私の中にあった本音だ。訂正しようと口を開こうとしたら、先に彼の声が降ってきた。その目はゆるく弧を描いている。何かを企んでいるかのように。

「じゃ、先輩が色々教えてあげましょーかね」

 そんなことを言われたら、断れるはずなんかない。酔いは冷めてしまったけれど、私の心は新しい恋に酔いしれているようだ。気がつけば一緒のタクシーの中にいて、彼のうちへと連れて行かれていた。今日は金曜日。明日は休みだ。もう、どうにでもなっちゃえばいい。

 窓の外に見える夜景をぼんやりと見つめながら、黒尾さんの肩に体重を預けた。