仕事に行きたくなくて駄々をこねる(研磨)

「んぁー!もう!仕事行きたくないいいぃ」
 カチャカチャとパソコンの前で作業する研磨を見ながら、私はソファの上にごろんと寝転がった。GWも最終日。長かった連休も終わり、明日から仕事が再開する。行きたくない。行きたくなさすぎる。あまりに憂鬱すぎて、つい言ってはいけないひと言をつぶやいてしまった。
「研磨はいいよね、出勤時間とかないし」
「は?」
「だってそうじゃん。好きなこと仕事にしててさ、上司もいないし。ゲームしてればいいんじゃん」
「何それ、本気で言ってんの?」
「だってそうじゃん! 本当のことでしょ!」
 そんなこと、本当は一ミリも思っていない。在宅だとはいえGWも休み無しで仕事に励んでいて、オンラインで外部の人と打ち合わせをしていたことも知っている。夜中まで編集作業して、GWに合わせて生配信して、そんな中で一日だけでもって私のために時間作ってお出かけしてくれたこともありがとうって思っている。けれども今日の私はあまのじゃくで、思っていることと反対のことを言ってしまう。自分の情けなさに、ぽろりと涙がこぼれた。
「うぅ、ぅ〜っ」
 そんな私のそばに寄って、何も言わずに頭を撫でてくれる研磨。ぽろぽろとこぼれる涙が、研磨の服に染みていく。
「ナマエはそんなこと思ってないよね」
「ぅえぇん」
「俺まともな社会経験ないし、ナマエのつらさは分かってあげられないけど。凄いなって思うし。外で人と接するのってストレス溜まるだろうなって」
「……なぐさめてくれてる?」
 そう言って顔を上げると、頬を赤らめた彼が視線をそらしながら口を開いた。
「俺今すごい仕事たてこんでるんだけど」
「うん、知ってる」
「……ちょっと休憩」
「んん!?」
「甘やかしてあげるから、仕事頑張ってって言ってんの」
 ぎゅっと抱きしめられて、そのままソファの上になだれこむ。あれ、私たち喧嘩してたんじゃなかったの!? と戸惑う暇も無しに、唇に熱が降ってきた。手と手がきゅっと絡み合う。
 ああ、もう。こんなの、頑張れるに決まってるじゃん。

手が3つほしい件

こんにちは!

影山くんの長編完結して、研磨くんの長編開始しました!前作はシリアスな感じで今回はピュアを目指してるので、もう一本甘キュンなのを書きたいんですよね……!!!!

一応練ってるのが北さんとBJ木兎さんなんですけど、高校生も書きたいし手が3本欲しいです。

影山くんの本は入稿してきたので、もう一冊新刊発行したいな〜と思ってますが時間が……!バカなのかな!?

書いてほしいキャラとかいたら教えて下さい……あと夢ソンも教えてほしい〜!ご感想もウェブボにスタンプだけでも嬉しすぎるのでいただけたら跳ねて喜びます!!!!

また後日新刊お知らせしますね!

火星の裏側で抱きしめて3

スターダストミッドナイトランⅢ

 スターダストミッドナイトラン。日本神話とギリシャ神話を織り交ぜた独自のストーリーを展開する、最新のゲーム。研磨くんに借りたそれの一章をクリアする頃、約束の日が訪れていた。

「おじゃまします」

 研磨くんのうちの最寄駅で電車を降りて、真っ暗な夜道を歩いて到着した。研磨くんは「迎えに行くつもりだったのに」と少し焦った様子で、それが意外で笑ってしまったんだけれど。

「ま、無事に着いたならいいや。今度から先に連絡して」

「はーい。この辺、星がよく見えるんだね」

「田舎だからね。予定、真夜中だからゲーム進める?」

「おじゃまします。うーん、今日は一章クリアしたから、ストーリーまとめたいかも」

 そんな会話を繰り広げながら、靴を脱いで彼のうちに上がる。玄関の床が、ギシリと音を立てた。

「……またホイホイ夜中に男のうちに来た」

「研磨くんが来てって言った」

「ま、そーだけど。……二時から配信するから」

「二時? そんな時間にゲーム配信?」

「そっちじゃない」

 研磨くんが顔を上げて、いつもの不敵な笑みをみせる。次に鼓膜に届いた言葉は、私の心を潤わせるには充分すぎた。

「今日は、『火星の裏側』」

 心臓がどくどくと脈打つのを感じる。『火星の裏側』。その言葉を聞いただけで、呼吸が乱れそうになるほどにおかしな気持ちになる。この気持ちはきっと、ただのあこがれ。

 速まる胸を抑えて、配信までの時間ゲーム考察をまとめて過ごした。

 瞳を開けば満天の星空。どうしてだか今私は、研磨くんとふたりで芝生の上に寝転がっている。

「ハロー、火星の裏側です!夜なのにハローは変かな。今夜はこと座流星群だね。きみの住んでる街の天気はどう?こちらは晴れ、視界良好。天体望遠鏡も用意したよ」

 約一時間前、研磨くんのうちのお庭に天体望遠鏡を立てて、上弦の月が沈むのを見届けた。天候は晴れ。月は沈んで、遮るものは何もない。絶好の星座観察日和だ。

 研磨くんのスマートフォンが、生配信画面に切り替わっている。『コヅケン』の動画を見てみたけれど、『火星の裏側』の時は少しだけ声を変えているようだっだ。優しく届く柔らかい声が、深夜二時の空気を澄んだものに変える。どきどきしていた。きっと今、憧れの『火星の裏側』さんの配信を本人の隣で聞いているからだろう。

「ピークは3時。月がないから条件サイコーだね。日本列島って長いからさ、月の見える位置とかも違うのかな。こっちは一時頃に月が沈んだんだけど。あ、西の民さんこんばんは! コメントありがとう。九州なんだね。そっちは曇りなんだ。雲、晴れるといいね。ペルセウスさん、ありがとう! 北海道なんだね」

 研磨くんの声を聴きながら、芝生に寝そべったまま夜空を見つめる。彼が火星にまつわる話なんかをしている間、私は黙って流れ星を待っていた。

日付が変わって4月23日。深夜2時15分。真上を見上げているので方角なんて分からない。宇宙に放り込まれたような空間の中で、隣にいる研磨くんの手がこつんと当たる。ドキドキしているのは『火星の裏側』さんの生配信のせいだ。見た目よりごつごつした手をしているんだな、意外だな。そんなことを考えていると、夜空に一本の筋が流れるのが見えた。続けてもう一本、細い線が流れる。

「……っ!」

 声を上げそうになったその瞬間。研磨くんの手が私の唇を覆った。『静かに』っと人差し指を立てられて、今が配信中であることを思い出す。研磨くんの手が直接唇に触れて、流れ星を見たことよりもそっちに心が持って行かれてしまう。心臓が口から飛び出してしまいそうだ。例えるならそう、このまま火星の裏側まで飛んでいってしまいそうなくらいに、ドキドキしている。

「今日は青い星さん来ないね」

 研磨くんが、またにやりと笑いながら私の方を見る。私の横に置かれたスマホの画面を、彼がトントンと叩く。また目配せされて、口パクで『早く』と促された。

『こんばんは。私は東京です。流れ星見えました』

 急いでスマホを手に取り、動画をミュートにしてコメントを打ち込む。最新コメントに『青い星』からのメッセージが表示されて、研磨くんの顔が満足そうなそれに変わった。

「青い星さん来てくれると思った! いつもありがとう! 東京なんだ、俺もわりと近くにいるよ」

 わりとって、隣にいるじゃん。そう思って研磨くんの方を見れば、目が合ってふっと柔らかく笑われた。

 このひと、こんな風にも笑うんだ。いつもの企んでいるような顔じゃない。柔らかで、優しい雰囲気の表情をしている。

 このひとは、『火星の裏側』さんなんだろうか。それとも、孤爪研磨? コヅケンじゃないよね、今は。分からない。分からないけれど、私の気分は高揚していた。この星の重力にさからって、ふわふわと浮いてしまえそうな気持ちにさえなる。初めてだ。こんな感情を抱くのは、生まれて初めてだからなんと表現したらいいのか分からない。けれども、ドキドキしているということだけは分かった。

「こういう時にさ、誰かといっしょに星空眺めてさ、時間を共有出来たらいいよね。友達だったりとか、恋人だったりとか。もし光の速さで飛べるなら、きみはどの星に行きたい? 俺は火星かな。赤い惑星ってのがロマンあるし」

 そう言う研磨くんの隣で、スマホをタップしてコメントを打ち込む。時刻はピークの三時に近づいている。いつの間にそんなに時間が経ったのだろう。体感時間は何百分の一だ。

『一番好きな星は火星ですか?』

 私がそう質問すると、研磨くんはうーん、と深く考えるような仕草をみせて答えた。優しい声がまた鼓膜に届く。

「うーん、前はそうだったけど最近は違うかも」

 時計が午前三時をさす。空には無数の流れ星。その絶景に思わず息を飲んでしまう。お互い初めて見る流れ星は、思っていたものの何百倍も綺麗だ。体感時間が何百分の一で、流れ星は思っていたよりも何百倍も綺麗で、身体は重力に逆らってしまいそうで。本当に宇宙空間に飛び立ってしまいそうだ。感覚が狂ってしまう。

「俺たちが住んでるこの星って本当は一番綺麗なんじゃないかって、最近思った。宇宙に行けるのならさ、俺はこの青い星を見たいよ。住んでるのに見れないって酷だよね」

 研磨くんの手が、また私の右手に当たる。皮膚と皮膚が一瞬触れ合っただけかと思えば、指先を探るように彼の手が伸びてきて、指を絡め取られた。ぎゅっと手を握られて、わけが分からなくなる。身体が爆発して消えちゃいそうだ。研磨くんの方が見れない。それでも気になってちらりと横目で見たら、研磨くんは反対側を向いていて表情が分からなかった。

「今誰かが隣にいるなら、手を繋いでみてほしい。このひと時がもっと素敵なものになると思うんだ。寝転がってみて? すご、俺いま、宇宙のなかにいる」

 うん、私もいま、同じことを考えていた。私たち、宇宙のなかにいる。

南の民さん『地球は見えましたか?』

オリンポスさん『地球みえたー?』

 コメントが次々と更新されていく。それを追うことも出来なくなって、左手に握っていた私のスマホの明かりが消えた。研磨くんの顔が、こっちを向く。

「うん、地球すごい綺麗」

 いま、研磨くんは星空を見ていない。私の瞳をじっと見つめて、そんなことを言ってのける。なにこれ。なにこれ。地球って『青い星』のこと? そんな解釈、自己都合すぎる?

 分からない。彼が何を考えているのか分からない。『火星の裏側』さんなのか『研磨くん』なのかすら分からない。どきどきしている理由も分からない。分からなさすぎて、本当にもう。この身体の熱だけで、本物の火星の裏側に触れられそう。

「あ、流れ星」

 こと座流星群だから、こと座の話をするよ。こと座のベガは織姫星。青い一等星。

 そんな話が始まって、その柔らかい声のトーンに意識が持っていかれるのを感じた。まどろみの中に引きずり込まれていく。

『きみの好きな星は何?』

 以前ならば、迷わずに地球と答えていた。宇宙で一番綺麗な星なのだから。けれども、今は即答することが出来ない。すっとまぶたを閉じても、浮かぶのは満天の星空。

 まぶたの裏に、真っ赤な星が浮かんだ。

火星の裏側で抱きしめて2

スターダストミッドナイトランⅡ

 星の数ほど人がいる中で、巡り会える確率はどのくらいなんだろう。何億分の一、いや、何十億分の一。きっと、それくらいの確率なんだと思う。その中で、チャンネル登録者数がそんなに多くはない『火星の裏側』さんを知り、校内で姿を見かけない有名人『コヅケン』さんと出会った。そして今、私は混乱している。コヅケンさんが火星の裏側さんで、火星の裏側さんがコヅケンさんだったのだから。

『それじゃ、今日からよろしく。青い星さん』

 あのあと交わした言葉はたったそれだけ。なぜ私が『青い星』だと分かったのか、どうしてコヅケンさんは『火星の裏側』として活動しているのか。聞きたいことは山ほどあったけれど言葉にならなかったし、向こうからもそれを話そうとはしなかった。

 思考というものは、時に人の行動を足止めしてしまう。電車を乗り換えて、また乗り換えをして、彼のうちの最寄駅に着くまでの間、私たちはずっと黙っていた。

「最寄駅着いた。こっから少し歩くから。俺は自転車あるけど」

「本……、ずっと持ってくれてありがとうございます」

「別に……、これくらいいいし。嘘。俺本当体力ないんだよね」

「持ちます!」

「いいよ。カゴに乗せる」

 自転車を押しながら歩くコヅケンさんの後ろについて、一本道を歩く。辺りを見渡すと山がそびえ、畑が広がっているのが目に入った。土の中から顔を覗かせている玉ねぎの列、収穫したばかりであろうそれを吊るしている民家。数週間前に見頃を終えた桜の木は、鮮やかな緑色の葉に包まれている。

 んんん? ここ、東京都だよね? なんていうか、有名配信者が住むのってもっと……。

「ヒルズとかに住んでると思った?」

「……う」

「よく言われるから」

 穏やかな田舎道に、新緑がよく映える。しばらく道なりに進んで脇道にそれたところに、その家はあった。立派な和風の一軒家だ。隣の家からは数メートル離れていて、ぽつんと一軒だけ存在している。築年数はそれなりに経っていそうだけれど、綺麗に手入れされているようだ。

「……ご実家ですか?」

「ひとり暮らしだけど? 実家は大学近いから、たまに泊まってる」

「ひとりで一軒家に?」

「それもよく言われる」

 コヅケンさんは小さく笑うと、玄関の鍵を回して扉を開いた。ふわり、となんだか懐かしい香りが漂ってくる。靴を脱いだコヅケンさんに「上がって」と促されて、私も靴を脱いだ。

「おじゃまします……」

「ねぇ」

「はい?」

「あんま男の部屋にホイホイ入んない方がいいよ」

「はぁ……?」

 入んない方がいいよ、って。そっちから連れてきたんだし、そっちから上がってって言ったのに。不思議に思ったのが伝わったのか、彼は私の顔を見るとまた小さく笑った。

「……きみって純粋だね。ま、その方が俺も安心だけど」

「?」

「たまにあるんだ。女の子の方から襲われそうになるの」

 そう言われて初めて、彼がどうして『ホイホイ入んない方がいいよ』と伝えたのかを理解した。自分が酷く幼く思えて、かあっと身体じゅうに熱がこもる。友人たちの赤裸々な話を聞かされているから、それなりの知識は持っているはずだった。まぁ、男性経験どころか誰かとお付き合いしたこともないのだけれど。

「じゃ、作業部屋行こっか」

「広いですよね。部屋いくつあるんですか?」

「居間とゲーム配信部屋と、作業部屋と寝室。四つかな」

「すご。うち四人家族だけど同じですよ」

「基本在宅だからさ。部屋分けてないと私生活とごちゃ混ぜになるから」

 私生活と仕事がごちゃ混ぜになったらいけないのだろうか。アルバイトすらしたことがない私には、その境界線のことが分からない。学生が本業の私は自室でだって勉強するし、学校にいても家族のメッセージのやり取りをすることはある。彼ほど有名になれば、本物の自分が分からなくなったりするのかもしれない。

 そんなことを考えながら、コヅケンさんのあとをついて作業部屋へと向かった。

 コヅケンさんの作業部屋は六畳ほどの和室で、長めのデスクにチェアが二脚置かれていた。ひとり暮らしなのになんで二脚あるんですか? と聞いたら、仕事相手と対面で打ち合わせする時なんかに便利だからだそうだ。結局そのほとんどがオンラインで行われているらしいけれど。

 大きな本棚にはあまり本が並べられていなくて、何かのゲームのフィギュアらしきものがぽつぽつと置かれている。ゲーム関係の本の他にも『セッターの極意』なんて本が混ざっていて、これもゲームに使うのかな? なんて思った。

「じゃ、まずアルバイトについて説明するけど」

「えっ、お手伝いってアルバイトなんですか?」

「無償じゃさせられないでしょ。これ契約書。読んでサインしてて」

「はぁ……」

 コヅケンさんはそう言うとどこかに消えて、数分後にふたり分のコーヒーを持って戻ってきた。星型の氷が、カランと音を立てる。ぐるぐると波紋を成すブラックコーヒーは、本で見た宇宙空間のようだ。

「ありがとうございます」

「ブラックでいい?」

「はい。氷……、可愛いですね。星が好きなんですか?」

「まあ、そんな感じ」

 『火星の裏側』さんのことをもっと聞きたかったけれど、コヅケンさんの態度がクールになったような気がしてやめておいた。もしかして、仕事スイッチ入ってる感じ? 『火星の裏側』さんのことを切り出した時とは、顔つきも雰囲気も随分と違ってみえる。

 ねぇ、どうしてあなたは『火星の裏側』の顔を持っているの? どうして私のことが『青い星』だって分かったの?

『火星の裏側』さんのことを聞き出したいけれど、とてもそんな雰囲気ではない。コヅケンさんはチェアに腰掛けると、コーヒーを一口飲んでから口を開いた。

「サイン、ありがと。今回さ、このゲームの考察動画の依頼が来て。そういう知識ないし断ってたんだけど突発企画ってことで了承した」

「スターダストミッドナイトラン?」

「知らない? 新作なんだけど」

「すみません。ゲームとか詳しくなくって」

「うん、とりあえず一回はプレイしてみてほしいかな。これがゲームの公式HP。日本神話とギリシャ神話を混ぜたような設定みたい」

 パソコンを操作するコヅケンさんの方に、自然と椅子を寄せる。HPの説明文を見ようと顔を近づけたら、彼のさらさらの髪がちくりと私の頬に触れた。ふわり、と石鹸のようないい匂いが鼻をくすぐる。

 ……近くで見ると本当にイケメンだな。みんなが騒ぐのもまぁ分かるかもしれない。瞳なんか、外国人みたいだし。

「……この辺とか、さっき俺が選んだ本に載ってると思うんだけど」

「あっ、ハイ! このふたりは夫婦の神様なんですけど、エピソードがあって……」

「そう、そういうの分かんないから。きみを選んでよかった」

 コヅケンさんがもう一度コーヒーをひと口啜って、にやりと笑う。ああ、この笑い方。何かを企んでいるような、全てを見透かされてるような、そんな瞳。この瞳をされると、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。

「えっと、ユーチューバーって依頼とか来るんですね! 好きなことしてるのかと思ってました」

「まあ基本好きなことしてるけどね。登録者増えたら事務所と契約する人もいるし、俺の場合は会社設立してる。名が売れるほど広告塔としてクライアントさんからこれ使ってほしいとか依頼が来るってわけ」

「へぇ……、大変なんですね」

「編集とかの作業もあるしね。俺も手回らない時外部に依頼するし」

 正直、こういう人たちは好きなことだけして運良く稼げてるだけで、大した苦労はしていないんだと思っていた。承認欲求の塊なんじゃないかとか、そういうふうに思ったこともある。けれども彼の話を聞いていると、一筋縄ではいかないようだ。

「楽に稼いでるとか思ってた?」

「……!」

「まあ、そういう偏見持つ人は多いよね。言われ慣れてるし。でも、きみみたいなのはきらいじゃないよ」

 目と目が合う。鋭い瞳に見つめられて、心の中を全て読まれているような気がした。心臓がばくばくと音を立てる。それは私が抱いていた偏見を見透かされていたことに対するものじゃない。それとは別の何かが、胸の奥にたしかに存在している。そんな気がした。

 コヅケンさんが、また口を開く。

「きみはどうして俺についてきたの?」

 きらきらと光る瞳は、夜空に輝く星みたいだ。黙っていると、目を奪われてしまう。その瞳にとらえられたら、逃れられない気がした。何からか分からないけれど。胸の音が、光のようなスピードで加速していくのが分かる。

「分からないけれど……、何だか胸の奥がそわそわしたので」

「いいね。そういうの、きらいじゃない。ひとつだけいい?」

「はい?」

「……敬語やめて」

 そう言ってコヅケンさんがまたにやりと笑った。ああ、まただ。今私の頭、宇宙空間の真ん中にいるみたいだ。

 どくり、どくりと脈が跳ねる。胸の奥はまたおかしな音を爆速で奏でていた。

 敬語をやめて、と言われて一時間。私はカタコトの言葉を使い、彼のことを『研磨くん』と呼ぶようになっていた。『研磨さん』と読んでみたら、そういうのやめて、って言われたからなんだけれど。

 あれから、ゲームの公式HPとプレイ画面を見ながら、登場人物と設定を把握する作業を進めていった。しかし今、私は作業部屋に置かれたソファの背もたれに体重を預けて、ぐったりしている。ゲーム画像の3Dに酔ってしまった私を見かねて、研磨くんが休憩を入れてくれたのだ。

「休憩はこまめに取った方が効率いいよ。俺はタイマー使ってる。はい、水」

「ありがとう……。画面に慣れてないから……」

「3D酔いする人って本当にいるんだね。俺も徹夜とかすると熱出るけど。大丈夫?」

「……もう大丈夫みたい」

 コップに注がれた水を一杯飲み干して、それをローテーブルの上に置く。冷たい水を飲んだおかげか、少しだけ気分がすっきりしていくのが分かった。

 研磨くんが、私の顔色をうかがうようにして口を開く。先程までのクールな態度とは少し違ってみえた。

「民俗学専攻ってことは、日本文化学科だよね?」

「そうだけど?」

「今日手に持ってた星座と神話の本、関係ないんじゃない?」

 そう言われて、どくん、とまた胸の奥が跳ねるのを感じた。今日星座と神話の本を手に取ったのは、ゆうべ聴いた配信のせいだ。

「……『火星の裏側』さんのせい」

「きみって、きっと『コヅケン』に興味ない方の人間だよね? 『火星の裏側』が俺でがっかりした?」

「! ……そんなこと!」

 そんなことない。そう言おうとしたけれど、続きを発する前にやめておいた。研磨くんが、何かを閃いたような顔をしたからだ。

「そうだ、22日の夜、暇?」

「……今のところ暇だけど」

「じゃ、うちに来て。いいもの見せてあげる。あー……、聴かせてあげるの方が正しいかも」

 研磨くんが、また何かを企んだような顔をする。身体の芯が熱い。研磨くんの瞳でじっと見つめられると、そこから目を離せなかった。まるで何かに、縛りつけられているみたいに。

「あったかい格好で来て。徹夜するし。この辺冷えるから」

「徹夜すると熱が出るんじゃないの?」

「うん、熱出るかもね」

 ぐるぐると思考が回る。一体この人は、何を考えているのだろう。分からないけれど、それを知りたい、もっと『孤爪研磨』という人を知りたいと思ってしまった。

 約束は数日後の夜、彼はその日に私に何かを見せたいという。どうしてだか、昼間聞かれたことを思い出す。

『きみの好きな星は何?』

 柔らかいトーンの声が、脳の奥で弾けた。

火星の裏側で抱きしめて1

 例え俺が隣の星にいても、必ず見つけ出すよ。だって俺たちもう、火星の裏側にだって飛べるから。きみは『俺』を見てくれた。だから俺も、『きみ』を見つけ出せる。俺たちは離れ離れにはならないよ、絶対。きみは宇宙で一番綺麗な星。

スターダストミッドナイトランⅠ

ーーこんばんは、『火星の裏側』へようこそ! リスナーのみんなありがとう! もうじきこと座流星群みたいなんだけど、みんなの住む街からは見えるのかな? 流れ星、見たことないんだよね。そんな俺だけど、今日は星座の話をするよ。きみの好きな星は何?

 音楽はあまり聞かない。お笑い番組も見ないし、みんなが見ている動画も見ない。ゲーム実況なんてもってのほか。おすすめ動画にすら出てこない。そんな私が唯一楽しみにしているのが、不定期で星の話なんかを配信している『火星の裏側』さんのチャンネルだ。動画配信なんだけれど、フリー素材らしき星空の画像がうつっているだけで、声だけで配信している。まるでラジオを聞いているような、やさしい声と雰囲気がお気に入りだ。そんな彼の声を聞きながら、私は今日も眠りにつこうとしている。水曜日は朝イチの講義が入っている。そのあとは暇だから、図書館でレポートの準備でもしよう。

ーー以上、『火星の裏側』でした! みんなありがとう! いい夢見てね。

 『青い星』という名のハンドルネームも、すっかり常連になってしまった。配信が閉じる間際、『ありがとうございました』とコメントを打ち込む。スマホを充電器に差し込んで、部屋の灯りを消した。

 その日、知るはずもない『彼』の夢を見た。

「コヅケンの配信見た?」

「見た見た〜! ゲーム分からんけどさ、イケメンだよね」

「あのゲーム弟がしてるんだけど、コヅケンしてるから私もしてみたんだ〜」

「コヅケンと言えば、水曜の仏語1にいるらしいよ」

「仏語1!? 四年なのに? あの人何学部なの!?」

「謎なんだよね〜! 水曜いるってことは、今日来てるってこと!?」

「マジ!? 探しに行かない!?」

 朝イチの講義が始まる前、友人たちが『コヅケン』とやらの話で盛り上がっていた。どうやら有名人らしく、この大学の四年生だという。何でも楽しめる大学生にとっては、恰好のネタになるわけだ。

「星羅はコヅケン興味ないの?」

「うーん、動画とか見ないし分かんない」

「星羅真面目だからな〜!」

 学生の本分は勉強だと思うのだけれど、真面目で何がいけないのだろう。周りの大学生たちの授業態度はひどいもので、勉強そっちのけで遊んでばかりいる。けれども大学で変わり者扱いされるのは、そちらでなく私のような人物らしい。

 大学内に有名人がいる。それがどうかした? 私には興味ない。みんなが言う『コヅケン』だって、きっとチャラチャラして遊んでばかりいる男なんだろう。必須科目である第二外国語を、四年生で履修しているような人なのだから。

「このあと講義入ってないからさ、コヅケン探しに行かない!?」

「行く行く〜!」

「星羅は?」

 そう問われて、「図書館行くから」ときっぱり断る。『図書館』というワードを聞いただけで、「星羅、本当に真面目〜!」と笑われるのだから意味が分からない。友人たちは講義中ずっとイヤホンをつけて、コヅケンの過去動画を見ているようだった。

 知らない有名ゲーム実況者より、『火星の裏側』さんの方がよっぽどいいや。そんなことを思いながら、朝イチの講義を終え、友人たちにバイバイする。

『こんばんは、火星の裏側です!』

 鼓膜にこびりついた優しい声のことを思いながら、図書館への道を急いだ。

 うちの大学の図書館は広い。マンモス大学だからあらゆる学部の資料が揃っているし、外部からの利用者もいるそうだ。けれども、学生たちが図書館を利用しているかと聞かれれば、答えはノーだと思う。広い図書館の三階の奥、昔の文字で書かれた専門書のエリアなんて訪れるのは、私くらいだろう。日本文化論のレポートで必要な、古事記や風土記なんかの文献。有名なそれらの本よりももっと専門的な、誰も見ないような本を検索して指定されたエリアへと向かう。三階からはしご階段を登った先にある、四階といっていいのか分からないその場所に辿り着くと、見知らぬ男子学生が立っていた。

 こんな場所、私以外に来る人いたんだ。そう思い、ついジロジロとその人を見てしまう。もちろん、無意識にだ。

「写真? 握手? どっちも断ってるから」

 いきなり届いた声に、びくりと身体が跳ねる。いま、この人私に話しかけたんだよね? 他に人、いないし。

「えっ? 握手……?」

「……もしかして、本当に調べ物で来たの?」

「えっと……、調べ物以外でこんなとこ来ませんよね?」

 そう返すと、彼は驚いた表情で私の全身を見つめているようだった。私が手元に抱えた一冊の本は、レポートには関係ない星座と神話のお話だ。

「じゃあ、ゲームしてる人? 神話系の資料なら俺が先に読みたいんだけど」

「あなたも民俗学専攻ですか?」

「経済学部だけど。俺のこと知らないの?」

「すみません。知りません」

「ふーん、きみって面白い」

 何が面白いんだろう。分からないけれど、いやな気分にはならなかった。真面目だとはよく言われるけれど、面白いなんて言われるのは初めてだ。

「ね、民俗学専攻ならさ、考察動画作るの手伝ってくんない?」

「動画……?」

「あ、他にバイトしてるの?」

「してないですけど……」

「じゃ、ちょうどいいじゃん。俺コミュ障だから。人探し苦手なんだよね。ていうか女の子苦手。でもきみなら任せられそう」

「ちょ、あなた誰なんですか? 話をする前にまずは名乗るものでしょう?」

 そう言うと、彼は少し申し訳なさそうな顔をして「ごめん」と謝った。その三文字がひどくやさしく聞こえて、『火星の裏側』さんのことを思い出す。もしかして、この人が……、なんて淡い期待を抱いた頃に、聞き覚えのある名前が鼓膜に届いた。

「孤爪研磨」

 こづめ……、けんま?

「コヅケンって言ったら分かる?」

「あーっ!」

 こづけん。コヅケン。KODZUKEN。まさかのまさか、大学一の有名人がこの人だというのだろうか。友人たちが探しに行ったその人物が、まさかのこんなところにいるだなんて。

「学校……、来てたんですね」

「第二外国語だけだけどね。履修するの忘れてて、絶対落とせないんだけど」

「それはコヅケンさんがいけませんね」

「わあ、正論言うね」

 それにしても……、この人考察動画とか作るんだ。好きなゲームでただ遊んで、それで稼いでるだけの軽い人だと思っていたのに。

「じゃ、校内目立つからさ、俺んち来て」

「えっ、ちょ!」

「本、先に読んでいいから」

 コヅケンさんに手を掴まれて、ぎゅっと手を握られる。一瞬何が起きたのか分からなかったけれど、握手を求められていたんだとその握り方で気がついた。このひと、私が思っていたようなチャラい男じゃないのかもしれない。

「きみのなまえも、聞いていい?」

「……青い星」

 私がそう答えると、コヅケンさんは一瞬動きをとめて、「それ本名じゃないでしょ」と笑った。

「……青井星羅と申します」

「あー、なるほど。いいね。可愛い名前」

 可愛い名前。うん、やはりこの人チャラいのかもしれない。コミュ障とか言ってるけど。本当にコミュ障ならば初対面でこんなに話さないし、そもそもゲーム実況なんて出来ないと思う。

「じゃ、その本借りたら行こっか」

「えっ、ちょっと、待って」

「あ、この後も講義?」

「……違いますけど」

「じゃ、いいね」

 そうして私とコヅケンさんの奇妙な日々が始まった。変装したコヅケンさんについてささっとキャンパスを離れ、微妙な距離を開けて駅へと向かう。トートバッグに入れた本は五冊、その重力に腕が痺れそうになる。空は快晴で、今夜は私の住む都会でも星が見えるかもしれないな、なんて思った。

 そんなことを考えていると、ふっと腕が軽くなるのを感じた。本五冊分の重力が、どこかに消えてしまったみたいだ。顔を上げればめがねをかけたコヅケンさんが、私のトートバッグを持ち上げている。

「体力ないけど、これくらい持つし」

「……ありがとうございます」

「ひとつ聞きたいんだけど」

「?」

「きみの好きな星は何?」

 その瞬間、周りの景色が鮮やかに染まって、頭の中に夜空が広がった。この声を、知っている。この優しい声を、私は繰り返し聞いたことがある。

ーーこんばんは、『火星の裏側』へようこそ! リスナーのみんなありがとう! もうじきこと座流星群みたいなんだけど、みんなの住む街からは見えるのかな? 流れ星、見たことないんだよね。そんな俺だけど、今日は星座の話をするよ。

ーーきみの好きな星は何?

「……火星の裏側さん?」

「わ、ビンゴだ! 青い星さん」

「え、コヅケンさんが……? 火星の裏側さん?」

「いつもありがとう。あっちのリスナーさんの名前は覚えてる。……それで、きみの好きな星は何?」

「……地球?」

「そうだと思った」

 恋のはじまりがどういうものかを、私は知らない。恋なんてしたこともないし、興味もなかったからだ。けれども。もし、恋の始まりが存在するのならば、きっと遠い宇宙で輝いている星たちみたいに、私をときめかせるものなんだと、そんなふうに思う。

 今この時が『それ』なのかは、今はまだ分からないけれど。宇宙で一番綺麗な青い星の中で、私たちは出逢った。

 星と星が引き寄せられるように、出逢ってしまったんだ。

黒尾さんにお持ち帰りされる

 入社式には満開だった桜は、バタバタと走り抜けている間に葉桜になってしまった。新生活に合わせて買ったスーツでは汗ばむほど暖かい日も増え、思考が季節に追いつかない。

 この春大学を卒業した私は、新入社員として忙しい日々を過ごしていた。長時間机に張りついての新入社員研修を終えたと思えば、オフィスと外回りを往復する日々が始まった。怖い先輩(もちろん女性)はいるし、礼儀に厳しいし、覚えることも多いし、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。唯一の救いは、一緒に営業回りをしている黒尾さんがイケメンだということ、ただそれだけだ。

 はぁ、学生に戻りたいなぁ。黒尾さんに声をかけられたのは、ふうっと大きなため息をついたその時だった。

「だいぶ疲れてるね〜! どう? 今夜辺り飲みに行きませんか?」

 イケメンに誘われたからといって、正直面倒くさい気持ちが大きい。相手が黒尾さんだとしてもだ。先週も歓迎会があったし、先輩と飲むなんて気をつかうだけで面倒でしかない。

「えっと……」

「俺が苗字サンとふたりで飲みたいんだけど?」

 見上げれば整った顔がそこにあって、「ハイ」ということしか出来なかった。うう。その顔ずるい。その言葉もずるい。どうやら今日はふたりきりだと知って、肩の力がするりと抜けていく。

 イケメンの持つ力は思っていたよりも大きく、その夜私はべろんべろんに酔っ払ってしまうこととなる。

「それで、△△さんがこんなこと言うんです〜!」

「うんうん、しんどいね」

「同期の子なんて顔が広いみたいで元々の知り合いがどんどんお客さんについて! ずるいんです〜!」

「あー、そういうのは最初だけだから」

「比較されてしんどいです〜」

「うんうん、分かるよ」

「うえぇぇん」

 先輩と飲むなんて気を遣うし面倒でしかない。そう思っていた私の心は、その夜にはコロッと変わっていた。この人は、相手の感情をコントロール出来てしまうのだろうか。そう疑ってしまうくらいに、黒尾さんには本音をぽろぽろ言えてしまう。喋り上手だなと思っていた彼は、どうやら聞き上手でもあるらしい。

 私はビールのジョッキを机に叩きつけながら、黒尾さんに愚痴をこぼした。どうやら余程ストレスが溜まっていたらしい。今手元にあるのは八杯目。回らない舌で愚痴をこぼしながら、子どものようにわんわんと泣いた。

「俺ね、苗字サンは優秀な新入社員だと思うわけよ」

「ありがとうございますぅ」

「でもね、ちょっと先輩からひとつだけ注意していい?」

「ひゃい! ごめんなさいぃ」

 完全に酔っ払ってしまったことを自覚しながら、背筋を伸ばしてみる。けれども上手く力が入らなくて、私の身体はカウンター席の隣にいる黒尾さんの肩にもたれかかるように傾いた。見上げれば、整った顔立ちの彼と目が合う。わ、本当にイケメン。ずるい、このひと。

「そーいうとこ! 無防備すぎだし可愛すぎるし、気をつけとかないと俺みたいなのに襲われちゃうわけよ? 分かる?」

「黒尾さんになら襲われてもいいです〜」

 なんて酔ってるせいでぽろりと零れた本音に、はっと思考がクリアになる。一瞬にして冷めた酔い。今の言葉は、紛れもなく私の中にあった本音だ。訂正しようと口を開こうとしたら、先に彼の声が降ってきた。その目はゆるく弧を描いている。何かを企んでいるかのように。

「じゃ、先輩が色々教えてあげましょーかね」

 そんなことを言われたら、断れるはずなんかない。酔いは冷めてしまったけれど、私の心は新しい恋に酔いしれているようだ。気がつけば一緒のタクシーの中にいて、彼のうちへと連れて行かれていた。今日は金曜日。明日は休みだ。もう、どうにでもなっちゃえばいい。

 窓の外に見える夜景をぼんやりと見つめながら、黒尾さんの肩に体重を預けた。

長編完走しました!

ブログの更新もサイトの更新も亀で本っ当にお待たせしました!影山長編完結させることが出来ました!ありがとうございます!

今年度はリアルで大きな仕事を任されており、バッタバタな新年度です。ようやく!ようやく!長編を完結させられました〜!

このお話は6月の新刊にする予定です!

ハイドリは進めています^^頑張ってリエーフと金田一と夜久さんゲットしました〜!

原稿終わったらまた新たな長編にトライしたいと思ってます!

あまくてにがくて青い24【完結】

 それからまた少し時が経った。影山くんの『ライバル』日向くんとの試合も観戦に行ったし、時々東京にも遊びに行った。彼が宮城に帰ってきた時は毎回会ったし、離れている間もメッセージや動画通話でやりとりをした。時代は進化したし、私たちの行動範囲も広がった。思っていたよりも、遠距離恋愛は楽しいものだったらしい。

 本当、不安だったんだよなぁ、あの頃は。

 錆びた赤色の自転車は、実家の隅に停められたままで、あの自転車置き場には卒業してから行っていない。それでも季節の匂いをまとった風が吹くたびに、きみと過ごしたあの日々を思い出す。そして、これから巡ってくる季節のことを考えると、嬉しくなるんだ。

 もう、思い出を作ることは怖いことじゃないから。

 空を見上げる。空気を吸い込んで、思い切り吐き出す。隣を向けば、愛しいきみが私の方を見て笑った。

 彼の左手には、きらりと光るシルバーのリングがひとつ。私の薬指にも、お揃いのそれが輝いている。

 私は来月、イタリアに旅立つ。愛を誓った薬指のリングは、私たちの未来を照らしている。

あまくてにがくて青い22

〜2017 autumn〜

 時間が経つのが、こんなに長く感じたのはいつぶりだろう。高校生の頃、合宿に行った彼が早く帰ってこないかと、そわそわしながら待っていた甘酸っぱい記憶が蘇る。

 腕時計の針が、八時ちょうどを指す。私は高鳴る胸を抑えながら、ホテルのロビーへと足を踏み入れた。県内ではわりと有名な、少し高級感のあるホテル。きょろきょろと周りを見ているとちょうどエレベーターから降りてきた影山くんと目が合った。

 あの頃よりも少し大人びて見えるけれど、やはり影山くんは影山くんだ。変わっていない。変わっていないんだ。

「本当に来た……」

 私を見て驚いた顔をした影山くんが、そう零す。『本当に来た』って、きみが誘ったくせに。

「……影山くんが、来てって言ったんでしょ?」

「……」

 数秒間の沈黙に、ふふっと笑いが込み上げる。口下手なところも、変わっていないんだなぁ。本当に。

「……ご飯でも、行きますか?」

「……俺の部屋、来い」

「えっ?」

「飯なら食った」

「私はまだだよ」

「俺は食った」

 数年ぶりに会った元恋人に『部屋に来い』なんて言われたら、冷静でいられるはずなんてない。バクバクしていた心臓の音はもっと速くなって、初めて彼と身体を重ねたあの夏を思い出した。ああ、私生きてるんだなぁ。こんなにも、心臓の音がうるさくてしょうがない。

 戸惑っているうちに、右腕をぐいっと掴まれる。腕を握られたまま、影山くんはエレベーターの方へと歩きはじめた。ぐんぐんと進むものだから、自然と私の足も前に出る。ぽちっと押された上昇ボタン。数秒ののち、エレベーターの扉がゆっくりと開く。けれども私には、全てが何倍もの速さに思えていた。

 影山くんの片手に握られたキーの番号は1407。エレベーターに引っ張り込まれ、彼は14階のボタンを押す。ぐんぐんと上昇していくエレベーターは、あっという間に14階へと到着した。

「ちょ、待って…っ…、影山くん……!」

「待たねぇ」

「だってこんなの……」

 私が望んでた通りすぎて、また怖くなっちゃうじゃない。

 続きの言葉を飲み込んで、彼のあとをついて廊下を進む。彼が1407の部屋にキーをかざすと、ドアのカギがガチャリと音を立てて開いた。

「名前……っ」

 その瞬間。

 途端に強く抱きしめられて、全身の力が抜けていった。ふっと顔を上げれば、唇に熱が降ってくる。あの頃と変わらない温もりと、ちょっと強引なキス。三十五度超えの熱を吸ったアスファルトから逃げるように、校舎の影で交わした初めてのキスを思い出す。

 錆びた自転車と夏の匂い、秋の匂い、冬の匂い。自転車置き場で待ち合わせたこと。焦って身体を重ねたあの日。冬が来なければいいのにと言った日。私を拐いたいと言ってくれたこと。泣きながら抱き合った影山くんの部屋。揺れるカーテン。ぴったりとくっついた時の温度。何もかもが、鮮やかに浮かび上がる。

 そして今、ここにあるのは思い出じゃない。現実だ。

「……ずっと後悔してた。遠距離恋愛くらい頑張れよって」

「……私もだよ」

「離れることが怖かった。会えなくなることが不安だった。俺には無理だって思ってた」

「影山くんがこんなに喋るの、不思議」

「一世一代の大告白してるからな」

「ノートに書いたアレより?」

「ああ」

「そっか……」

 ぎゅっと抱きしめられた温もりを受けとめて、私も影山くんの背中に手を回す。自転車でのふたり乗りを思い出す、大きな背中だ。変わっていない。ひとつも変わっていない。大好きな彼に今、抱きしめられている。

「俺、イタリアに渡ろうと思ってる」

「……え?」

「海外でプレーすることが夢だった」

「そう……、なんだ」

「名前について来てほしい」

「ひぇ!?」

 話の展開が早すぎてついていけない。まだキスの余韻が抜けないというのに、彼はもう次の話をしている。

 ふっ、と見上げたら、影山くんと目が合った。これまでにないくらい真剣な顔で、そう、例えるなら私を拐いたいと言ってくれた時みたいな真面目な顔をして、彼はこう言った。

「結婚して下さい」

 いきなり結婚だなんて、ぶっとんでるな、本当に。

 自然と涙が溢れる。影山くんには泣かされっぱなしだったけれど、今のは違う。だって、嬉しい方の涙だから。

「……はい」

 目の前の影山くんがガッツポーズをして、私を抱きかかえる。そのままシングルベッドに着地して、私たちはまたキスをした。

「名前のことが好きだ。今も、昔もずっと」

「……私も。ずっと好きだったよ」

 再び唇と唇が触れ合って、徐々にそれが深くなっていく。唇で啄むようなキスをして、それから舌を絡め合った。

 あの頃は大人のまねごとのようなキスを、何度も繰り返していたよね。でもね、もう私たちは子どもじゃない。大人になったんだ。