あまくてにがくて青い21

 今日何かが起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。ドキドキする胸を抑えながら、私はホテルの前に立っていた。

 7時55分。待ち合わせまでの五分間で、過去の記憶を呼び覚ます。最後に彼と会った日のことを。

〜2015 Spring〜

 最後の春高のあと、影山くんの部屋で抱き合ってから、私たちは会わなくなった。学校は自由登校期間に入り、彼は大学生やプロチームとの練習に混じったりトレーニングをしたりと忙しそうだった。

 元々少なかったメッセージのやりとりは、更に減っていった。いずれ離れると思うと連絡を増やすのが怖かったし、離れがたくなると思った。

 彼がどう思っていたのかは分からない。新しい日々への対応で、いっぱいいっぱいだったのかもしれない。私よりも少しだけ早く、影山くんは新しい生活をスタートしていたのだから。

 二月に入ると、私は別れを確信するようになっていた。連絡が少なくなったことと、会わなくなったことは、その確信をより強固なものにした。私は何かをごまかすように、アルバイトのシフトを増やして毎日忙しく過ごした。そうすれば、彼のことを考えていられないと思ったのだ。

 そうしてバタバタと過ごしているうちに、いつの間にか卒業式の日が訪れていた。

 卒業の日は旅立ちにふさわしい快晴で、空は春のそれに近づいていた。東北の三月はまだ寒い。東京はどうなんだろう、と彼が向かう街のことを思った。でもそんなことを考えていても仕方がないなと、頭の中の思考を押し込める。まだつぼみにもなっていない桜の枝を見て、恋を知る前の私に戻ろうと、そんな決意を胸に抱いた。つぼみにすらなる前の、彼を知らなかった頃の私。会わなくなればきっと、その頃に戻れるはずだから。

「ちょっと話、いいかな……?」

 それぞれ部活の追い出し会を済ませ、友達と写真を撮り合って、高校最後の時間をいっぱい笑って過ごした。全部を終わらせる決意を固めて、私は勇気を振り絞った。

 みんなが名残惜しみながらも散り散りになって、帰っていった頃。私はいつもの自転車置き場に影山くんを呼び出した。彼は「俺も話そうと思ってた」と言った。吹く風は冷たかったけれど、春の匂いがした。三年前、きみの存在を知った季節の匂いだ。

 最初に自転車置き場を訪れた時とは違って、手は繋がなかった。今日は自転車で来なかったから、錆びたママチャリもここにはない。数台の自転車がとまるこの場所で、影山くんは黙って私の顔を見つめていた。

 錆びた自転車は、いつも季節の匂いを連れてくる。けれどももう、二人乗りをすることもない。今日は自転車はないけれど季節の匂いがして、ああ、きみが新しい季節を連れてきてくれてたんだなと、働かない頭でそんなことを考えた。

 

 私の方から、口を開く。泣かないようにするので精一杯だった。声は震えていたと思う。増やさないようにつとめていた思い出たちが、頭の中をかけ巡っていった。

 きみと出逢った春、花火を見た夏、写真を撮った秋、それから『苗字さんのこと、拐いたい』と言ってくれた冬のこと。鮮やかに染まった季節たちが、今、完全に思い出になる。

「もう、お別れなのかな?」

 過去一番の大きな質問に、影山くんが答える。

「……そっすね」

「じゃ、ちゃんと別れよう?」

 最後に握手、ね?

 そう言って握ったきみの手は思ったよりも大きくて、冷たかった。影山くんの心があったかいことも、自分の気持ちに真っ直ぐなことも、私は知っている。こんなにも真っ直ぐなきみが、さよならを選ぶのなら……、そういうことだ。つまり、それが正解なんだろう。

「バイバイ」

 最後は精一杯笑って、さよならの言葉を告げた。彼に背を向けて、コンクリートの上を何歩か進んでから、空を見上げて思いきり泣いた。影山くんに届かないように。

 三月の晴れた空は、涙で滲んでよく見えなかった。