おにぎり屋の宮さん4

 稲荷崎駅前の温度計は、三十八度を表示していた。体温よりも高い真夏日の気温に眩暈がする。今日はいつもより念入りにメイクをしてきた。先ほど塗り直した口紅が、この気温で溶けて落ちてしまいそうだ。メイク、崩れないといいな。

 後輩ちゃんをつれて、『おにぎり宮』への道を歩く。彼女もどこかそわそわしていて、初めての対談に緊張しているんだな、と分かった。私は他の意味で緊張しているのだけれど。

 店の前に着くと、先日と同じ『準備中』の文字が目に入った。漂ってくるお米の炊ける匂いに、つい目元を緩ませてしまう。さあ、ここからは仕事モードだ。仕事モードになるのよ、私!

「おはようございます! お世話になります」

 扉を開けると、カウンター席に座った北さんと、その隣に立っている宮さんの姿が目に入った。はぁあ、イケメン。目が癒される。……じゃない、仕事モード! 仕事モード!

「宮さん、北さん、今日はよろしくお願いします」

 かしこまって挨拶をすると、後輩ちゃんが私に続けて挨拶をした。

「初めまして。北さんの担当をしてます苗字〇〇と申します。本日はよろしくお願いします」

 わぁ、後輩ちゃんと宮さんご対面かぁ。まぁ、仕事だししょうがないよね。

 ぼんやりとふたりを眺めていると、宮さんはとんでもない言葉を口にした。

「へぇ。苗字さん、かわええ人やなぁ。よろしくお願いします」

「ひぇ!? は、はぁ……」

 !?

 可愛い!? 可愛いって言ったよね、今。

 ほら。この前私にキレイだって言ったのだって、社交辞令なんじゃん。少しだけど期待なんかして、ばかだなぁ。私。仕事相手なんだから、そんな、期待しちゃいけないよね。そう。仕事相手。仕事相手なんだ。

 けれども、心にぽっかりと穴が空いたような気分になってしまったのは間違いなかった。どすん、と胸の底が重くなる。

 ……なんなんだろう、この感じ。やだなぁ。

 しかしその気持ちは、次の瞬間、北さんのひと言でぶっ飛んでしまうこととなる。

「治」

「なんですか?」

「〇〇ちゃんは俺のやから、手出すなや?」

 んんんんんんん!?

 隣を見ると、真っ赤になった後輩ちゃんがわなわなと身体を震わせている。

 ええ!? 北さんナイス!!!!

 っていうかこのふたり、もう秒読みじゃん。羨ましいなぁ。ていうか、宮さんもびっくりしているし。

 北さんの言葉に驚いてしまったけれど、彼の「ほな、始めましょか」のひと言でその場が仕事の雰囲気に切り替わる。後輩ちゃんは一瞬固まってしまっていたけれど、どうにか頭を仕事モードに切り替えられたようだった。

 そのあとは、予定通り対談を進めて、この日の大きな仕事は完了した。

「それでは、本日の取材は以上です。ありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました。ミョウジさん、これお土産です。お昼にでも食べて下さい」

 宮さんがお土産にとおにぎりを手渡してくれて、私はそれを受け取った。そういえば、ここのおにぎり食べるの初めてだな。

「ありがとうございます」

「あ、そうや。後輩さん」

 帰ろうとしたその時、宮さんが声をかけたのは私ではなく後輩ちゃんだった。小さな声で何やら話しているけれど、私にはその内容は聞こえない。

 なんだよぉ。宮さんも後輩ちゃんなんじゃん。

「ミョウジさん」

 なんだかふてくされたような気持ちでいると、宮さんは続けて私に声をかけてくれた。さっき渡された手さげ袋からは、おにぎりのいい匂いがする。後輩ちゃんは、なぜだか真っ赤になって走って店の外に出てしまった。ふたり、何を話してたんだろう。

「今、何話してたか気になりましたか?」

「えっ!? えっと、…っ…」

「北さんが後輩さんのこと本気やと思う、言うてただけですよ」

「はぁ……」

 それがどうしたの? なんで私にそんな話するの!?

「俺、可愛らしい感じの子よりも、ミョウジさんの方がタイプですから」

 ~!?

 なに、いまの!? いまの、なに!?

 なんて言われたの!?

「じゃ、次の取材よろしくお願いします」

「は、はぁ」

「ありがとうございました」

「アリガトウゴザイマシタ」

 私はお礼を言うと、急いで店の外に出た。後輩ちゃんは真っ赤になって固まっているし、私もたぶん同じ状況だし、わけが分からない。

 あれは、社交辞令なの!? 一体何なの!? なんで私にそんなこと言うの!?

 そのあと電車に乗っても身体は火照ったまんまで、私はそれを猛暑日のせいにした。会社に着いても、身体は熱いままだった。

おにぎり屋の宮さん3

 後輩ちゃんと北さんが、ふたりでご飯に行ったらしい。

 ……進展早くない!?

 私と宮さんが出会ったのと、後輩ちゃんと北さんが出会ったのは同じ時期だったはずだ。なのにこちらは何も無しで、後輩ちゃんはふたりでご飯。しかも家まで送ってもらったとか。それ以上は何もないとは言っていたけれど、それも怪しい。

 何、この差!?

 ていうか、私、宮さんのこと気にしてる!? ないない! 仕事相手だし! イケメンだからって、そんな狙ってないし!

 ……た、たぶん。

 熱くなった顔を手で仰ぎながら、〇〇ちゃんとの話に頭を切り替える。

 彼女に「次はいつ北さんに会うの?」と質問してみたら、まさかのまさか、墓穴を掘ってしまった。

「次は水曜に写真を撮りに行って簡単な取材をして、その次は◇◇先輩と一緒におにぎり宮さんでの対談ですね」

 おにぎり宮さん。

 宮さん。宮さん。

 わ、この可愛らしい後輩が、宮さんとご対面しちゃうの!?

「わ~、〇〇ちゃん宮さんに会っちゃうのか~!」

 気がついたら、そう叫んでいた。そう思ってしまったのだから仕方がない。だって、宮さんと後輩ちゃん、会わせたくないと思ってしまったんだもの。きっと宮さんも私みたいなパンツスーツ女より、後輩ちゃんみたいなゆるふわスカート女子の方が好きに決まっている。

「宮さんがどうかしたんですか?」

「……めっちゃイケメンなの」

 それだけ言うと、私は机に突っ伏せてしまった。数秒そうしたあと、デスク横の棚に並んだ地域情報誌のバックナンバーを取り出す。そして、『おにぎり宮』の掲載されたページをぱらりと捲った。

 後輩ちゃんが宮さんに惚れちゃうのを阻止せねばならない! なぜだかそう思っていた。

「ね、北さんとどっちがタイプ!?」

「た、確かに宮さんもイケメンですね」

「ね、ね、どっち!?」

「……どっちかと言うと北さんかなぁ」

「ほーら!そうなんじゃん!」

 北さんの方がタイプ、と聞いてホッとしてしまう自分がいる。あ~、もう。ほら、私、宮さんのこと気になってるんじゃん。ばかだなぁ。あんなイケメン、私のことなんか相手にしないに決まってるのに。

 はぁ、でも、宮さんのことはあまり気にしないようにしなきゃ。

 そう思いつつも毎日彼のことを考えて、そうしているうちに八月に入り、『おにぎり宮』での対談の日が訪れた。

おにぎり屋の宮さん2

 宮さんのおにぎり屋さんに出向く数日前、事件が起きた。

 先に北さんのところに後輩と一緒に挨拶に行ったのだけれど、なんと、後輩の〇〇ちゃんが北さんに気に入られてしまったのだ。先輩たちが何度誘っても1ミリも興味なさそうだった北さん。そんな彼が初めて出会った彼女をご飯に誘い、連絡先まで聞いてきたものだから、驚く他ない。

 凄いなぁ。後輩ちゃんっていくつだっけ? 24歳? 可愛らしい感じだし、男性にモテそうだもんな。

 私なんか今年で27になるのに、彼氏が出来る気配もない。前の彼氏と付き合ってたのっていつだっけ? と思い返してみると、四年は経っている事実に驚いてしまう。

 帰社して隣のデスクを見ると、ふわっとしたパフスリーブのトップスに、可愛らしいロングスカートを合わせている後輩ちゃんの姿が見えた。髪の毛を上でくるりとまとめ上げて、可愛い髪飾りでとめている。

 一方の私は、いつも似たようなパンツスーツだ。髪の毛なんて、無地のヘアゴムで一本結びだし。

 えーっと……、私って結構ヤバい!?

 ……なんて自覚はしていたものの、女子力を磨く時間なんてないくらい仕事が忙しくって。

 バタバタしている間に、宮さんのお店に行く日が訪れていた。

 稲荷崎方面へと向かう電車に揺られること二〇分。稲荷崎駅に私は降り立った。神戸からだと結構遠いんだよね。

 駅から歩いてすぐ、飲食店が並ぶ細い路地を三分ほど進んでいったところに、『おにぎり宮』はあった。看板の『準備中』の文字を確認して、まだ暖簾の上がっていないお店の扉を開く。扉を開いた瞬間漂ってきたお米の匂いに、つい涎が出そうになってしまった。

 あー、いい匂い。

 ……じゃなくって。挨拶! 挨拶しなきゃ!

 顔を上げたその瞬間、店主であろう男性の顔が目に飛び込んできた。その端正な顔立ちに、つい目を奪われてしまう。あれ、この人……、どこかで会ったことある?

「あ、ミョウジさんですか?」

「あっ、はい! 初めまして! 今度から宮さんの担当をさせていただきます、ミョウジ◇◇と申します。よろしくお願い致します」

「店主しとります、宮治です。よろしくお願いします」

 どうぞ座って下さい、と案内され、カウンター席に腰を下ろす。宮さんはお茶の入ったコップをひとつテーブルに置くと、隣に腰を下ろした。

「ありがとうございます」

「暑かったでしょう? どうぞ、冷えてますんで」

「じゃ、じゃあいただきます……」

 宮さんが出してくれたお茶をひと口啜ると、ほどよい苦味と冷たさが口内を刺激した。

……おいしい、このお茶。

「! おいしい!」

「でしょう? お茶にもこだわってますから」

 そう言って笑う宮さんの顔を間近で見て、つい胸がドキドキと高鳴ってしまう。こらこら、私。この前まで北さんイケメンとか言ってたじゃない。ミーハーは誰よ、まったく。仕事モード! 仕事モードに切り替えなきゃ!

「……えっと、それでは今後のスケジュールなどをお伝えしたいのですが」

「はい。お願いします」

「まず私が数回に分けてこちらに取材に伺います。一回の時間は三十分程度で済ませますので。途中で農家の北さんと、北さんの担当をしてる苗字とで対談が入ります」

 事務的な説明を淡々と進めて、頭を完全に仕事モードに切り替えた。よし、イケメン相手なんて慣れたものよ。

「ミョウジさんは、北さんの担当してはったんですよね?」

 ひと通り説明を終えると、宮さんから会話を投げかけられた。

 おっと、普通の会話。仕事モードが抜けそうになり、身体にぐっと力を入れる。やだ、この人、本当にイケメンだ。

「そうなんです。今回後輩の苗字が農村地区を担当することになって。担当替えですね」

「北さんは高校の先輩なんですよ」

「そうなんですか!? 今でもお付き合いがあるって素敵ですね」

「部活でだいぶ世話になりましたから」

「何部だったんですか?」

「バレーボールです。うちの兄弟、バレーボール選手なんですよ。ほら」

 宮さんはそう言うと、壁に飾られたサインを指した。ATSUMU MIYAと書かれたサインは、大事そうに上の方に飾られている。

 へぇ、すごい。兄弟さん、バレーボール選手なんだ。

「すごいですね! 試合見てみたいです」

「試合の日はここでテレビで応援しますんで、是非来て下さい」

「そうですね、是非」

 来て下さい、なんて言われると、誘われてるみたいでドキドキしてしまう自分がいる。社交辞令! ただの社交辞令だから!

「で、では次は7月△日の水曜日にこちらに伺います」

「はい、よろしくお願いします」

「こちらこそ、これからよろしくお願いします」

「……なぁ、ミョウジさん」

「はい?」

「ミョウジさんみたいなキレイな人が担当になってほんま嬉しいです」

「~!?」

「△日、待ってます」

「ひゃ、ひゃい……。よろしく、お願いします。で、では……、アリガトウゴザイマシタ……」

 キレイ!? キレイな人!?

 このパンツスーツ髪の毛一本結び独身女が!?

 も、もしかして宮さんってチャラいの!?

 私は速まる胸を抑えて、バタバタとお店を後にした。夏の空の下、駅まで数分の道のりを、パンプスを蹴りつけるようにして走り抜ける。ドキドキして、この場所にこれ以上いられないと思った。

 身体が燃えるように熱い。これはきっと、気温のせいだ。そう自分に言い聞かせて、神戸行きの列車に飛び乗った。

 電車の窓からは、一瞬だけ『おにぎり宮』の店舗が見えた。胸の高鳴りは一瞬だけではおさまらず、会社に着くまで続くのだった。

おにぎり屋の宮さん1

 次こそは。

 次こそは企画を通してみせる!

 そう意気込んで向かった先は、部長の席。企画書を手渡すと、部長はふむふむと頷きながら目を通しているようだった。残業して作ったこの企画書。書かれている『おにぎり×こだわり米』の文字に、つい顔がにやけてしまう。

 今回は自信があった。なんせ、イケメン店主さん×イケメン農家さんのコラボなんだから。

「うん。いい企画だと思うよ。じゃ、これで苗字ちゃんと一緒に進めてもらえるかな?」

「苗字とですか?」

「あの子新人だけど、もう入社して三ヶ月以上経つでしょ? そろそろ担当持たせてもいいと思うんだよね」

「はぁ……」

「ってことで、今度から苗字ちゃんが農村地区、きみが稲荷崎方面の担当ね」

「えっ!?」

「じゃ、よろしく~」

 農村地区は、これまで私が担当していた地域だ。っていうことは、つまり……。私、北さんの担当から外れるってこと!?

 ひそかにイケメンだと思ってたんだけどなぁ。ま、向こうにその気は1ミリもないんだけれど。

「〇〇ちゃん、ちょっといーい?」

 私はデスクに戻ると、四月に入社したばかりの後輩に声をかけた。この子、やる気あるしいい子なんだけど、ちょっと抜けてるとこあるんだよねぇ。真面目なタイプの北さんと上手くやれるかな? ちょっと心配だな。

「はぁい? どうかしましたか?」

「この企画、私と〇〇ちゃんのふたりでやるから。それで、〇〇ちゃん今度から農村地区担当ね。私が今担当してる地区」

「ひえぇ!? 私、担当持つんですか!?」

「うん! 頑張ってね!」

 そこまで話したところで、先輩の山田さんと佐藤さんが首を伸ばして話に入ってきた。

「なになにー? 今度は〇〇ちゃんが北さん担当!? いいなー!」

「えー、羨ましい~!」

 山田さんも佐藤さんも、かつて北さんにべた惚れだった過去がある。私が担当している北さんは、そのくらい爽やかイケメンなのだ。

 後輩ちゃんが、きょとんとした顔で「北さんって誰ですか?」と口にする。すると山田さんはご丁寧に一冊のフリーペーパーを持ち出して、それをぱらりと捲った。

「これこれ! この人! 若手農家さんなんだけど、めっちゃイケメンなの!」

「へぇ~、確かにイケメンですね」

「でしょでしょ!? 会った人みんな彼に惚れちゃうから~!」

 先輩たちは北さんの写真を見ると、きゃあきゃあとアイドルファンのように盛り上がりはじめた。ミーハーだなぁ、本当。私も北さんのことイケメンだと思っているし、人のこと言えないんだけれど。

「それで、ミョウジは宮さん担当するの?」

 北さんの話で盛り上がっていると、私が心から尊敬している村田先輩が声をかけてきた。今回の企画も、今おにぎり宮さんを担当している村田先輩が協力してくれて成り立っているようなものだ。

「はい。企画前の交渉、出向いて下さってありがとうございました。私はまだ宮さんには会ったことないんですけど」

「まだ会ったことなかったっけ? 宮さんもかなりのイケメンだよ!?」

「そうらしいですね。ちょっと楽しみです」

 そんな話をしていると、先輩方が今度は宮さんの話でキャアキャアと盛り上がりはじめた。

 宮さんかぁ。どんな人なんだろう。まあ、会ったところで地方誌のライターと仕事相手っていう関係なんだけれど。とりあえずは、会ってご挨拶をしなきゃ!

 私はその日のうちに宮さんに電話をかけて、挨拶と簡単な打ち合わせのアポを取った。電話口で聞いた声は、どこか懐かしくてあたたかい気がした。

ご挨拶

こんにちは!この度夢小説サイトを開設するに至りました。その昔古の夢小説サイトにお世話になっていたものの、すっかりご無沙汰になっていた夢小説の世界。見事に舞い戻り、こうして初めて自分のサイトを持つことになりました。仕事でサイト作成をしていたことがこんなところで役に立つとは……!無駄なものなんてないのだとつくづく思わされます。同人歴は8年目に入りましたが、夢書きとしてはまだまだヒヨッコです。夢をモリモリ詰め込んで創作していきたいなと思っています!拙作を楽しんでいただければ幸いです。

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あまくてにがくて青い19

 起きているときも、眠っているときも、どこにいたって彼女のことを思い出す。今にも雪が降りはじめそうな夜空、色を変えるイルミネーション、冷たい空気、冬のにおい。苗字さんのこと、拐いたい。そう言った日のこと。

 けれども現実は『思い出』よりも鮮明で強烈だ。空気感、匂い、彼女の涙ぐんだ声と変わらない顔。

 変わっていなかった。驚くほどに変わっていなかった。あの頃の俺は何を恐れていたんだと、過去の自分をぶん殴ってやりたいほどだ。変わることが怖かった。だからあの冬、拐ってしまいたいと思ったのに。

 きっと彼女は、新しい日々に飛び込んでいって、俺のことなんて忘れてしまうのだろう。そう思っていた。いや、思い込もうとしていた。

 けれども、現実はそうじゃない。記憶の中の彼女は泣いていて、今日見た彼女もまた泣いていた。三年ぶりに見た『彼女』は、どこまでも『彼女』だった。

「……かげやまくんが、かげやまくんだったから」

 そう言って涙をこぼす彼女は、どこまでも透明で綺麗で。このまま抱きつぶしてしまいたいとさえ思った。

 忘れられるはず、ねぇだろ。

「影山~、さっきの子本当にいとこなの? 全然似てなかったけど」

 ロッカールームで汗を拭いている時に話しかけてきたのは、いつもの同期だった。気さくでいい人だけれど、彼は少々人に踏み込みすぎるところがある。その質問に答えることをせず、黙って汗を拭く。

「……シャワー浴びてきます」

「元カノだ!」

 背を向けたあとにそう聞こえてきて、俺は無言でシャワー室へと向かった。無視かよ~、ガチ恋じゃん! と届く声を、閉まるドアが遮る。頭の中が、あの頃と今とでぐちゃぐちゃになっていた。

 最後に会ったのはいつだ? そうだ、卒業式だ。その前にふたりで会ったのはいつだ? ああ、あの日だ。

 春高で負けて帰ってきた翌日。冷たい空気が肺を満たした、あの冬の日。

 彼女はまた泣いた。俺はいつも、彼女を泣かせてしまう。

あまくてにがくて青い18

〜2017 Autumn〜

「ほら、ファンの子たちサイン貰いに行ってるよ!」

「いいって……! こんな顔じゃ会えないし」

「ガチ泣きするほど引きずってんでしょ? 今行かないでどーすんのよ!」

 サブホーム試合に勝利したアドラーズのメンバーたちが、観客席に近づきサインや握手などのファンサービスを行っている。もちろんその中には影山くんもいて、少年たちにサインを書いているところだった。

 キャーキャーと、ファンらしき若い女性たちが選手陣に詰め寄っている。星海選手がピースをすると、キャー! と歓声があがった。

 そんな中で私は、また隠れるようにしてその様子をうかがっている。すぐに帰ることが出来ないのは、さっき認めたばかりの恋心のせいだ。今さらどうこうなるなんて、あるはずがないのに。

「ほら、行こうよ〜!」

「無理! 無理すぎる!」

 友人に引っ張られ、一歩一歩選手陣の方に近づく。すぐそばに、影山くんがサインをしている姿が見えた。声をあげれば届きそうな距離に彼がいて、今すぐに逃げ出したくなってしまう。

 会えるはずがない。だって私たちは、もうサヨナラしたのだから。それなのに身体はそこから動けなくって、鼻の奥はまだつんとしている。また視界が歪んで、周りの景色がぼやけていくのが分かった。

 友人が私の腕を引っ張るその力が、ぐぐっと強くなる。

「ほら、そこにいるよ!」

「まじで無理だから……っ!」

「……あ、影山来た」

「え!?」

 顔を上げれば、体育館の照明が私の視界を遮った。あの夏の、強烈な光を思い出す。そう、あの頃、私は確かにきみと光の中にいた。

「おい」

 変わらない低い声が、鼓膜の奥にすっと届く。狂いそうなほどに愛おしかった、あの声。何度も私を呼んだ、あの声。……変わっていないんだ、ひとつも。

「何泣いてんだ」

「ひっ……」

 ぽたり、とまた涙が降ってくる。目の前をまっすぐ見れなくて、ぐるりと視線を動かした。みぎ、ひだり、それから正面。ようやく前を向くと、少し大人になった彼が私を見ていた。

「影山、知り合いなら入ってもらう?」

 関係者らしき人が、彼にそう声をかける。いいえ、いいです! と断ろうとした瞬間、「俺のいとこなんで、中連れて入っていいっすか?」と耳に届いた。嘘じゃん、そんなの。ファンの子に恨まれちゃうよ、私。

「よかったじゃん、また報告聞かせてね!」

「ちょ、待っ……!」

「行くぞ」

 影山くんに腕を引っ張られて、いつの間にかコートの中にいて。そのまま関係者入口の中へと連れて行かれて、観客たちの声が遠のいていった。

 待って。待って、待って。

 現実に身体も心も追いつかない。私の心は、あの頃に置き去りにされたままなのに。あの頃と現実がリンクする。今確かに、きみはここにいる。

 影山くんに引っ張られるがまま、中の関係者エリアの奥、人っけの少ない場所へとたどり着く。まだ真っ直ぐに彼の顔を見れない私の頬を、影山くんがむにゅっと掴んだ。

「どうしてここに?」

「……ひっく、えっ、ひっく……」

「なんでまた泣いてんだよ」

「……かつてのクラスメイトの勇姿を見に来ました」

「嘘だろ?」

「ひっ……、ひっく……」

「じゃーなんで泣くんだ」

「……かげやまくんが、かげやまくんだったから」

 蚊の鳴くような声でそうこぼすと、影山くんがぽんぽん、と私の頭を撫でた。丁寧に整えられた指先で、目尻をぐいっと拭ってくれる。

「俺も、お前がお前で安心してる」

「ひっく、うぇぇん……」

「俺、人の気持ちなんて分かる人間じゃないけど」

 『名前』の考えてることなら分かる。そう言われた。

 名前、と聞こえて、はっと顔を上げる。彼が私を下の名で呼んだのはあの頃、一度だけだった。驚いて顔を上げると影山くんは少し照れたような顔をして、片手に持っていたマジックペンで私の腕に何かを書いた。080から始まる11桁のそれは、電話番号だろうか。

「◇◇ホテル」

「へ?」

「今夜八時、◇◇ホテルのロビーまで来てほしい」

「えっと」

「書いたの、俺の番号」

 信じられない、と思った。こんなこと、あり得ないと思っていたのに。

 涙が一気に引いていって、身体が熱くなる。影山くんは、やっぱり影山くんのままだ。あの頃恋心に忠実だったのは、若さのせいだけじゃない。きっと彼は、そんな性格なんだろう。

「……分かった」

 それだけ答えると、影山くんは黙ったまま関係者出入口まで送ってくれた。私はまだ信じられなくて、ぼーっとした頭で帰路についた。

 あの大勢の中から、私を見つけてくれた。私のことなんて忘れてると思ってた。過去は過去だって、終わったことだってそう思ってた。なのに影山くんはちっとも変わっていなくって、影山くんが影山くんのままで。私も私のままだった。

 ねぇ、影山くん。わたし、諦めなくてもいいのかな?

 そのあと見た空は、来る前よりも澄みきってみえた。

あまくてにがくて青い16

〜2014 Winter〜

 はぁ、っと息を吐けば白い気体がもくもくと空へ向かって駆け上っていく。空はもう暗くなっていて、自転車置き場の電球の灯りだけが私を照らしていた。久々に影山くんと待ち合わせたこの日は、彼の誕生日だった。

 アルバイトを始めた私と、春高に向けて毎日練習に励む影山くん。会える時間は教室だけになり、ふたりきりで待ち合わせることも少なくなった。

「お待たせ」

「ううん。部活お疲れ」

「もう遅いけど、飯でも行くか?」

「うん。親には遅くなるって言ってるし」

 朝早くからの練習のため自転車で来た彼とは、今日はふたり乗りはしない。彼の黒色の自転車に並んで、私の錆びた赤色がのろりと走る。途中でバレー部の集団を追いこして、何やら冷やかされた。

 私たちが訪れたのは学校近くのファミレスだった。高校生が来られるところなんて、せいぜいこんな場所。私はハンバーグを頼んで、影山くんはポークカレーに温泉卵をトッピングしたものを頼んだ。誕生日にポークカレーって、って私はおかしくなって笑ったんだけど、彼の好きな食べ物も知らなかったんだなぁ。彼の好きな食べ物を知ったのは、ずいぶん経って雑誌のインタビューをたまたま見かけた時だった。

 私はきっと、深く彼を知りすぎてしまうことが怖かった。影山くんを知れば知るほど、離れがたくなるような気がした。春になれば、私たちは離ればなれになる。それが分かっているからこそ、近づきすぎてしまうのが怖かった。

 それでも身体は恋心と欲に忠実で、手を伸ばしてしまう。この日もそうだった。帰り道の公園でプレゼントを渡したあと、無意識に抱きついてしまったのだ。ぎゅっと触れ合うと、彼のマフラーが頬に当たってちくちくした。冬の冷たい温度が突き刺さったまんまの身体が、彼に触れたいと叫んでいた。

「苗字さん」

「あっ、ご、ごめんね! 私……、こんなところで抱きついて……」

「苗字さん、俺……」

「……?」

「苗字さんのこと、拐いたい」

 クリスマスのイルミネーションがちかちかと色を変えて、私たちの顔を照らす。影山くんの表情は真剣そうで、それでいて不安そうだった。緑、ピンク、青とイルミネーションが変わっていく。青い光を見て、花火大会で食べたかき氷と、私たちを照らした花火を思い出した。青春はあまくてにがくて青い、あの日分け合って食べたかき氷みたいだ。

 イルミネーションが点滅する。冬が来た。春がすぐそばまで来ている予感がした。年が明ければ春高本番が来て、私たちは自由登校になる。新しい季節が来るのが怖い、変わってしまうことが怖いと本気でそう思った。

『苗字さんのこと、拐いたい』

だから、その言葉は私たちの意思が通じ合ってる証みたいに感じて、本当に嬉しかったんだ。

 寒さで震えた声で、心の声を言葉にする。

「……私は、影山くんに拐ってほしい」

 思い出なんていうものがあるのならば、この一瞬は思い出になってほしくなかった。今が今であってほしかった。ふたりの自転車を公園の駐輪場に置いたまま、手を繋いで走った。みんなが未来へと進んでいく中で、私たちだけが逆行している気分だった。

 たどり着いたのは、さびれた繁華街の、古いホテルの一室。そこで私たちは、ほんの少しの逃避行を経験した。ほんの一瞬でいいから、現実から目を背けたかったんだ。彼も私も、きっとそうだだったんだと思う。