稲荷崎駅前の温度計は、三十八度を表示していた。体温よりも高い真夏日の気温に眩暈がする。今日はいつもより念入りにメイクをしてきた。先ほど塗り直した口紅が、この気温で溶けて落ちてしまいそうだ。メイク、崩れないといいな。
後輩ちゃんをつれて、『おにぎり宮』への道を歩く。彼女もどこかそわそわしていて、初めての対談に緊張しているんだな、と分かった。私は他の意味で緊張しているのだけれど。
店の前に着くと、先日と同じ『準備中』の文字が目に入った。漂ってくるお米の炊ける匂いに、つい目元を緩ませてしまう。さあ、ここからは仕事モードだ。仕事モードになるのよ、私!
「おはようございます! お世話になります」
扉を開けると、カウンター席に座った北さんと、その隣に立っている宮さんの姿が目に入った。はぁあ、イケメン。目が癒される。……じゃない、仕事モード! 仕事モード!
「宮さん、北さん、今日はよろしくお願いします」
かしこまって挨拶をすると、後輩ちゃんが私に続けて挨拶をした。
「初めまして。北さんの担当をしてます苗字〇〇と申します。本日はよろしくお願いします」
わぁ、後輩ちゃんと宮さんご対面かぁ。まぁ、仕事だししょうがないよね。
ぼんやりとふたりを眺めていると、宮さんはとんでもない言葉を口にした。
「へぇ。苗字さん、かわええ人やなぁ。よろしくお願いします」
「ひぇ!? は、はぁ……」
!?
可愛い!? 可愛いって言ったよね、今。
ほら。この前私にキレイだって言ったのだって、社交辞令なんじゃん。少しだけど期待なんかして、ばかだなぁ。私。仕事相手なんだから、そんな、期待しちゃいけないよね。そう。仕事相手。仕事相手なんだ。
けれども、心にぽっかりと穴が空いたような気分になってしまったのは間違いなかった。どすん、と胸の底が重くなる。
……なんなんだろう、この感じ。やだなぁ。
しかしその気持ちは、次の瞬間、北さんのひと言でぶっ飛んでしまうこととなる。
「治」
「なんですか?」
「〇〇ちゃんは俺のやから、手出すなや?」
んんんんんんん!?
隣を見ると、真っ赤になった後輩ちゃんがわなわなと身体を震わせている。
ええ!? 北さんナイス!!!!
っていうかこのふたり、もう秒読みじゃん。羨ましいなぁ。ていうか、宮さんもびっくりしているし。
北さんの言葉に驚いてしまったけれど、彼の「ほな、始めましょか」のひと言でその場が仕事の雰囲気に切り替わる。後輩ちゃんは一瞬固まってしまっていたけれど、どうにか頭を仕事モードに切り替えられたようだった。
そのあとは、予定通り対談を進めて、この日の大きな仕事は完了した。
「それでは、本日の取材は以上です。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。ミョウジさん、これお土産です。お昼にでも食べて下さい」
宮さんがお土産にとおにぎりを手渡してくれて、私はそれを受け取った。そういえば、ここのおにぎり食べるの初めてだな。
「ありがとうございます」
「あ、そうや。後輩さん」
帰ろうとしたその時、宮さんが声をかけたのは私ではなく後輩ちゃんだった。小さな声で何やら話しているけれど、私にはその内容は聞こえない。
なんだよぉ。宮さんも後輩ちゃんなんじゃん。
「ミョウジさん」
なんだかふてくされたような気持ちでいると、宮さんは続けて私に声をかけてくれた。さっき渡された手さげ袋からは、おにぎりのいい匂いがする。後輩ちゃんは、なぜだか真っ赤になって走って店の外に出てしまった。ふたり、何を話してたんだろう。
「今、何話してたか気になりましたか?」
「えっ!? えっと、…っ…」
「北さんが後輩さんのこと本気やと思う、言うてただけですよ」
「はぁ……」
それがどうしたの? なんで私にそんな話するの!?
「俺、可愛らしい感じの子よりも、ミョウジさんの方がタイプですから」
~!?
なに、いまの!? いまの、なに!?
なんて言われたの!?
「じゃ、次の取材よろしくお願いします」
「は、はぁ」
「ありがとうございました」
「アリガトウゴザイマシタ」
私はお礼を言うと、急いで店の外に出た。後輩ちゃんは真っ赤になって固まっているし、私もたぶん同じ状況だし、わけが分からない。
あれは、社交辞令なの!? 一体何なの!? なんで私にそんなこと言うの!?
そのあと電車に乗っても身体は火照ったまんまで、私はそれを猛暑日のせいにした。会社に着いても、身体は熱いままだった。