農家の北さん4

「〇〇ちゃん、歩けるか?」

「もう飲めましぇん~、せんぱいぃ」

「俺は先輩やあらへんで」

「お酒弱いのにいっぱい飲んでごめんなさいぃ」

「せやな、じゃあ、お詫びに次はデートしよか」

「分かりましたぁ~」

 ふわふわと身体が宙に浮いているみたいで、私の気分は高揚していた。いつの間にかタクシーに乗っていて、いつの間にか私の住むアパートの前にいて。いつの間にか水を飲まされていて。

 あれ、なんで北さんが隣にいるんだろう。そう思った瞬間に、手をぎゅっと握られて、私は現実世界に舞い戻ってきた。目の前には、私が住むアパートの壁が見える。

 ん? なんでうちの前にいるの? あ、そっか。北さんと飲んでて……。

 え!? 手、握られてる!?

「〇〇ちゃん、そんなんやと取って食われるで」

「ひゃあ!? 北さん……! すみません私、記憶飛んでて!」

「せやけど今日はとりあえず、何もせんでおくわ。大事な仕事相手やもんな」

 取って食われる。今日は何もしない。……。

 ひえぇ!? どういうことですか、それ!?

 北さんはそう言うと、そっと私の顔にその端正な顔を近づけた。あまりに近すぎる距離に、眩暈を起こしてしまいそうになる。

 わ、なに……!?

 北さんの唇が耳元に近づいて、そっと囁かれる。

「ほな、またな」

 北さんはそれだけ言うと、大きく手を振って帰っていった。

 ひぇ。ひええええぇ。……キス、されるかと思った! 本当に! 何なのぉ!?

 そのあと、いつ連絡先を教えたのか、私用のスマホに北さんからメッセージが届いた。そこに書かれていたのは記憶にない『デート』の約束で。

『次のデートは海にしよか』

 絵文字なしでシンプルにそう綴られていた。次、仕事でどんな顔して会えばいいんだろう。

 胸の音は爆速で変なリズムを刻んでいた。きっと、これはアルコールのせいだと、そう思うことにしておいた。

「で!? どうだった!?」

 月曜日、出勤した私を待ち受けていたのは、先輩たちからの質問攻めだった。内容はもちろん、先輩たちが太鼓判を押している北さんとの食事についてだ。

「私、酔っ払ってあまり覚えてないんです……」

「〇〇ちゃんお酒弱いもんね~? で、何か進展あった!?」

「何もないですよ~! あ、うちまで送ってくれましたけど」

「えっちした!?」

「エッ……!? してないっ! してませんって!」

 いきなり生々しい質問が飛んできて、つい焦ったような回答をしてしまう。先輩たちは「怪しい~!」と言いながらニヤニヤしてこちらを見ていた。

 本当に、何もしてないんだけどな。……意味深なことは言われたけれど。

「次はいつ北さんに会うの?」

「次は水曜に写真を撮りに行って簡単な取材をして、その次は◇◇先輩と一緒におにぎり宮さんでの対談ですね」

 そう答えると◇◇先輩は動きを一瞬とめて、顔を真っ赤にしてこう言った。

「わ~、〇〇ちゃん宮さんに会っちゃうのか~!」

「宮さんがどうかしたんですか?」

「……めっちゃイケメンなの」

 頬に手を当ててぼけーっとする◇◇先輩。どうやら先輩は、今は宮さんに夢中のようだ。他の先輩たちも「宮さんはガチイケメン!」と騒いでいる。◇◇先輩はうちの地域情報誌のバックナンバーを取り出すと、『おにぎり宮』の掲載されたページをぱらりと捲った。

「ね、北さんとどっちがタイプ!?」

「た、確かに宮さんもイケメンですね」

「ね、ね、どっち!?」

「……どっちかと言うと北さんかなぁ」

「ほーら! そうなんじゃん!」

 キャー! と先輩たちが高い声をあげて、私をからかう。どっちかと言うとって言っただけなんだけど。好きになったとか、そんなんじゃないし。

 それより、また仕事で北さんに会うのかぁ。会いづらいなぁ。『デート』についてはあれから連絡ないけれど。なんて、ついつい北さんのことを考えてしまう。

 けれども仕事はひっきりなしに降ってくるもので、バタバタしている間に、取材の水曜日が訪れていた。

農家の北さん3

 週末は一瞬のうちに訪れた。わざわざ神戸まで来てくれるなんて、きっと彼は優しい人なんだろう。

 居酒屋が並ぶ駅前エリアで待ち合わせをしていた私は、約束の五分前にその場所に着いた。たぶん先に着いちゃったかな。そう思って周りを見渡すと、駅前のモニュメントの前に立っている北さんを見つけた。

 わお、五分前行動。先輩たちが言っていた『きっちりした人』って、本当なのかもしれない。この前会った時は作業着だったけれど、今日はシンプルな服装をきっちりと着こなしている。確かに、イケメンなんだよなぁ。

「あのぉ、こんばんは……」

 恐る恐る声をかけてみる。すると北さんは顔を上げて、目を細めて爽やかに笑った。

「〇〇ちゃん。こんばんは! 今日はありがとう」

「いえっ。こちらこそ、遠いところありがとうございます」

「ほな、店行こか」

「はい」

 北さんについて、繁華街をてくてくと歩く。道路側を歩いてくれる辺り、出来る男ではありそうだ。駅から歩いて二~三分のところにある店に入ると、北さんは「予約していた北です」と店員さんに伝えていた。

 北さん、わざわざお店予約してくれてたんだ。行き当たりばったりじゃない辺り、やはり真面目な人なのだろう。

 店員さんに通されたのは小さな個室で、照明は薄暗くいい感じの雰囲気の空間だった。

 ……えっと、こういう時って私が手前に座るんだよね。

 私がきょろきょろして座れずにいると、北さんが「奥行きぃ」と言ってくれたので、雰囲気に流されてそのまま奥の席に腰をおろした。

 北さん、気が利く人だな。そう思ってぼんやりしていた次の瞬間、私は一気に目が覚めることとなる。

 まさかの、北さんは向かいの席でなく私の隣に座ってきたのだ。肩と肩が触れそうな位置にある。まだお酒も飲んでいないのに、身体が急激に熱を帯びていくのが分かった。

 えっ!? 近い! 近い! なんで隣!?

「今日な、ほんまは知り合いの店に行こうかて思うてんけど」

「はっ、はぁ……」

「〇〇ちゃんみたいな可愛え子、他の男に見せたくない思うてやめたわ」

「ひぇ!?」

「仕事やない時は、〇〇ちゃんて呼んでもええ?」

 もう呼んでるのでは!? そう思ったけれど、声が声にならない。ドッドッと心臓が音を立てているのが分かる。

「えっ、えっと……、これは仕事のお付き合いなのでは……」

「俺が他ん人の誘い乗らんの、知っとるやろ?」

 ひえええぇ!?

 一体、なにが起きているの!? この人真面目でお堅い人なんじゃないの!?

 私はわけが分からなくなって、とりあえずアハハと笑ってごまかした。ええい、ここは酔っぱらってしまえ! 女の子らしい可愛いドリンクなんて頼まずに、生ビールを注文する。どくどくと速まる胸の音をごまかすかのように、私はビールをごくりと飲み干した。頭がふわふわして、緊張が解けていくのが分かる。

 それからのことはあまり覚えてない。途中まではこれまでの経歴だとか、家族のことだとか、色々話をしたのを覚えているんだけれど。後半の私の記憶はぷつりと途切れていた。

農家の北さん2

「どうなってんの!? 一体」

 帰りの車内では、想像通り先輩からの質問攻めトークが炸裂していた。青々とした田んぼに囲まれた道を、軽自動車はのろのろと走っていく。

「し、知りませんよぉ。ご飯に誘われただけです~」

「だから、それが凄いのよ! あの北さんだよ!? 山田さんとか佐藤さんとか、何回もこっちから誘ってるけどかわされてたんだからね!?」

「はぁ……」

「は~、北さん、〇〇ちゃんみたいな子がタイプなのか~」

「そんなんじゃないですって」

 そんなんじゃない、たぶん。気に入った発言だって、仕事相手としてって意味なんだと思う。ご飯もコミュニケーションのためだと考えれば、不思議ではない。

「ご飯、絶対行くんだよ!?」

「はぁ……」

「どうなったか教えてね!」

 結局その日は帰ってから写真をまとめたり、企画を詰めていったりとバタバタしていて、ご飯の約束のことはすっかり頭から抜けていた。新人だもの。浮わついた気分でいる暇なんて、私にはない。

 そうこうしているうちに夜になり、フラフラになって帰宅しベッドに着地した頃、ようやく社用スマホの通知が光っていることに気がついた。相手の名前を見た瞬間、変な緊張感が身体を駆け巡る。

「きっ、北さんからだ!」

 どっどっと胸の奥が音を立てるのが分かる。北さん、何の用事だろう。今日のお礼かな?

 そんなことを考えながら、スマホをタップする。表示されたメッセージは、私が想像していた文章にプラスアルファが乗せられたものだった。

『今日はお疲れ様です。ありがとう。これからよろしくお願いします。ほんで、〇〇ちゃん。今週末ご飯行かへん?』

 来た、ご飯の誘い。会社に帰ってから山田先輩と佐藤先輩も加わって、絶対断るなと念押しされたことを思い出す。

『北さん、こんばんは。お疲れ様です。本日はありがとうございました。ご飯、是非ご一緒しましょう』

 少し硬めの文章で返事を打ち、メッセージを送信する。きっと、深い意味はない。これから大きな企画を担当するんだもの。親睦を深めましょうって、きっとそういう意味だと思う。すっかりちゃん付けで呼ばれているけれど。

 この時私は知らなかった。『真面目でお堅い』北さんからの猛アタックは、予想以上のものになることを。

農家の北さん1

 先輩が運転する軽自動車の助手席で、私はフリーペーパーを捲っていた。県内で『ちゃんと』というお米を作っている若手農家さんが特集されていて、そのお顔は随分と端正だ。

「その北さんって人、めっちゃいい人だよ。かなり真面目そうな感じだけど」

「この爽やかな笑顔の人が真面目なんですか?」

「真面目っていうか、お堅い?」

 美人な上に敏腕ライターである先輩は、そう言うとハンドルを右に切った。たちまち広がる田園風景に、思わずわぁ、と叫びそうになる。

 高校入学と同時に、親の都合で東京から兵庫に移り早や九年。大学を卒業したあと社畜になっていた私は、今年の三月にその会社を辞めた。今は再就職して、兵庫の地方誌やフリーペーパーを発行している小さな出版社で働いている。これでも一応ライター職だけれど、まだまだ新米。今日はこれから私が担当する地域に、先輩がついて回ってくれることになっている。

「でも本当、イケメンですね。この人」

「でしょ!? 私も何回惚れかけたことか! この人に会ったらみんな、好きになっちゃうんだよね! うちの会社でも山田さんとか、佐藤さんとかもね、」

「それで、誰かと付き合ったんですか?」

「いや、それがね。あまり女の人に興味なさそうっていうか……。こっちから気のあるそぶり見せても、さらっとかわされるっていうか……」

「なるほど……」

 そこまで話したところで、車は和風の一軒家に到着した。表札には『北』と書いてある。どうやら今日の目的地に着いたらしい。家の目の前には青々とした田んぼが広がっていて、夏だというのに心地いい風が通り抜けていった。神戸とは随分気温が違うようだ。

「こんにちはー! △△出版のミョウジです!」

 先輩が呼び鈴を鳴らしながらそう叫ぶと、少し経ってひとりの男性が出てきた。あ、この人、さっきフリーペーパーの写真で見た人だ。まあ、この人に会いに来たんだから当たり前なんだけど。

「あぁ、ミョウジさん。遠いとこありがとうございます」

 そう言うと彼――、北さんはちらりと私の方を見た。数秒目が合って、その瞳に吸い込まれそうになってしまう。どくり、と胸の奥がおかしな音を立てて、ばくばくと胸の鼓動が速くなった。緊張しているせいだ、たぶん。

「あ、こっちは新人の苗字です。今度からこの辺の地域を担当することになるので、北さんともよく会うことになるかと思います」

「そか。よろしゅうな、苗字さん」

「苗字〇〇ともうします! よっ、よろしくお願いします!」

「〇〇ちゃんって、かわええ名前やな」

「……!?」

「ま、上がって下さい」

 可愛い。……可愛い。

 いや、今褒められたのは名前だから! ちゃん付けされたのは気にしないことにしよう。そうしよう。それにしても、この人が本当に『真面目でお堅い北さん』なんだろうか。

 先輩が「失礼します」と靴を脱いで上がったので、私も「失礼します」と靴を脱ぐ。足先が廊下に触れると、火照っていた身体もすっと冷めていった。

 それから先輩とふたり客間に通されて、今度の地方誌で特集する『おにぎり×こだわり米』のコンセプトなんかを説明した。こうして話していると、北さんは確かにいい人だけれど、噂通り真面目でお堅そうな雰囲気の人のようだ。その分仕事も進めやすく、私にとっては初めての大きな企画なのに緊張感が解けていくのが分かる。私は『おにぎり×こだわり米』の企画が上手くいくような予感を抱いた。

 続けて、今後の大まかなスケジュールについて北さんに伝える。細かい取材はこれから数回に分けて、私が行っていくことになる。◇◇先輩はおにぎり屋さんの方に取材に行くらしい。今日は簡単な打ち合わせをして、最後にこの時期の田んぼの写真の撮影を終えて、私たちは帰路につくことになった。

「それじゃあ、今度からは苗字が来ますので、よろしくお願いします」

 先輩がそう言うと、北さんは私の方をじっと見つめて爽やかに笑った。

 わ、あのフリーペーパーの、爽やかな笑顔だ。

「なぁ、苗字さん」

「はい?」

「今度、飯でもどうですか?」

「へ……? えっと、打ち合わせですか?」

「まあ、そういうことにしといてもええですよ」

「はぁ……」

「仕事用のでかまわへんから、連絡先交換しときましょ」

 美人かつ敏腕ライターである◇◇先輩が、隣で目を丸くしている。お堅い。女性に興味なさそう。気のあるそぶりを見せてもかわされる。

 この人が? 本当に?

 連絡先なら先ほど名刺を渡したんだけどなぁ。

 そう思ったけれど、仕事の付き合いもあるので、とりあえずスマホを差し出し連絡先を交換する。先輩が「じゃ、車エンジンかけてくるね。北さん、ありがとうございました」とお辞儀をして、先に車の方へと駆けていった。

 北さんとバチッと目が合う。にこりと微笑まれて、私の身体は急激に熱くなってしまった。

「〇〇ちゃん」

「はいっ!?」

「俺、〇〇ちゃんのこと気に入ってもうたみたいやわ」

――☆□△~!?

 これから北さんからの猛アタックが始まるとは知らずに、私は急いでお礼を言うと走って車へと駆けた。

これが、私と北さんの出会いだった。

北さんと深まる秋

「急に寒くなったね」

 いつもと同じ朝、隣に並んで歩く信介くんにそう言うと、彼は「おん」とだけ言って前を向いた。数日前まで夏の暑さが残っているようだったのに、今日から急に季節が変わってしまったようだ。バス停に着くと、待ち時間に吹きつける冷たい風が身体を冷やしていく。タイツも履いてくれば良かったかな。

「名前。それ、似合うとるで」

「え?」

「カーディガン。かわええ」

 寒くなったからと急いでひっぱり出したカーディガンを、着てきたのは正解だった。普段あまりそういうことを言ってくれない信介くんだけど、たまにこういう言葉をくれることがある。彼も私と同じように、秋の訪れに浮き足立ったのだろうか。

「信介くんは、冬用ジャージ羽織ってきたんだね」

「寒かったからな。引っ張り出してきたわ」

「……それ、一回着てみたいな」

「? こんなもんをか?」

「彼ジャーっていうんだって。彼氏のジャージ着るの」

「……」

「……ごめん、忘れて」

 ちょっと調子に乗りすぎたかな。反省して下を向いた瞬間、後ろからがばりと抱きしめられて、驚いて顔を上げた。あったかい感触が身体を包んでいく。秋の匂いに混じって、信介くんの匂いがした。

「こうすれば、羽織っとるのと同じやん」

「ひえぇ!?」

「カーディガンの方がかわええけど、これもええな」

 顔を斜めに上げると、信介くんの下がる目尻がみえた。やさしく微笑まれてしまえば、もう動くことさえできない。このひと、こうして私の欲しいものをくれるんだよね。ずるいなぁ。

「信介くん、ずるいよ」

「ずるいのは名前やん。可愛すぎやて」

「~っ! どうしたの、今日?」

「ん~。名前がかわええから」

 ブロロロロ、とバスのエンジン音がきこえて、ひっつけるのも一旦お預けだなと思った。バスが停まって、プシューとドアが開く。その瞬間に握られた手は、冷たくてあたたかい。

 手を繋いだまま乗ったバスは、私たちふたりの時間をもう少しだけ繋いでくれた。

※ワーパレお借りしました『カーディガン/下がる目尻/欲しいもの』

※タグ企画で書かせていただいたものです

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大地さんと文化祭の話

 秋の涼しい風が教室の窓から入ってきて、火照った頬を拭う。伝えられないこの恋心も一緒に、風に吹かれて飛んでいってしまえばいいのにな、と思った。


 文化祭の実行委員で澤村くんと一緒になった。彼のことが好きだと自覚したのは、委員になって最初の頃。たぶん、気さくに声をかけてくれたからっていう単純な理由からだった。


 会うたび好きになっていったけれど、どうしても好きだと伝えられないまま時間だけが過ぎていった。そして今日、文化祭本番の日を迎えた。そう、今日で澤村くんとの時間は終わる。クラスも違うし、会うこともなくなるだろう。私の恋は終わりを告げるのだ。


「澤村に告白しなくていいの?」


 親友がそう聞いてきたけれど、私は首を横に振った。だって完全に私の片想いだし、玉砕覚悟で告白する勇気もない。文化祭の熱に浮かれてオッケーしちゃうような性格じゃないし、彼は。


「このままでいいんだ」
「え~? 伝えないの、勿体ないよ?」


 親友はそう言うと、そばにあった油性マジックを手に取って私の手のひらに何かを書き始めた。キュッ、キュッ、とインクの滑る音がする。目を見開いて、私は驚いた。そこには油性マジックでしっかりと『大地♡』と書かれていたのだから。


「ちょ、何書いてんの!?」
「言葉で伝えられないなら、これ見せちゃいなよ~!」
「無理! 無理だからっ!」


 急いで手を洗いに行こうと思ったその時だった。
「苗字、いるか?」
 嘘。まさかのご本人登場に、私は驚いて咄嗟に手を握りしめた。この手のひらだけは、見られるわけにはいかない。逃げたい。逃げなきゃ。そう思ったけれど、時計は私と澤村くんの担当しているフォークダンスの時間に近づいていた。


「そろそろフォークダンスの時間だぞ? 俺ら、当番」
「えっと、うぅ、はい……」


 親友に「頑張れ~!」と意味深なエールを送られ、澤村くんと一緒に、文化祭のフィナーレを飾るフォークダンスの会場へと向かった。

 流行りのラブソングが響いて、鼓膜に届く。好きだとか愛してるだとかいうありきたりな歌詞は、恋をしている私の胸に届くには簡単すぎた。告白ソングだろうということは、聴いていれば分かる。伝えられない分、この曲をふたりで聴けている事実だけが救いだった。

「俺ら、当番なんて損だな。踊れないだろ?」

 澤村くんの低い声が、私の隣からきこえる。そう、私たちはこの曲たちを流す係だから、肝心のフォークダンスは踊ることができないのだ。


「さっ、澤村くんは……、一緒に踊りたい人いるの?」

 そんな質問くらいしてもいいだろう。それくらいは許してほしい。私の儚い恋心の隅にある、ちっちゃな疑問。勇気を出してそれを言葉にしたら、澤村くんははっきりした口調で「ああ」と答え


 そっかぁ。踊りたい人、いるんだなぁ。


「苗字は?」
「え!?」
「いるのか? 踊りたい人」
「……、いるよ」


 そう答えるだけで、口から心臓が飛び出るかと思った。ドキドキしてばくばくして、どうしようもないくらい澤村くんのことが好きだと実感する。叶わないのに、ばかだなぁ。


「じゃ、踊るか。俺たちも」
「え!?」
「次の曲流すまでの間くらい、いいだろ?」


 澤村くんに促されるがまま、手と手を合わせる。流れているラブソングは、最高潮の盛り上がりを迎えるサビの部分だ。好きだ、愛してるの歌詞と共に、私たちは踊った。秋の涼しい風が、火照った頬を撫でる。それでも熱は冷めないままで、身体がどうにかなってしまいそうだと思った。


「? あれ? 苗字、その手……」
「え? ……あ!」
「なんで俺の名前……」


 すっかり忘れていた。親友に書かれた『大地♡』の文字。手のひらにこびりついて消えない文字は、まるで私の恋心のようだ。その手のひらに秘めた恋心をばっちり見られてしまって、もう逃げ出したくってしょうがない。やだ、泣きそう。無理。無理すぎる。


 その瞬間、走って逃げ出していた。ラブソングはもうすぐラストを迎える。そんなところまで、私の恋と同じじゃなくてもいいのになぁ。力いっぱい走ったら、涙の粒が風に流されて飛んでいった。秋の匂いがする。きみとたくさん話した、大好きな季節の匂い。


 フォークダンスの音が止まる。真面目な彼はきっと、次の曲を流し始めるだろう。けれどもそんな予感は、あっさりと私を裏切ってしまった。


「苗字……!」


 もうすっかり聞き慣れてしまったその声に、はた、と足が止まった。嘘。追いかけてくるはずなんかない。係の仕事を放り出してまで、澤村くんが追いかけてくるはずなんかないのに。


 振り向いた瞬間、ぐっと腕を引っ張られて、視界が遮られた。彼の大きな腕に抱きしめられていると理解するまでに、数秒。一瞬何が起こったのか分からなかったけれど、ばくばくと胸が高鳴っているのだけは分かった。


「苗字のことが好きだ」


 低い声が降ってくる。嘘だ、と思った。信じられない。一番聞きたかった言葉を今、耳元で囁かれている。


「踊りたい相手、苗字だからな」
「嘘……」
「苗字は、誰なんだ?」
「……っ」
「踊りたい相手」


 声を絞り出そうとしたけれど、震えて上手く発音できない。私は澤村くんの制服をぎゅっと掴むと、その手のひらを開いて彼の目の前に付き出した。


「……すき」
「うん」
「さわむらくんが、すき」
「うん」


 今頃、鳴りやんでしまったラブソングにみんな驚いているだろうか。係の席にいない私たちのことを、誰かが噂するのかもしれないな。けれども今は、もう少しだけこうしていたい。


「あー、いっけね、フォークダンス……」
「ふふっ、戻ろうか?」
「ああ」


 ふたり手を繋いで歩きはじめた頃、次の曲が流れはじめた。きっと誰かが流してくれたんだろう。空は暮れはじめていて、秋の夜の匂いをつれた風が吹いてきた。少し寒いけれど、手のひらはとても温かい。


 握られた手のひらに書かれた想いを、私はもう言葉にして伝えることができる。この想いはきっと色褪せることはないだろう

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北くんがキスしてくれない

 リップを変えてみた。制汗剤の匂いも変えた。夏だから爽やかに、けれども適度に女の子らしさは残して、主張しすぎないように。恋は女の子を、魔法のように変える。まあ、男の子の方は少しの変化には気づかないものなんだけど。

「今日暑いね」

「せやな」

 なんて会話は、普通のカップルそのもの。繋いだ手は互いに汗ばんでいて、雨上がりの空には虹が弧を描いている。乾きはじめたアスファルトに並ぶ影はふたつ。見慣れたバス停が近づいてきて、ああ、今日もここまでだ、と思った。

「気ぃつけて帰りぃ」

「うん」

 ほら、また。

 今日も北くんはキスをしてくれない。

 付き合いはじめて一年と少し。告白してオッケーを貰えた時はびっくりして泣いてしまったっけ。手を繋いだのは、それから少ししてのこと。一般的なカップルならば、もうキスをしていてもおかしくない。

 けれども彼は私の唇に触れてくれないのだ。リップを変えたのは三回目。色々作戦を練ってはいるものの、今日も負けのようだ。

「あ、あのね、北くん……」

 思いきって彼の制服の裾を掴む。整えられた夏服の生地が少しくしゃりと歪んで、それだけで彼のものになれたような心地に包まれた。これだけで満足。そう、これだけで。

「なんや?」

「えっと……、帰るの寂しいなって思って……」

「バス、次四十分後やろ? 帰りぃ」

「ですよね……」

 真っ直ぐに伸びた道路の先、ふたつ手前の赤信号に停まるバスの姿が見える。もう一度。もう一度だけと、北くんの夏服の裾をぎゅっと握り直した。頭上から、ふーっと息を吐く音がきこえる。ああ私、呆れられたのかな。

「これで勘弁しときぃ」

 え? と思って見上げた視線の先に、目を細めた北くんの顔がうつる。近づく。鼻先が触れる。唇を指でなぞられる。

 あ。来る。

 そう思った瞬間、自然と目を瞑っていた。委員会終わりで時間がずれたおかげで、バス停には誰もいない。そうだね、きみは人のいるところじゃ絶対にこんなことしない。

 唇と唇が触れる。初めてのそれは、熱くて、湿っぽくて、はちみつリップの味がした。

「……北くんって、キスとかしないと思った」

「俺かて男やし、……そういうの、したいに決まっとるやろ」

「そういうの、ってキスのこと?」

 ふと沸いた疑問を言葉にしたら、北くんはずるい顔をして。

「さぁ、どうやろな」

 そう言って笑った。

 到着したバスに押し込められ、北くんに見送られる。その顔は私より何歩も先を行く余裕のある顔で、私はただ顔を熱くすることしかできなかった。

 北くん、その言葉はずるいよ。

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