大地さんと文化祭の話

 秋の涼しい風が教室の窓から入ってきて、火照った頬を拭う。伝えられないこの恋心も一緒に、風に吹かれて飛んでいってしまえばいいのにな、と思った。


 文化祭の実行委員で澤村くんと一緒になった。彼のことが好きだと自覚したのは、委員になって最初の頃。たぶん、気さくに声をかけてくれたからっていう単純な理由からだった。


 会うたび好きになっていったけれど、どうしても好きだと伝えられないまま時間だけが過ぎていった。そして今日、文化祭本番の日を迎えた。そう、今日で澤村くんとの時間は終わる。クラスも違うし、会うこともなくなるだろう。私の恋は終わりを告げるのだ。


「澤村に告白しなくていいの?」


 親友がそう聞いてきたけれど、私は首を横に振った。だって完全に私の片想いだし、玉砕覚悟で告白する勇気もない。文化祭の熱に浮かれてオッケーしちゃうような性格じゃないし、彼は。


「このままでいいんだ」
「え~? 伝えないの、勿体ないよ?」


 親友はそう言うと、そばにあった油性マジックを手に取って私の手のひらに何かを書き始めた。キュッ、キュッ、とインクの滑る音がする。目を見開いて、私は驚いた。そこには油性マジックでしっかりと『大地♡』と書かれていたのだから。


「ちょ、何書いてんの!?」
「言葉で伝えられないなら、これ見せちゃいなよ~!」
「無理! 無理だからっ!」


 急いで手を洗いに行こうと思ったその時だった。
「苗字、いるか?」
 嘘。まさかのご本人登場に、私は驚いて咄嗟に手を握りしめた。この手のひらだけは、見られるわけにはいかない。逃げたい。逃げなきゃ。そう思ったけれど、時計は私と澤村くんの担当しているフォークダンスの時間に近づいていた。


「そろそろフォークダンスの時間だぞ? 俺ら、当番」
「えっと、うぅ、はい……」


 親友に「頑張れ~!」と意味深なエールを送られ、澤村くんと一緒に、文化祭のフィナーレを飾るフォークダンスの会場へと向かった。

 流行りのラブソングが響いて、鼓膜に届く。好きだとか愛してるだとかいうありきたりな歌詞は、恋をしている私の胸に届くには簡単すぎた。告白ソングだろうということは、聴いていれば分かる。伝えられない分、この曲をふたりで聴けている事実だけが救いだった。

「俺ら、当番なんて損だな。踊れないだろ?」

 澤村くんの低い声が、私の隣からきこえる。そう、私たちはこの曲たちを流す係だから、肝心のフォークダンスは踊ることができないのだ。


「さっ、澤村くんは……、一緒に踊りたい人いるの?」

 そんな質問くらいしてもいいだろう。それくらいは許してほしい。私の儚い恋心の隅にある、ちっちゃな疑問。勇気を出してそれを言葉にしたら、澤村くんははっきりした口調で「ああ」と答え


 そっかぁ。踊りたい人、いるんだなぁ。


「苗字は?」
「え!?」
「いるのか? 踊りたい人」
「……、いるよ」


 そう答えるだけで、口から心臓が飛び出るかと思った。ドキドキしてばくばくして、どうしようもないくらい澤村くんのことが好きだと実感する。叶わないのに、ばかだなぁ。


「じゃ、踊るか。俺たちも」
「え!?」
「次の曲流すまでの間くらい、いいだろ?」


 澤村くんに促されるがまま、手と手を合わせる。流れているラブソングは、最高潮の盛り上がりを迎えるサビの部分だ。好きだ、愛してるの歌詞と共に、私たちは踊った。秋の涼しい風が、火照った頬を撫でる。それでも熱は冷めないままで、身体がどうにかなってしまいそうだと思った。


「? あれ? 苗字、その手……」
「え? ……あ!」
「なんで俺の名前……」


 すっかり忘れていた。親友に書かれた『大地♡』の文字。手のひらにこびりついて消えない文字は、まるで私の恋心のようだ。その手のひらに秘めた恋心をばっちり見られてしまって、もう逃げ出したくってしょうがない。やだ、泣きそう。無理。無理すぎる。


 その瞬間、走って逃げ出していた。ラブソングはもうすぐラストを迎える。そんなところまで、私の恋と同じじゃなくてもいいのになぁ。力いっぱい走ったら、涙の粒が風に流されて飛んでいった。秋の匂いがする。きみとたくさん話した、大好きな季節の匂い。


 フォークダンスの音が止まる。真面目な彼はきっと、次の曲を流し始めるだろう。けれどもそんな予感は、あっさりと私を裏切ってしまった。


「苗字……!」


 もうすっかり聞き慣れてしまったその声に、はた、と足が止まった。嘘。追いかけてくるはずなんかない。係の仕事を放り出してまで、澤村くんが追いかけてくるはずなんかないのに。


 振り向いた瞬間、ぐっと腕を引っ張られて、視界が遮られた。彼の大きな腕に抱きしめられていると理解するまでに、数秒。一瞬何が起こったのか分からなかったけれど、ばくばくと胸が高鳴っているのだけは分かった。


「苗字のことが好きだ」


 低い声が降ってくる。嘘だ、と思った。信じられない。一番聞きたかった言葉を今、耳元で囁かれている。


「踊りたい相手、苗字だからな」
「嘘……」
「苗字は、誰なんだ?」
「……っ」
「踊りたい相手」


 声を絞り出そうとしたけれど、震えて上手く発音できない。私は澤村くんの制服をぎゅっと掴むと、その手のひらを開いて彼の目の前に付き出した。


「……すき」
「うん」
「さわむらくんが、すき」
「うん」


 今頃、鳴りやんでしまったラブソングにみんな驚いているだろうか。係の席にいない私たちのことを、誰かが噂するのかもしれないな。けれども今は、もう少しだけこうしていたい。


「あー、いっけね、フォークダンス……」
「ふふっ、戻ろうか?」
「ああ」


 ふたり手を繋いで歩きはじめた頃、次の曲が流れはじめた。きっと誰かが流してくれたんだろう。空は暮れはじめていて、秋の夜の匂いをつれた風が吹いてきた。少し寒いけれど、手のひらはとても温かい。


 握られた手のひらに書かれた想いを、私はもう言葉にして伝えることができる。この想いはきっと色褪せることはないだろう

back