先輩が運転する軽自動車の助手席で、私はフリーペーパーを捲っていた。県内で『ちゃんと』というお米を作っている若手農家さんが特集されていて、そのお顔は随分と端正だ。
「その北さんって人、めっちゃいい人だよ。かなり真面目そうな感じだけど」
「この爽やかな笑顔の人が真面目なんですか?」
「真面目っていうか、お堅い?」
美人な上に敏腕ライターである先輩は、そう言うとハンドルを右に切った。たちまち広がる田園風景に、思わずわぁ、と叫びそうになる。
高校入学と同時に、親の都合で東京から兵庫に移り早や九年。大学を卒業したあと社畜になっていた私は、今年の三月にその会社を辞めた。今は再就職して、兵庫の地方誌やフリーペーパーを発行している小さな出版社で働いている。これでも一応ライター職だけれど、まだまだ新米。今日はこれから私が担当する地域に、先輩がついて回ってくれることになっている。
「でも本当、イケメンですね。この人」
「でしょ!? 私も何回惚れかけたことか! この人に会ったらみんな、好きになっちゃうんだよね! うちの会社でも山田さんとか、佐藤さんとかもね、」
「それで、誰かと付き合ったんですか?」
「いや、それがね。あまり女の人に興味なさそうっていうか……。こっちから気のあるそぶり見せても、さらっとかわされるっていうか……」
「なるほど……」
そこまで話したところで、車は和風の一軒家に到着した。表札には『北』と書いてある。どうやら今日の目的地に着いたらしい。家の目の前には青々とした田んぼが広がっていて、夏だというのに心地いい風が通り抜けていった。神戸とは随分気温が違うようだ。
「こんにちはー! △△出版のミョウジです!」
先輩が呼び鈴を鳴らしながらそう叫ぶと、少し経ってひとりの男性が出てきた。あ、この人、さっきフリーペーパーの写真で見た人だ。まあ、この人に会いに来たんだから当たり前なんだけど。
「あぁ、ミョウジさん。遠いとこありがとうございます」
そう言うと彼――、北さんはちらりと私の方を見た。数秒目が合って、その瞳に吸い込まれそうになってしまう。どくり、と胸の奥がおかしな音を立てて、ばくばくと胸の鼓動が速くなった。緊張しているせいだ、たぶん。
「あ、こっちは新人の苗字です。今度からこの辺の地域を担当することになるので、北さんともよく会うことになるかと思います」
「そか。よろしゅうな、苗字さん」
「苗字〇〇ともうします! よっ、よろしくお願いします!」
「〇〇ちゃんって、かわええ名前やな」
「……!?」
「ま、上がって下さい」
可愛い。……可愛い。
いや、今褒められたのは名前だから! ちゃん付けされたのは気にしないことにしよう。そうしよう。それにしても、この人が本当に『真面目でお堅い北さん』なんだろうか。
先輩が「失礼します」と靴を脱いで上がったので、私も「失礼します」と靴を脱ぐ。足先が廊下に触れると、火照っていた身体もすっと冷めていった。
それから先輩とふたり客間に通されて、今度の地方誌で特集する『おにぎり×こだわり米』のコンセプトなんかを説明した。こうして話していると、北さんは確かにいい人だけれど、噂通り真面目でお堅そうな雰囲気の人のようだ。その分仕事も進めやすく、私にとっては初めての大きな企画なのに緊張感が解けていくのが分かる。私は『おにぎり×こだわり米』の企画が上手くいくような予感を抱いた。
続けて、今後の大まかなスケジュールについて北さんに伝える。細かい取材はこれから数回に分けて、私が行っていくことになる。◇◇先輩はおにぎり屋さんの方に取材に行くらしい。今日は簡単な打ち合わせをして、最後にこの時期の田んぼの写真の撮影を終えて、私たちは帰路につくことになった。
「それじゃあ、今度からは苗字が来ますので、よろしくお願いします」
先輩がそう言うと、北さんは私の方をじっと見つめて爽やかに笑った。
わ、あのフリーペーパーの、爽やかな笑顔だ。
「なぁ、苗字さん」
「はい?」
「今度、飯でもどうですか?」
「へ……? えっと、打ち合わせですか?」
「まあ、そういうことにしといてもええですよ」
「はぁ……」
「仕事用のでかまわへんから、連絡先交換しときましょ」
美人かつ敏腕ライターである◇◇先輩が、隣で目を丸くしている。お堅い。女性に興味なさそう。気のあるそぶりを見せてもかわされる。
この人が? 本当に?
連絡先なら先ほど名刺を渡したんだけどなぁ。
そう思ったけれど、仕事の付き合いもあるので、とりあえずスマホを差し出し連絡先を交換する。先輩が「じゃ、車エンジンかけてくるね。北さん、ありがとうございました」とお辞儀をして、先に車の方へと駆けていった。
北さんとバチッと目が合う。にこりと微笑まれて、私の身体は急激に熱くなってしまった。
「〇〇ちゃん」
「はいっ!?」
「俺、〇〇ちゃんのこと気に入ってもうたみたいやわ」
――☆□△~!?
これから北さんからの猛アタックが始まるとは知らずに、私は急いでお礼を言うと走って車へと駆けた。
これが、私と北さんの出会いだった。