カテゴリー: short story

これは恋です【宮侑】

※途中ツム視点です。

 毎日同じバスで顔を合わせる男の子。いつも朝早い時間のバスに乗っていて、スポーツバッグを抱えているから強化部かなってずっと気になっていたその存在。そのうちに目で追いかけるようになり、気がつけばその人を見ると胸がドキドキと高鳴るようになっていた。

 金髪のツーブロック。派手な髪型のその人は、同じ顔をした兄弟と思われる男の子と一緒にいる。けれども私の目にとまるのは、金髪のその人だけだった。

 それは恋よ。友人が言ったひとことは、私の想いを加速させていく。そう、私は彼に恋をしてしまった。

 部活の朝練が休みの日も、その人の時間に合わせて同じバスに乗った。晴れの日も、曇りの日も、雪の日もそうした。

 曇天から小粒の雨がぱらぱらと降り注ぎ、外の景色が歪みはじめる。それは、そんな朝のことだった。彼が傘を忘れてバスを降りようとしたのだ。

「これ忘れてますよ」

 チャンスだ。そう思ったのだけれど、私はその一言しか口にすることが出来なくて。傘を手渡す時に触れた手の温もりが忘れられなくて。伝えられない想いは、降り積もるばかりだった。

 だから、決めたのだ。今年のバレンタインにはチョコレートを渡して告白するんだと。張り切った私はチョコレートを手作りし、可愛くラッピングまでしてみせた。

 そして訪れたその日。緊張して眠れなかったせいか、朝時計を見て絶望した。

 そう、私は寝坊してしまったのだ。

 今日やねん。今日が勝負の日やねん。

 デカい図体した男には似合わないピンク色の紙袋を下げて、いつものバスに乗り込む。一緒に登校している兄弟は、今日はいない。珍しいことに、俺に気を遣って後から家を出ると言ってくれたのだ。俺とあの子がふたりになる空間を作るために。

 あれはいつの日だっただろうか。その日まで俺は、自分の周りに立っている人物に目も向けていなかった。いつもと同じ時間のバスはたまたま空いていて、俺が窓際、サムが通路側に座った。どんよりした曇り空だった外は、バスが走っているうちにますます暗くなり、気がついたら窓には雨粒が叩きつけられていた。そう、その日は雨だった。そのうちにうとうとしてきて、ほんの少しの眠りについた俺は、十数分後に兄弟に叩き起こされることとなる。

「ツム、着いたで!」

「痛っ! 叩くなやサム!」

「この短時間でよう寝るな」

 そんなやり取りをしていたせいで、持っていた傘の存在をすっかり忘れていた。あの子が「これ忘れてますよ」と手渡してくれるまでは。

 そしてその瞬間、俺は恋に落ちた。

 いつもと同じ時間のバスに乗っている、同じ高校の制服を着た女子生徒。朝早いから強化部だろうと推測して探し回り、彼女の部活と名前を特定した。自分でもチャラい方だとは自覚していたが、この恋に関してはそうじゃなかった。話しかけられることすら出来ず、ただ見つめるだけの日が数ヶ月。そんな俺を見た兄弟が、「キショいねん! さっさと声かけぇや!」と言いながら渡してきたのはチョコレートのレシピを印刷したものだった。

「なんやねん、コレ」

「ツム、逆チョコ知らんのか」

「なんやそれ?」

「男から女にバレンタインのチョコ渡すんや」

 俺が? あの子に? 無理や、無理すぎる!

「せやかて俺チョコとか作ったことあらへんし」

「チョコ渡す勇気ないんか?」

 ニヤリと笑う兄弟の顔を見て、「ハァ!? んなことあらへんわ! 作ったる! 来週には彼女持ちやで!?」と叫んでしまったが最後。まぁ、そのチョコレート作りは料理が得意な兄弟に手取り足取り教わったのだけれど。ついでに台所を散らかして、オカンの雷が落ちたのだけれど。

 そうして今日、ついにその日が来た。彼女にチョコレートを手渡す日が。速まる胸を抑えて、バスに乗り込む。

 けれどもそこに、彼女の姿はなかった。

 猛ダッシュで着替えて髪を整え、バス停まで走る。どうしても寝ぐせが直らなかったけれど、会えないよりはマシだと思った。丁寧にラッピングしたチョコの入った袋を抱え、走る、走る。周りの景色が流れていく中で、いつものバスを追いかけた。

 けれども現実とは残酷なもので、バスは前へと走りはじめてしまう。バス停に着いた時にはもうその姿は見えなくて、どうすることも出来なかった。結局乗り込んだのは一本遅いバスで、私は肩を落としたまま、クマの浮き出た目元をこすった。窓に映る自分の姿がひどい。寝ぐせだって直っていないし、走ったせいで制服は乱れている。よくもまあ、こんな格好でチョコを渡そうとしたもんだ。乗り遅れて良かったのかもしれない。

 彼の片割れが乗り込んできたのは、その時だった。

「えっ!? なんでおんねん!?」

 喋ったこともないのに、目が合った瞬間になぜかそんなことを話しかけられる。銀髪の兄弟さんは、驚いた顔をして溜息をついた。空はあの日と同じ曇天。雨は降っていないけれど、私の目から降り注ぎそうになる何か。じわりと視界が歪んだその時、銀髪の彼にまた話しかけられた。

「……その袋」

「え……?」

「俺の勘違いやなかったらやけど、ツム……、俺の片割れに渡そう思うた?」

 私の気持ちにはちっとも気がついていなさそうな金髪の彼とは違って、こちらの彼は私の気持ちを知っているようだった。まぁ、見てたもんな。毎日毎日、穴があきそうなくらいに。

「……これ、渡してくれますか? 今日はもう会えそうにないから……」

「そんなことあらへんで?」

「でも寝ぐせも直ってないし、こんな格好じゃ」

「そんなの気にせぇへんと思うけど」

 そう言ってスマホを打ち始める銀髪の片割れさん。まさか、と思いきやそのまさかで、彼は「降りたら待っとけ言うたから」なんて言っている。急に加速しはじめる胸の音がうるさい。私、まだ諦めなくていいのかな。チョコレート渡してもいいのかな。緊張しすぎて、どうすればいいのか分からない。分からないけれど、渡したいと思った。

 景色が変わる。ぽつぽつと降りはじめた雨が、窓の向こうに見える校舎の姿を揺らす。あの日と同じ雨。このバスで、私はあなたに恋をした。校舎がどんどん近づいてきて、バス停に立つ恋しい人の姿も近づいてくる。あー、好きだな。諦められそうもないや。

 プシューとドアの開く音がして、私はバスのステップから飛び降りた。飛び込んできたのはあの人の顔。銀髪の彼に「頑張りぃや」と背中を押され、片割れさんは去っていく。みんなが次々と校舎に向かうその中で、私と彼だけがその場所に取り残される。

「あの……、」

 チョコレートを渡そうとしたその瞬間だった。

「これ、貰うて下さい!」

 金髪の彼の声が大きく響いて、目の前にピンク色をした袋が差し出された。私が用意したものと似たような、可愛らしいその袋。中に入っているのはきっと、同じものだろう。

「これって……?」

「チョコレート、サムに教わりながら作ったけどあんまし形ようないし、微妙かもしれんけど」

「私に……?」

「好きです! 付き合うて下さい!」

 雨が少しずつ強くなって、生徒たちが走りはじめる。そんな中でも彼の声に反応して、たくさんの人が私たちを見ていた。

「宮兄弟や」「告白しよる」「ミャーツムやん」

 そんな声が聞こえて、私は初めて彼がミャーツムくんだということを知った。噂で聞いたことのある名前。ミャーツムくんは私の目を見ながら、顔を赤らめている。

「……その台詞、私も言おうと思ってたの」

「へ!?」

「私のチョコも貰ってくれますか?」

「ほんまに!? 嘘やん!」

「嘘じゃないよ」

「嘘やないなら夢か……?」

「私も好きです」

 小さな声でそう言ったら、また大きな声で「大好きやー!」と叫ばれた。道行く人たちが、私たちの方を振り返る。あちらこちらから拍手が起きて、歓声があがった。そうしてミャーツムくんに彼女が出来たという噂は、その日のうちに校内を駆け巡った。

「ミャーツムに彼女出来たって!」

 そう報告してきた友人に、「あー……、それ、私」と言ったら、噂はますます広がっていったのだけれど。まぁ、公認ということで、めでたしめでたし、かな。

 そんなこんなでチョコレートを渡し合った私たち。今日は忘れられない記念日になったのだった。

back

冬の夜空を追いかけて【月島】

 仕事を終え外に出ると、外はすっかり暗くなっていた。冬の夜は暗くて寒い。冷たさが空気を透明にしてくれるおかげで、夜空はとても澄んでいる。星空が綺麗だな。あなたにも見せたいな。そんなことを思っていたら、駐車場の影に見慣れた姿を見つけた。

「えっ? 蛍くん!?」

「……たまたま他の店に用があったから」

 どうやら彼は、私が働いているショッピングモールの他のお店に用事があったらしい。そうだとしても、私を待ってくれていたという事実が嬉しくてたまらなかった。

「待っててくれたんだ。ありがとう」

「ちょうど閉店時間だったから待ってただけでしょ。行くよ」

「どこのお店行ってたの?」

「CD見に来ただけ」

「今日大学は?」

「夕方の講義だけだったけど」

「へぇ〜。じゃ、午前中来れたんじゃん? わざわざ私のために遅い時間に来てくれたの?」

「たまたまだから。君のためじゃないし」

 こういう時蛍くんは、『たまたま』を連呼する。けれども本当は、私のためにわざわざ待ってくれていたんだと分かるんだ。寒い中待ってていただろうあなたの鼻は真っ赤になっているし、繋いだ手だってとても冷たいのだから。

「ね、今日星すごいね」

「前向いて歩いた方がいいんじゃない?転けるよ」

「蛍くんに見せたかったんだよ」

 そこまで話すと、蛍くんは駅とは違う方向へと向かって歩き始めた。「どこ行くの?」と聞いてみるけれど、返事はない。緩やかな上り坂を無言のまま、早足で歩く。段々と繋がれた手が温かくなって、汗がじんわりと滲むのが分かった。

 たどり着いたのは街を見下ろせる小さな公園。誰もいない静かな空間からは、街の灯りが見下ろせる。それはまるで宝石箱みたいに、きらきらと輝いていた。

「すごい……。こんなとこ知ってたんだ」

「ここならじゅうぶん見渡せるでしょ」

「うん。すごい夜景だね」

「そうじゃないし……、上」

 彼に言われて空を見上げると、そこには満点の星空が広がっていた。街中を歩いていた時よりももっとはっきりと、澄んだ冬の夜空に散りばめられている星空たち。これだ。この光景を、蛍くんにも見せたかったんだよね。そう思った。

「……僕も」

「?」

「君のために見せたかったから」

「えっ!?」

「ごめん忘れて」

 ずるい。本当にずるいよ、蛍くん。さっきまでたまたまだとか、君のためじゃないだとか言っていたくせに。たまにこうして、本音を言われるものだから私の胸はどうしようもないくらいに高鳴ってしまう。蛍くんの方を向けば、彼は鼻だけでなく頬まで赤くして私を見つめていた。

「蛍くん、なんで空見てないの?」

「……べつに」

「私の顔見てたでしょ!?」

「そんなんじゃないから」

「ふふっ、照れてる」

 からかうようにそう言うと、頬をぷにっとつねられた。目と目が合って、唇同士が触れ合う。雪が降りそうな寒空の下だけれど、私たちはくっつき合っているからとても温かい。

 ねぇ、蛍くん。大好きだよ。ずっと一緒にいようね。そんなことを願いながら、彼の腕に抱かれる。冬の夜のことだった。

※ワーパレお借りしています。君のため/灯り/冬の夜空

キャラリクありがとうございました!

back

溶けない【角名】

 雨に混じった雪が舞っているのが見える。窓の向こうは曇天で、寮の中にも冷たい空気が流れ込んでいた。デコレーションする為に溶かしたチョコレートも、この寒さですぐに固まってしまう。

「あ〜! もう! また固まった!」

 バレンタインを前日に控えたこの日、私は女子寮の共用キッチンでチョコレートを溶かしていた。奮発して買った苺をチョコレートでコーティングして、その上からホワイトチョコで模様を書いていく。なんて、凝ったことをしようとしたせいでかなり時間を要してしまったのだけれど。

「出来た!」

 頑張った甲斐があって、どうにか目的のものは完成した。あーん、と口を開き、ひとつだけ味見してみる。うん、おいしい。

「名前! それ誰にあげるの? ミャーツム? ミャーサム? それとも銀島くん? 男バレでしょ?」

「わっ! 違う! 違うからっ!」

 そんな質問をしてきたのは、同じ吹奏楽部の友人だった。うちの高校は吹奏楽が盛んだ。なので、私を含め県外からここに進学する人も多い。この友人もそのひとりで、寂しい寮生活を楽しくしてくれる仲間だ。

「あ〜、分かった! 角名だ!」

「……」

「同じ寮生だもんね〜! 頑張れ!」

「ありがと」

 どうやら私の気持ちは、この友人には丸分かりだったらしい。まあ、男バレの方ばかり見てるもんな。

 けれども肝心の角名にはその気持ちは伝わっていないようで、私は頭を抱えていた。それから二十四時間後、私は彼を目の前にして溜息をつくに至る。

「ねぇ、それ誰に渡せばいいの? 侑? それとも治? もしかして銀だったりする?」

 二月半ば、世の中の恋人たちが浮かれるその日、私は好きな人を目の前にして固まっていた。

 彼ーー、角名とは同じ寮生ということもあり、時々ファミレスでご飯を一緒に食べる仲だ。寮のご飯はおいしいけれど、たまには濃いものが食べたくなる。そういう時にどちらかがどちらかを誘って、このファミレスを訪れるのだ。

 しかし、今日は少し違った。いつものように私が角名をファミレスに呼び出したのだけれど、それには目的があった。そう、ずっと片想いしている角名に、バレンタインのチョコレートを渡すためだ。

 けれども彼は、不思議そうな顔をしてそんな質問をしてのける。机の上に置かれたチョコレートの袋が、自分宛てだとは微塵も思っていないようだ。

「名前の好きな人、うちの部でしょ? いつも見てるし」

「……それは正解」

「俺をここに呼び出したってことは、それを誰かに渡してほしいってことだよね?」

「半分正解」

「半分? それ買ったの? 手作り?」

「……手作りってどう思う?」

「手作りなんだ! 俺はいいと思うけど」

 だから、渡したいのはその俺なんだって! そう言いたいけれど、緊張のあまり言葉が声にならない。普段のお礼だって、義理だって言えばいいだけなのに、その言葉すら出てこない。まあ、義理じゃないんだけれど。

「……やっぱいいや。私にはそれ渡す勇気ないみたい」

「えっ、勿体ないじゃん。折角作ったんでしょ?」

「持って帰って食べるよ。それよりさ、ご飯食べよう? 何か頼もうよ」

「じゃあ、それ俺にちょうだい」

「えっ?」

「ご飯食べた後って甘いのほしくなるじゃん」

「ああ、そういうこと……。いいよ。角名にあげる」

 こうして私は想いを伝えられないまま、チョコレートをあげることだけに成功した。まあ、これでいいのかもな、なんてそう思う。私には気持ちを伝える勇気なんて、到底ないのだから。

 そのあとはいつも通り一緒に夜ご飯を食べて、ふたりで寮まで帰ることになった。

 夜にはまた気温がぐっと下がると、天気予報のお姉さんが言っていた。ファミレスを出ると予報通り空気が冷えていて、息を吐けば白い気体がもくもくと上がっていった。もしかしたら、今年最後の雪になるかもしれないな。そんなことを考えながら、寮までの道を角名とふたり歩く。

 いつもは喋りながら帰るのだけれど、どうしてだか今日の彼は静かだ。私が渡したチョコレートの袋をぶら下げて、黙ったまま夜道を歩いている。

「寒いね」

 そう言ったら、角名は少し小さな声で「うん」とだけ呟いた。

 寮へと続く裏通りを、ふたり黙ったまま進む。しばらく行くと本当に雪がちらつきはじめて、これ、恋人同士ならすごくロマンチックなシチュエーションだな、なんて思った。

 けれども私たちは、恋人同士じゃない。私に少しでも勇気があれば、何かが変わったかもしれないのに。そんな勇気も持ち合わせていない。はらはらと舞ってはすぐに溶けていく雪のように、この恋心も溶けて消えちゃえばいいのにな。そうすれば楽になれるのに。そんな到底叶わないことを、ぼんやりと考えてしまう。

 そんなの、無理に決まっている。だってこうして歩いているだけでも、好きが溢れてくるのに。ああ、やっぱり好きだなぁ。好きなんだ。

「名前」

 角名にそう呼びかけられたのは、女子寮の裏手までたどり着いた時だった。はっ、と我に返り、角名の顔を見上げる。暗くて表情がよく分からないけれど、真面目な顔をしているような気がした。

 雪が舞う。冷たい風が頬を刺す。街灯はきらめいて、僅かに私たちを照らしてくれる。角名の唇が、ゆっくりと開いた。

「ねぇ、これさ、本当は誰にあげたかったの?」

 何を聞かれているのだろう。誰にあげたかったのかなんて、言えるはずもない。だって角名は、そのチョコレートが自分に向けられたものだと知らないのだから。

「……教えなきゃいけない?」

「うん。俺がさ、なんでこんなこと聞いてるか分かる?」

「……分かんない」

 分からない。分かるはずもない。ただの好奇心? チョコ貰って帰ったら寮のみんなに聞かれるから? 彼の意図が分からぬまま、首を横に振る。彼の口からとんでもない言葉が発せられたのは、まばたきをした一瞬のことだった。私のみじかい睫毛の上に、細やかな雪が積もって溶けていく。角名の顔が、より一層真面目なそれになった。

「これ貰う相手にめちゃくちゃ嫉妬してるから」

「え?」

 いま、なにを言われたのだろう。

 嫉妬? 角名が? 誰に?

「だから、これ貰うはずだった相手に嫉妬してんの」

「角名が?」

「他に誰がいんの」

「……角名だよ。それ渡すはずだった相手」

「は!? 俺!?」

「他に誰がいるの」

「ちょっと待って。整理したいんだけど。……俺が名前のこと好きで、名前も俺のこと好きってことで合ってる?」

「ちょ、ちょっと待って! 私が角名のこと好き、は合ってる! でも……」

 そこまで言ったところで、ふっと影がおちてきた。白く舞い散る雪を背景に、角名の顔がゆっくりと近づいてくる。あ、と思ったその瞬間、唇と唇が触れた。それはほんの一瞬。雪が降っては溶けるその様のような、ささやかな触れ合いだった。

「〜!」

「俺は好きだよ、名前のこと」

「嘘……」

「なんで嘘つく必要あんの」

 もう一度、角名の顔が近づいてくる。今度はさっきと違う、少し長いキス。こうしていると冷たかったはずの身体も、じんわりと温まってくる。あー、私、叶ったんだなぁ。叶ったんだよ。奇跡なのかな。

 しばらくそうしていたら、雪はやんでしまったのだけれど。私の恋心は溶けないままだな。むしろ積もる一方だ、なんて思った。けれども今度は一方的な恋じゃない。ふたり同じ気持ちでいられるから。

 ねぇ、角名。大好きだよ。

 今度は大きな声で、はっきりとそう伝えた。

※ワーパレお借りしました。影/唇/黙/裏 Thanks by 憂様

キャラリクありがとうございます!

back

素直になれないの【古森】

 びゅうっと冷たい風が通り抜けて、私の髪を乱す。折角早起きしてブローしたのにな、なんて考えながら、手櫛で髪を整え直した。

 通学路の遊歩道には赤く色づいた梅の花たちが、もうすぐ訪れる春を心待ちにしているかのように空を見上げている。赤く色づいたのは、梅の花だけじゃない。私の頬と、私の心。それから、今手に持っている紙袋の色。

 真っ赤な袋の中には、今日これから『彼』に渡す大事なものが入っている。『彼』なんていっても付き合っているわけじゃないし、完全な片想いなんだけれど。

「苗字、おはよ!」

 いつもと同じ時間に学校へとたどり着き、いつもと同じように彼ーー、古森に声をかけられる。私が古森に合わせてこの時間に来ていることなんて、彼は知るはずもないのだろう。

「おはよう、古森」

「今日さ、何の日か知ってる!?」

「……知らない」

「バレンタインっていうんだけど!」

「へぇ、そーなんだ」

「絶賛募集中!」

「おめでたい頭だね」

 ……私のバカ。今のは渡すチャンスだったのに、古森を前にするとどうしても可愛くなれない。今だってほら、素直とは程遠い場所にいる。

 チョコレートの話をするのがなんだかむず痒くって、話題を切り替えふたり並んで教室へと向かった。

 教室に着くと、古森のところへ女子たちが群がってきた。けれどもそのお目当ては大半が彼じゃない。

「古森〜! これ、佐久早くんにお願い!」

「はい、ついでに古森の分も! あんたのは義理ね!」

「古森、私も佐久早くんに渡してほしいんだけど」

 そう、彼女たちのお目当ては彼のいとこの佐久早くんだ。とはいっても古森は気さくで明るい人気者なので、お礼にと義理チョコを沢山渡されているのが毎年の光景なんだけれど。毎年の光景を知っている私は、中学生の頃から古森にチョコを渡せずにいる。一体何年目なんだよ、この片想い。本当にもう、情けないな。

 席につき、窓の外を眺める。冬の空は青く高く澄みきっていて、校庭ではまた梅の花が頬を染めていた。きっとあの花は、あたたかい春に恋をしているんだろうな、なんて似合わないことを考える。私と同じ。春に、恋をしているんだ。

 そうこうしているうちに訪れた放課後。生徒たちが次々と帰っていき、古森もスポーツバッグを片手に席を立った。私の机の横には、真っ赤な紙袋がかけられたままだ。

 ああ、また渡せなかったなぁ。

 古森が私の方に近づいてきたのは、そう思っていたその時だった。片手にはスポーツバッグ、もう片方の手には佐久早くん宛ての大量の紙袋が下げられている。

 え、古森、こっちに来てる? なんで?

「ねぇ、それ」

「へっ!? な、なに!?」

「その紙袋、渡すんだよね?」

「えっ……!? ……えっと」

「聖臣に」

「はっ!?」

「だって苗字、いつも聖臣のこと見てるじゃん。中学の頃からでしょ。毎年持ってきてるみたいだし?」

 まさかのまさか、盛大な勘違いをされているようで、頭の中が真っ白になる。これはチャンス?

それとも諦めろっていうこと? もしも神様がいるのならば、それだけでも教えて欲しい。そうすれば、私は素直になれるのに。

 ああ。私は、満開にはなれない。

「古森のばか! 鈍感!」

 気がついたら、そう叫んで彼に紙袋を投げつけていた。教室に残っていた数人の視線が突き刺さる。鈍感、だなんて。そんなこと言ってしまったら、私の気持ち丸わかりじゃん。

 この恋は、咲き誇る前に散ってしまうのかな。長い冬だった。春はもう来ない。

 

 視界の奥が歪んで、涙が飛び散る。鞄も置いたまま教室を飛び出し、逃げるように走り出していた。

「待ってよ!」

 嘘、追いかけられてる!?

 逃げる私の速度よりも早いそれで、古森が駆け寄ってくる。こんな時なのに、「苗字!」と呼ぶ声が愛おしい。そんな声で呼ばれたらさ、寒い冬でも狂い咲いてしまいそうだよ。

「好きだ!!!!」

 廊下を突き進み、角を曲がり、階段を駆け降りている途中で後ろからそう叫ばれた。今聞こえた言葉が自分に向けられたものだと気がつくまで数秒。その数秒の間に、何を考えただろう。たぶん、何も考えていなかった。ぜんぶ吹き飛んでしまったから。

「追いついた」

「……古森、足速すぎ」

「……俺さ、ずっと聖臣に嫉妬してた。苗字が聖臣のこと好きだと思ってたから」

「……違うし」

「勘違いだったら申し訳ないんだけど。……もしかしてこれ、俺に?」

 踊り場のステンドグラスが、光を浴びてきらきらと光っている。神様がもしもいるのならば、今この瞬間だけでも勇気を下さい。素直にさせて下さい。春が来なくてもいいから。

「……そーだよ」

「すっごい嬉しいんだけど?」

「……さっき、好きって言ってくれたの?」

「うん! 俺、苗字のこと好きだから」

「……も」

「え?」

「私も好き、って言ったの!」

 精一杯の気持ちを伝えたら、古森は「やば、ちょー嬉しい」と言って私に抱きついた。体温が急上昇していくのが分かる。ここで初めて気がついたんだけれど、あの大量の紙袋は教室に置いてきて、私のチョコレートだけ持ってきてくれたんだな。そんな小さなことが嬉しくて、また涙が溢れてきた。

「えっ!? 泣いてんの!?」

「だって、ずっと好きだったから」

「言っとくけど、俺も中学の時から好きだから」

「えっ!? ええっ!?」

「今日から、苗字は俺の彼女だね」

「〜!」

 彼の手元には真っ赤な紙袋。渡せなかった数年分の想いが込められた、私からのチョコレートだ。抱きしめられた体温が心地いい。私は古森の背に手を回して、ぎゅっと抱きついた。

 神様はいたのかって? それは分からない。勇気を出したのは自分なのだから。

 数日後、通学路の遊歩道には梅の花がぽつぽつと花を咲かせていた。ぬるい風が頬を撫でて、私の髪をなびかせる。繋がれた手はあたたかく、それはまるで、待ちわびた春のようだ。春はここにあったのだ。

「名前、どーかした?」

「うーん、好きだなあって思って」

「どうしたの? 素直になって」

「素直になったのよ私は」

 古森がさらっと「俺も好き」と言いながら、手を握る力を強めてくる。身体が沸騰しそうなほどに体温が上昇して、夏が来てしまったんじゃないかな、と思った。

 ねぇ、古森。大好きだよ。今はもうそれを伝えることが出来る。『好き』の気持ちを噛みしめながら、私はぎゅっと手を握り返した。

キャラリクありがとうございます!

back

研磨くんのお誕生日

 外を吹く風が涼しくなり、すっかり秋めいてきたこの頃。明日は休みだ。いつもの休日前と同じようにお泊まりの準備をして、研磨のうちへと急ぐ。途中で寄るのはスーパー。挽肉と玉ねぎと、それから彼の好物であるアップルパイの材料を買い込む。いつもの光景だけれど、今日は少し違った。そう、彼の誕生日だからだ。

 彼は毎年誕生日には生配信を行う。だから、絶対ジャマをしちゃいけない。普段は隣の部屋で、研磨の予備用のゲーム機で遊びながら配信が終わるのを待つのだけれど、これも今日は違った。ご馳走を作るためだ。

 正直料理は得意じゃないけれど、配信してる間にご飯を作って、デザートまで用意しちゃうんだから!

 研磨の仕事部屋から聞こえてくる声に心地良さを感じながら、張り切って料理を作る。ハンバーグはちょっと焦げてしまったし、アップルパイは形が崩れてしまったけれど、私にしては上出来だと思う。
 あとは配信の終わりを待つだけだ。

 そう思っていたその時、配信部屋から「今日は皆さんに紹介したい人がいます」と聞こえてきた。
 え? このうちに今誰か来てるの? 誰!?
「名前、こっち来て」
 研磨の仕事部屋の扉が開いて、おいでと手招きされる。エプロン付けたままだし、化粧は崩れているだろうし、変な汗がとまらない。
 え!? 紹介したい人ってもしかして……!?

『コヅケン誰〜? 彼女!?』
『おっ可愛い』
『女だ』
『これはまさか!?』

 そんなコメントが流れていたらしいけど、それを知るのはもちろんあとの話で。私は今とてもテンパっています。な、な、なんで私が生配信に出てるの!?

「俺の嫁」
「ひぇえ!?」

『おお〜!』
『コヅケン奥さんいたの!?』
『勝ち組じゃん!』

「正確には、これから嫁になる人だから」
「ひぇっ!? 何これドッキリ!?」
「うーん、ドッキリっていうより、サプライズ?」
「!?」
「名前、俺と結婚して?」
「……は、はい」

『おお〜!』
『おめでとう!!!!』
『まさかの公開プロポーズ!』

 まさかのまさか、私は生配信中に公開プロポーズをされてしまったのだ。「ドッキリ!? ドッキリ!?」と騒ぐ私に、研磨は「だから本当だって」と半ば呆れた顔をしている。そんな表情をみせながらも彼の口角はぐぐっと上がっていて、これが事実なんだなと思わされた。 

 その日SNSでは『公開プロポーズ』『コヅケン』『名前ちゃん』がトレンド入り。ニュースでも『KODZUKEN婚約!公開プロポーズ!』の記事が並んでいた。

 焦げたハンバーグの味も、崩れたアップルパイの味もよく分からなくなってしまったけれど。彼の誕生日は、忘れられない一日になったのでした。

back

侑とショッピングモールデート

「げっ」

 彼氏ーー、侑のオフの日のことだった。わりと顔が知られている彼と、外でデートをすることは少ない。けれども今日は珍しく、彼から買い物に行こうと誘ってくれたのだ。

 楽しいはずの久々のデート。けれども侑は今、しかめっ面で目の前にいる人物を睨んでいる。

「なんでおんねん……」

「久々会うたのに、その言い方なんやねん」

 平日午前中のショッピングモール。休日と比べて人がまばらな時間帯に、私は初めてその人と対面した。私たちの目の前には、侑とそっくりな顔の男性が立っている。

 知っている。この人は侑の双子の兄弟の、治さんだ。

「侑の彼女さん?」

「あっ、はい! 苗字名前と申します」

「俺のことは知っとるよな? へぇ、かわええやん」

 治さんがそう言った瞬間、侑が彼のことをギロリと睨んだ。どうしてだか侑は顔をしかめていて、とってもふきげんそうである。

「俺おにぎり屋してるから、ふたりで食いにきてや」

「そうなんですか!? 是非行きたいです!」

「……名前。もう行こうや」

「えっ、久々に会ったんでしょ? いいの?」

「ええんや。ほなな!」

 侑は治さんに冷たい態度を取ると、私の手を掴んで歩きはじめてしまった。後ろを振り返ると、治さんの姿がどんどん小さくなる。仲良くないのかな? なんて思ってしまうくらいに、侑はイライラしているようだった。

「どうしてイライラしてるの?」

「イライラしてへん」

「……私なんかのこと、治さんに紹介したくなかった?」

「……! ちゃう!」

「そうじゃん! 私にずっと治さんのこと紹介しなかったし、お店してるのだって知らなかったとん!」

「~っ、あんなぁ!」

 その瞬間、ショッピングモールのど真ん中でぎゅっと抱きしめられた。突然のことにびっくりして、頭が回らなくなる。

 あれ!? 私たち、今ケンカしかけてなかったっけ!?

「だって、おんなし顔やん」

「?」

「名前がサムのこと好きになったら困る思うて」

「……!?」

「名前かわええし、会わせたくなかったんや」

「……全然違うじゃん。似てないよ。大体そんなので簡単に侑のことイヤにならないし」

「……ほんま?」

「うん」

 そう言ったら、侑はますます強い力で私を抱きしめて、「名前大好きやー!」と叫んだ。あれって宮選手じゃない!? と声が聞こえたけれど、彼にはそんなことは関係ないらしい。

 だから私も気にせずに、彼のことをぎゅっと抱きしめた。大好きだよ、侑。

back

北さんと深まる秋

「急に寒くなったね」

 いつもと同じ朝、隣に並んで歩く信介くんにそう言うと、彼は「おん」とだけ言って前を向いた。数日前まで夏の暑さが残っているようだったのに、今日から急に季節が変わってしまったようだ。バス停に着くと、待ち時間に吹きつける冷たい風が身体を冷やしていく。タイツも履いてくれば良かったかな。

「名前。それ、似合うとるで」

「え?」

「カーディガン。かわええ」

 寒くなったからと急いでひっぱり出したカーディガンを、着てきたのは正解だった。普段あまりそういうことを言ってくれない信介くんだけど、たまにこういう言葉をくれることがある。彼も私と同じように、秋の訪れに浮き足立ったのだろうか。

「信介くんは、冬用ジャージ羽織ってきたんだね」

「寒かったからな。引っ張り出してきたわ」

「……それ、一回着てみたいな」

「? こんなもんをか?」

「彼ジャーっていうんだって。彼氏のジャージ着るの」

「……」

「……ごめん、忘れて」

 ちょっと調子に乗りすぎたかな。反省して下を向いた瞬間、後ろからがばりと抱きしめられて、驚いて顔を上げた。あったかい感触が身体を包んでいく。秋の匂いに混じって、信介くんの匂いがした。

「こうすれば、羽織っとるのと同じやん」

「ひえぇ!?」

「カーディガンの方がかわええけど、これもええな」

 顔を斜めに上げると、信介くんの下がる目尻がみえた。やさしく微笑まれてしまえば、もう動くことさえできない。このひと、こうして私の欲しいものをくれるんだよね。ずるいなぁ。

「信介くん、ずるいよ」

「ずるいのは名前やん。可愛すぎやて」

「~っ! どうしたの、今日?」

「ん~。名前がかわええから」

 ブロロロロ、とバスのエンジン音がきこえて、ひっつけるのも一旦お預けだなと思った。バスが停まって、プシューとドアが開く。その瞬間に握られた手は、冷たくてあたたかい。

 手を繋いだまま乗ったバスは、私たちふたりの時間をもう少しだけ繋いでくれた。

※ワーパレお借りしました『カーディガン/下がる目尻/欲しいもの』

※タグ企画で書かせていただいたものです

back

大地さんと文化祭の話

 秋の涼しい風が教室の窓から入ってきて、火照った頬を拭う。伝えられないこの恋心も一緒に、風に吹かれて飛んでいってしまえばいいのにな、と思った。


 文化祭の実行委員で澤村くんと一緒になった。彼のことが好きだと自覚したのは、委員になって最初の頃。たぶん、気さくに声をかけてくれたからっていう単純な理由からだった。


 会うたび好きになっていったけれど、どうしても好きだと伝えられないまま時間だけが過ぎていった。そして今日、文化祭本番の日を迎えた。そう、今日で澤村くんとの時間は終わる。クラスも違うし、会うこともなくなるだろう。私の恋は終わりを告げるのだ。


「澤村に告白しなくていいの?」


 親友がそう聞いてきたけれど、私は首を横に振った。だって完全に私の片想いだし、玉砕覚悟で告白する勇気もない。文化祭の熱に浮かれてオッケーしちゃうような性格じゃないし、彼は。


「このままでいいんだ」
「え~? 伝えないの、勿体ないよ?」


 親友はそう言うと、そばにあった油性マジックを手に取って私の手のひらに何かを書き始めた。キュッ、キュッ、とインクの滑る音がする。目を見開いて、私は驚いた。そこには油性マジックでしっかりと『大地♡』と書かれていたのだから。


「ちょ、何書いてんの!?」
「言葉で伝えられないなら、これ見せちゃいなよ~!」
「無理! 無理だからっ!」


 急いで手を洗いに行こうと思ったその時だった。
「苗字、いるか?」
 嘘。まさかのご本人登場に、私は驚いて咄嗟に手を握りしめた。この手のひらだけは、見られるわけにはいかない。逃げたい。逃げなきゃ。そう思ったけれど、時計は私と澤村くんの担当しているフォークダンスの時間に近づいていた。


「そろそろフォークダンスの時間だぞ? 俺ら、当番」
「えっと、うぅ、はい……」


 親友に「頑張れ~!」と意味深なエールを送られ、澤村くんと一緒に、文化祭のフィナーレを飾るフォークダンスの会場へと向かった。

 流行りのラブソングが響いて、鼓膜に届く。好きだとか愛してるだとかいうありきたりな歌詞は、恋をしている私の胸に届くには簡単すぎた。告白ソングだろうということは、聴いていれば分かる。伝えられない分、この曲をふたりで聴けている事実だけが救いだった。

「俺ら、当番なんて損だな。踊れないだろ?」

 澤村くんの低い声が、私の隣からきこえる。そう、私たちはこの曲たちを流す係だから、肝心のフォークダンスは踊ることができないのだ。


「さっ、澤村くんは……、一緒に踊りたい人いるの?」

 そんな質問くらいしてもいいだろう。それくらいは許してほしい。私の儚い恋心の隅にある、ちっちゃな疑問。勇気を出してそれを言葉にしたら、澤村くんははっきりした口調で「ああ」と答え


 そっかぁ。踊りたい人、いるんだなぁ。


「苗字は?」
「え!?」
「いるのか? 踊りたい人」
「……、いるよ」


 そう答えるだけで、口から心臓が飛び出るかと思った。ドキドキしてばくばくして、どうしようもないくらい澤村くんのことが好きだと実感する。叶わないのに、ばかだなぁ。


「じゃ、踊るか。俺たちも」
「え!?」
「次の曲流すまでの間くらい、いいだろ?」


 澤村くんに促されるがまま、手と手を合わせる。流れているラブソングは、最高潮の盛り上がりを迎えるサビの部分だ。好きだ、愛してるの歌詞と共に、私たちは踊った。秋の涼しい風が、火照った頬を撫でる。それでも熱は冷めないままで、身体がどうにかなってしまいそうだと思った。


「? あれ? 苗字、その手……」
「え? ……あ!」
「なんで俺の名前……」


 すっかり忘れていた。親友に書かれた『大地♡』の文字。手のひらにこびりついて消えない文字は、まるで私の恋心のようだ。その手のひらに秘めた恋心をばっちり見られてしまって、もう逃げ出したくってしょうがない。やだ、泣きそう。無理。無理すぎる。


 その瞬間、走って逃げ出していた。ラブソングはもうすぐラストを迎える。そんなところまで、私の恋と同じじゃなくてもいいのになぁ。力いっぱい走ったら、涙の粒が風に流されて飛んでいった。秋の匂いがする。きみとたくさん話した、大好きな季節の匂い。


 フォークダンスの音が止まる。真面目な彼はきっと、次の曲を流し始めるだろう。けれどもそんな予感は、あっさりと私を裏切ってしまった。


「苗字……!」


 もうすっかり聞き慣れてしまったその声に、はた、と足が止まった。嘘。追いかけてくるはずなんかない。係の仕事を放り出してまで、澤村くんが追いかけてくるはずなんかないのに。


 振り向いた瞬間、ぐっと腕を引っ張られて、視界が遮られた。彼の大きな腕に抱きしめられていると理解するまでに、数秒。一瞬何が起こったのか分からなかったけれど、ばくばくと胸が高鳴っているのだけは分かった。


「苗字のことが好きだ」


 低い声が降ってくる。嘘だ、と思った。信じられない。一番聞きたかった言葉を今、耳元で囁かれている。


「踊りたい相手、苗字だからな」
「嘘……」
「苗字は、誰なんだ?」
「……っ」
「踊りたい相手」


 声を絞り出そうとしたけれど、震えて上手く発音できない。私は澤村くんの制服をぎゅっと掴むと、その手のひらを開いて彼の目の前に付き出した。


「……すき」
「うん」
「さわむらくんが、すき」
「うん」


 今頃、鳴りやんでしまったラブソングにみんな驚いているだろうか。係の席にいない私たちのことを、誰かが噂するのかもしれないな。けれども今は、もう少しだけこうしていたい。


「あー、いっけね、フォークダンス……」
「ふふっ、戻ろうか?」
「ああ」


 ふたり手を繋いで歩きはじめた頃、次の曲が流れはじめた。きっと誰かが流してくれたんだろう。空は暮れはじめていて、秋の夜の匂いをつれた風が吹いてきた。少し寒いけれど、手のひらはとても温かい。


 握られた手のひらに書かれた想いを、私はもう言葉にして伝えることができる。この想いはきっと色褪せることはないだろう

back

北くんがキスしてくれない

 リップを変えてみた。制汗剤の匂いも変えた。夏だから爽やかに、けれども適度に女の子らしさは残して、主張しすぎないように。恋は女の子を、魔法のように変える。まあ、男の子の方は少しの変化には気づかないものなんだけど。

「今日暑いね」

「せやな」

 なんて会話は、普通のカップルそのもの。繋いだ手は互いに汗ばんでいて、雨上がりの空には虹が弧を描いている。乾きはじめたアスファルトに並ぶ影はふたつ。見慣れたバス停が近づいてきて、ああ、今日もここまでだ、と思った。

「気ぃつけて帰りぃ」

「うん」

 ほら、また。

 今日も北くんはキスをしてくれない。

 付き合いはじめて一年と少し。告白してオッケーを貰えた時はびっくりして泣いてしまったっけ。手を繋いだのは、それから少ししてのこと。一般的なカップルならば、もうキスをしていてもおかしくない。

 けれども彼は私の唇に触れてくれないのだ。リップを変えたのは三回目。色々作戦を練ってはいるものの、今日も負けのようだ。

「あ、あのね、北くん……」

 思いきって彼の制服の裾を掴む。整えられた夏服の生地が少しくしゃりと歪んで、それだけで彼のものになれたような心地に包まれた。これだけで満足。そう、これだけで。

「なんや?」

「えっと……、帰るの寂しいなって思って……」

「バス、次四十分後やろ? 帰りぃ」

「ですよね……」

 真っ直ぐに伸びた道路の先、ふたつ手前の赤信号に停まるバスの姿が見える。もう一度。もう一度だけと、北くんの夏服の裾をぎゅっと握り直した。頭上から、ふーっと息を吐く音がきこえる。ああ私、呆れられたのかな。

「これで勘弁しときぃ」

 え? と思って見上げた視線の先に、目を細めた北くんの顔がうつる。近づく。鼻先が触れる。唇を指でなぞられる。

 あ。来る。

 そう思った瞬間、自然と目を瞑っていた。委員会終わりで時間がずれたおかげで、バス停には誰もいない。そうだね、きみは人のいるところじゃ絶対にこんなことしない。

 唇と唇が触れる。初めてのそれは、熱くて、湿っぽくて、はちみつリップの味がした。

「……北くんって、キスとかしないと思った」

「俺かて男やし、……そういうの、したいに決まっとるやろ」

「そういうの、ってキスのこと?」

 ふと沸いた疑問を言葉にしたら、北くんはずるい顔をして。

「さぁ、どうやろな」

 そう言って笑った。

 到着したバスに押し込められ、北くんに見送られる。その顔は私より何歩も先を行く余裕のある顔で、私はただ顔を熱くすることしかできなかった。

 北くん、その言葉はずるいよ。

back