北さんと単身移住者3

 好きだよ、ずっと一緒にいようね。

 そう言った彼の温もりを、今でも覚えている。初めての旅行は沖縄。いっしょに選んだ琉球ガラスの風鈴は、鮮やかな瑠璃色だった。もう割ってしまったのに、他の風鈴を見るだけで思い出してしまう。なんだかなぁ。胸の奥が痛いや。

 どうして今でも、夢を見るのだろう。もう過去の人なのに。

 はっと目を覚ませば、飛び込んできたのは見慣れない天井。木目調のそれの中央で、消し忘れた電球がちかちかと点滅している。これは、入居前から付いていたものだ。LEDに替えよう。そんなことをぼんやりと考えながら、ひとつ伸びをして布団から這い出す。洗面所へと向かう途中で、床に置かれた段ボール箱にゴンとつまづいた。

 痛い、小指打った。あのクソ男の夢を見たせいだ。向こうはもう、私のことなんて忘れてるんだろうなぁ。

 朝の支度をさっさと済ませて、コーヒーを淹れる。頭は半分夢の中だ。朝は一杯のコーヒーがないと起きられない。豆から挽いた方がおいしいと教えてくれたのは元彼だった。

「あっ」

 豆をコーヒーメーカーに入れるだけの単純な作業ですら、寝ぼけた頭ではこなせなくなってしまう。軽量スプーンからこぼれたコーヒー豆を、リノベ済みキッチンのシンクに盛大にぶちまけてしまった。一瞬にして周囲がコーヒー豆だらけになる。

 んぁあ! もう! 私のブルーマウンテンが! この豆高いのに!

「はぁ……」

 溜息をついたのと、呼び鈴が鳴ったのは同時だった。日曜日の午前九時。こんな時間に誰だよ。こちとらまだ目も覚めてないというのに。

「はーい!」

「おはようさーん! 澤田やけど!」

 あんのジジイか。チッ。

 ジジイだから朝早いのはしょうがない。きっと朝早くから起きて、時間を持て余しているのだろう。ビーサンに足を突っ込んで、玄関の引き戸をガラリと開ける。朝一発に見るのがこのジジイの顔か、と思いつつ開いた扉の向こうには、ジジイともうひとり、知らない年配の女性が立っていた。

「おはようございます」

「姉ちゃん畑する言うてたやろ? ゆみえちゃん連れてきたから、色々教わり」

「はぁ……」

 ゆみえちゃん。確か畑に詳しい人を紹介するって言ってたな。どうやらこの女性がゆみえちゃんとやららしい。

「初めまして、苗字名前です」

「あらま、可愛らしい子やねぇ。北結仁依です。よろしゅうね」

「はい、よろしくお願いします」

 ニコニコ笑顔の女性は、ジジイと違っていい人そうに見える。早速畑を見せてほしいと言われたので、私はジャージにサンダルのまま畑へと向かった。昨日来たばかりだから、手入れもなにもしてないんだけれど。

「あらま、これは草取りが必要やな」

「ですねぇ」

「今植えるならニンジンとかキャベツ、秋ジャガイモなんかもええよ」

「夏野菜じゃないんですか?」

「育つまでに時間かかるから、今植えるのは秋野菜なんよ」

「なるほど」

 ゆみえさんは土を触ってみては、必要そうなものをメモしてくれているみたいだった。彼女の手元にあるメモ帳には、肥料だとか苗だとか、野菜の名前なんかが書かれている。うちの中から出てきた猫が、ゆみえさんの足元に絡みついた。ニャーニャー懐いている辺り、この人はやはりいい人みたいだ。そういえば、昨日の北くんって人が来ても愛猫は起きてこなかったな。あの人もいい人なんだろうか。

「台風来てるみたいやから、草取りは過ぎてからがええなぁ」

「そうなんですか? 今日刈ろうと思ってたのに」

「雨のあとの方が抜きやすいんよ」

「へぇ」

 女同士のトークを繰り広げていたところに、割り込んできたのは例のジジイだった。お前、まだいたのかよ。

「ところで姉ちゃん、信ちゃんに会うたやろ? どや? 男前やろ」

 信ちゃん? 誰だよ、それ。心当たりがなくて、首をかしげてみせる。「信ちゃん?」と問うてみたら、澤田のジイさんは得意げに口を開いた。

「ゆみえちゃんの孫や。昨日、カーテン付けてきた言うてたわ」

 ゆみえちゃん。北ゆみえさん。北。……もしかして、北くん!?

「えっ!? あ、もしかして北くんって」

「そ、うちの孫」

「まあ、確かに男前でしたけど」

「どや? ゆみえちゃんも早うひ孫の顔見たいやろ? なんなら仲取り持つで?」

「結構です。結婚願望ないので」

 ゆみえさんはいい人だし、北くんもまぁいい人なんだろうけど、生憎私にその願望はない。全ては澤田のジジイの願望でしかないのだ。丁重にお断りすると、澤田のジイさんは「ええと思うんやけどな」とブツブツこぼしていた。台風の予兆らしき風が吹いて木々を揺らす。澤田のジイさんの薄い髪の毛もゆらりと揺れている。

「そや、姉ちゃん地域おこしの委員会に入らんか? 信ちゃんもおるで」

「ハァ!?」

 そろそろこいつ帰るかな、なんて思っていたのに、澤田のジイさんから飛び出た言葉に思わず本音の言葉が飛び出る。地域おこし委員会!? ナンジャソリャ!? えっ、何それなんでいきなり!? そこまでして私と信ちゃんをくっつけたいの!?

 ゆみえさん、ヘルプ!

 そう思ってゆみえさんの方を見ると、彼女は満面の笑でこう答えた。

「ええな! 移住の人の意見は貴重やで! 若い子の意見も聞きたいしな!」

「せやろ!? ここん出身の若いもんだけやと、意見も偏るしな!」

「名前ちゃん! 是非お願いします!」

 キラキラした瞳でゆみえさんに見つめられたら、断ることなんて出来ない。うっ、ちょっと北くんに似てるかもしれない。いい人オーラ全開で見つめてくるゆみえさんに押されて、つい「はぁ……」なんて返事をしてしまう。

「決まりやな! 次の委員会は七日やから! 案内状出すわ!」

 なんて澤田のジイさんが続けて、ゆみえさんには握手をされた。あれ、何これ。なんか面倒なことになってない!?

「あの、私まだ……」

「やー! 姉ちゃんみたいな子が来てくれたら安泰やわ!」

「若い女の子もおるから安心してな! 信介にも名前ちゃんのことよろしく言っておくから!」

「はぁ……」

 どうやら二人とも、純粋な気持ちで私に地域おこし委員会に入ってほしいみたいだ。まぁ、仕事以外に予定もないし、いいんだけどさ。べつにいいんだけど! それと北くんの話は別だからね!

「で、信ちゃんどや?」

 なんて言ってきた澤田さんに、「結構です!」ときっぱり返した。本当興味ないから! お断りだから!

 ところがこの翌日、私はまたもや北くんと対面することとなる。今年一番の勢力を持つ台風が、関西地方に上陸した日のことだった。