好きだよ、ずっと一緒にいようね。
そう言った彼の温もりを、今でも覚えている。初めての旅行は沖縄。いっしょに選んだ琉球ガラスの風鈴は、鮮やかな瑠璃色だった。もう割ってしまったのに、他の風鈴を見るだけで思い出してしまう。なんだかなぁ。胸の奥が痛いや。
どうして今でも、夢を見るのだろう。もう過去の人なのに。
はっと目を覚ませば、飛び込んできたのは見慣れない天井。木目調のそれの中央で、消し忘れた電球がちかちかと点滅している。これは、入居前から付いていたものだ。LEDに替えよう。そんなことをぼんやりと考えながら、ひとつ伸びをして布団から這い出す。洗面所へと向かう途中で、床に置かれた段ボール箱にゴンとつまづいた。
痛い、小指打った。あのクソ男の夢を見たせいだ。向こうはもう、私のことなんて忘れてるんだろうなぁ。
朝の支度をさっさと済ませて、コーヒーを淹れる。頭は半分夢の中だ。朝は一杯のコーヒーがないと起きられない。豆から挽いた方がおいしいと教えてくれたのは元彼だった。
「あっ」
豆をコーヒーメーカーに入れるだけの単純な作業ですら、寝ぼけた頭ではこなせなくなってしまう。軽量スプーンからこぼれたコーヒー豆を、リノベ済みキッチンのシンクに盛大にぶちまけてしまった。一瞬にして周囲がコーヒー豆だらけになる。
んぁあ! もう! 私のブルーマウンテンが! この豆高いのに!
「はぁ……」
溜息をついたのと、呼び鈴が鳴ったのは同時だった。日曜日の午前九時。こんな時間に誰だよ。こちとらまだ目も覚めてないというのに。
「はーい!」
「おはようさーん! 澤田やけど!」
あんのジジイか。チッ。
ジジイだから朝早いのはしょうがない。きっと朝早くから起きて、時間を持て余しているのだろう。ビーサンに足を突っ込んで、玄関の引き戸をガラリと開ける。朝一発に見るのがこのジジイの顔か、と思いつつ開いた扉の向こうには、ジジイともうひとり、知らない年配の女性が立っていた。
「おはようございます」
「姉ちゃん畑する言うてたやろ? ゆみえちゃん連れてきたから、色々教わり」
「はぁ……」
ゆみえちゃん。確か畑に詳しい人を紹介するって言ってたな。どうやらこの女性がゆみえちゃんとやららしい。
「初めまして、苗字名前です」
「あらま、可愛らしい子やねぇ。北結仁依です。よろしゅうね」
「はい、よろしくお願いします」
ニコニコ笑顔の女性は、ジジイと違っていい人そうに見える。早速畑を見せてほしいと言われたので、私はジャージにサンダルのまま畑へと向かった。昨日来たばかりだから、手入れもなにもしてないんだけれど。
「あらま、これは草取りが必要やな」
「ですねぇ」
「今植えるならニンジンとかキャベツ、秋ジャガイモなんかもええよ」
「夏野菜じゃないんですか?」
「育つまでに時間かかるから、今植えるのは秋野菜なんよ」
「なるほど」
ゆみえさんは土を触ってみては、必要そうなものをメモしてくれているみたいだった。彼女の手元にあるメモ帳には、肥料だとか苗だとか、野菜の名前なんかが書かれている。うちの中から出てきた猫が、ゆみえさんの足元に絡みついた。ニャーニャー懐いている辺り、この人はやはりいい人みたいだ。そういえば、昨日の北くんって人が来ても愛猫は起きてこなかったな。あの人もいい人なんだろうか。
「台風来てるみたいやから、草取りは過ぎてからがええなぁ」
「そうなんですか? 今日刈ろうと思ってたのに」
「雨のあとの方が抜きやすいんよ」
「へぇ」
女同士のトークを繰り広げていたところに、割り込んできたのは例のジジイだった。お前、まだいたのかよ。
「ところで姉ちゃん、信ちゃんに会うたやろ? どや? 男前やろ」
信ちゃん? 誰だよ、それ。心当たりがなくて、首をかしげてみせる。「信ちゃん?」と問うてみたら、澤田のジイさんは得意げに口を開いた。
「ゆみえちゃんの孫や。昨日、カーテン付けてきた言うてたわ」
ゆみえちゃん。北ゆみえさん。北。……もしかして、北くん!?
「えっ!? あ、もしかして北くんって」
「そ、うちの孫」
「まあ、確かに男前でしたけど」
「どや? ゆみえちゃんも早うひ孫の顔見たいやろ? なんなら仲取り持つで?」
「結構です。結婚願望ないので」
ゆみえさんはいい人だし、北くんもまぁいい人なんだろうけど、生憎私にその願望はない。全ては澤田のジジイの願望でしかないのだ。丁重にお断りすると、澤田のジイさんは「ええと思うんやけどな」とブツブツこぼしていた。台風の予兆らしき風が吹いて木々を揺らす。澤田のジイさんの薄い髪の毛もゆらりと揺れている。
「そや、姉ちゃん地域おこしの委員会に入らんか? 信ちゃんもおるで」
「ハァ!?」
そろそろこいつ帰るかな、なんて思っていたのに、澤田のジイさんから飛び出た言葉に思わず本音の言葉が飛び出る。地域おこし委員会!? ナンジャソリャ!? えっ、何それなんでいきなり!? そこまでして私と信ちゃんをくっつけたいの!?
ゆみえさん、ヘルプ!
そう思ってゆみえさんの方を見ると、彼女は満面の笑でこう答えた。
「ええな! 移住の人の意見は貴重やで! 若い子の意見も聞きたいしな!」
「せやろ!? ここん出身の若いもんだけやと、意見も偏るしな!」
「名前ちゃん! 是非お願いします!」
キラキラした瞳でゆみえさんに見つめられたら、断ることなんて出来ない。うっ、ちょっと北くんに似てるかもしれない。いい人オーラ全開で見つめてくるゆみえさんに押されて、つい「はぁ……」なんて返事をしてしまう。
「決まりやな! 次の委員会は七日やから! 案内状出すわ!」
なんて澤田のジイさんが続けて、ゆみえさんには握手をされた。あれ、何これ。なんか面倒なことになってない!?
「あの、私まだ……」
「やー! 姉ちゃんみたいな子が来てくれたら安泰やわ!」
「若い女の子もおるから安心してな! 信介にも名前ちゃんのことよろしく言っておくから!」
「はぁ……」
どうやら二人とも、純粋な気持ちで私に地域おこし委員会に入ってほしいみたいだ。まぁ、仕事以外に予定もないし、いいんだけどさ。べつにいいんだけど! それと北くんの話は別だからね!
「で、信ちゃんどや?」
なんて言ってきた澤田さんに、「結構です!」ときっぱり返した。本当興味ないから! お断りだから!
ところがこの翌日、私はまたもや北くんと対面することとなる。今年一番の勢力を持つ台風が、関西地方に上陸した日のことだった。