北さんと単身移住者2

 さて、どうするかな。

 賃貸だけど好きにリノベーションしていいと言われている少し古い民家は、やはりところどころ傷んでいる。まずは掃除。おしゃれリノベは勉強しながら少しずつ進めていくとしよう。まずはカーテンをつけて、寝室を整えなければならない。それから、仕事部屋も。

 ぐう。鳴ったお腹の音に、そういえばお昼がまだだったなと思い出す。謎にキッチンだけリノベーション済みだったおかげで、自炊には困りそうにない。和風の民家には似合わないIH調理器の前で、ラーメンの袋をバリバリと開けた。真夏だというのに、窓から吹き込む風が涼しい。前の持ち主が吊るしたままなのであろう風鈴が、カランと音を立てた。

 元彼と、旅行先で風鈴づくりの体験をしたっけ。あの風鈴がどうなったのかを、忘れられるはずがない。浮気が分かったあの日に、割ってしまったのだから。

「ひゃ、麺伸びてる!」

 新居での初ご飯は伸びたラーメン。しかも水の分量間違えた。まあ、誰に食べさせるわけじゃなちからいいんだけどね。

 結局伸びたラーメンは半分残して、流し台に放置してしまった。休んでいる暇はない。これから夜までに、寝床を整えなければならないのだから。

 スポーツブランドのウェアに着替えて、まずは拭き掃除から始める。廊下と3DKの部屋全てを拭きあげて、軽自動車に積んできた布団を寝室まで運んだ。ベッドはネットで頼んであるから、明日には届くだろう。ものはほとんど捨ててきた。新しく生まれ変わるのだから、必要なものはぜんぶ新しくしたい。

 ちょっとだけ休憩しようと、居間の窓を開け放ったまま畳の上に寝転がる。い草の匂いが鼻をかすめて心地いい。うとうとと微睡みの渦に飲み込まれそうになる。あー、このまま眠っちゃおうかな。

「腹冷やすで? そんな寝方したら」

「!?」

 え、え!? 何か聞こえた!?

 さっきのジジイの声じゃない。もっと若い……、男性の声!?

 ガバリと身体を起こすと、窓の向こう、縁側に膝をつくようにしてこちらを覗き込む若い男性の姿が目に入った。

 ん? んんん!? どなた様!?

 私今、狐にでもつままれているのでしょうか!?

「驚かせたな。すまん。俺澤田さんに言われて来ました、北信介言います」

「澤田……? あー、さっきのジ……、大家さんのご友人の!」

「ひとりで引っ越しの片付けせなあなんから、手伝って来いって……、聞いてへん?」

「へ!? は、はぁ……」

 あんのジジイ。余計なことしやがって。

 そう思いながら顔を上げると、北くんとやらと目が合った。うわお、かなりのイケメンだ。ふっと優しく微笑まれたものだから、うっかりときめいてしまいそうになる。

「あの、荷物ほとんど通販で頼んでるので、掃除くらいしかすることなくて……。大丈夫です。ひとりでも」

「カーテンは?」

「……あ! 忘れてた!」

「脚立持って来たから、上がってもええ?」

「ど、どーぞ……」

 おっと、若イケメンを部屋に上げてしまった。北くんとやらが、「おじゃまします」と縁側から入ってくる。カーテンと留め具を手渡すと、パパッと手早くそれをつけていった。

 『北農園』と書かれた作業着は随分と暑そうなのに、この人が着ると爽やかに見えるのはイケメンだからだろう。器用な指先は、土がこびりついた跡がついている。農家さん、なのかな?

 マジマジと見つめているうちに、北くんはカーテンをつけ終わっていた。

「他の部屋のは?」

「あっ、こっちです! これ、カーテン……」

「可愛らしいなぁ」

 可愛……!?

 いや、いや、カーテンのことだから! 私のことじゃない。カーテンの柄のことだから! たぶん!

 熱くなる頬を手で仰ぎながら、北くんを寝室に招く。そこでも手早くカーテンをつけていった北くん。そのまたお隣の仕事部屋の分まで、手早くカーテンの設置を完了させてくれた。

「荷物、ほんま少ないなぁ。ミニマリスト?

っちゅーの?」

「違います! 心機一転したくて……、新しいものに買い替えちゃおう、って」

「へぇ、ええやん」

 そう言ってにこりと微笑まれたものだから、うっかりまたときめいてしまいそうになった。いや、ときめきました。すみません。

 いや! でも! 一瞬だから! 一瞬ときめいただけだから!

 絶対好きにならない! この人のことは!

「な、ひとつ、言うてもええ?」

「!? な、なんですか!?」

「流しのラーメン、片付けてもええ?」

「〜!?」

「気になんねん」

「きゃー! 自分で片付けます! 片付けるから!」

 キッチン周りに放置していたビニル袋を、北くんがひとつ取り出して底に穴を開けていった。なるほど、汁切りしてるんだ。その機敏さに見とれている間に、北くんはラーメンの残飯を処理して、もう一枚のビニル袋で厳重に密封していった。すっご。テキパキしすぎでしょ、この人。

「それからな、ズボンの紐伸びすぎやで?

ゴムも緩んどる」

「……!? きゃー! ルームウェアのままだった! ごめんなさい! こんな格好で!」

「ビニル袋取る時段ボール見たけど、中身バラバラやんな? あれやと必要なもの見つけられへんで」

「うっ……、す、すみません」

 えっ何この重圧!? 部活!? すっごい怖い女の先輩がこんな感じだった気がする。ま、彼女のことは尊敬してるし仲も良いんだけど。

 圧のある正論パンチ。けれどもイヤな感じはしない何かがある。なんだ、コレ!?

「俺、自分がきっちりせぇへんと、身体むず痒くなんねん」

「……? はぁ」

「せやけど、女の子はきっちりしてへん方が、可愛えなって思うわ」

「はぁ……」

「自分のこと言うてんねんけど」

「はぁ……、ん? え? えええ!?」

 何これ!? 何これ何これ!?

 もしかして私、口説かれてる!?

 や、そんなわけないでしょ、こんなイケメン。話出来すぎ。たぶんヤりたいだけ。絶対そう。男なんてみんな同じなんだから。

「ほな、俺は帰るわ。荷物も少ないみたいやし」

「あ、ありがとうございました」

「鍵かけるんやで? 田舎の男、可愛え子に慣れてへんから、襲われんようにな」

「かっ……!?」

 可愛い!? また可愛いって言った!? 言ったよね!? 今度はカーテンの柄のことじゃない。だって今、カーテンの話はしていないし。

「俺以外の男、同じようにホイホイ上げんようにな」

 ほな、また。そう言って北くんとやらは、車に乗って帰って行った。『北農園』と書いた軽バンが、ブォンと音を立てて坂道を下っていく。

 なに、いまの。な、な、なんか、可愛いとか言われた!?

 きっとあの人も、単身移住者が珍しいんだ。それと、ヤりたいだけ……、には見えなかったけれど。まあ、もう会うこともないかもしれないし、気にするのはやめた。私は一生独身を貫くのだから。そもそもあんなイケメン、きっと彼女がいるに違いない。

「あっ、鍵……!」

 北くんに言われた通り、表側の窓を閉めて、玄関の鍵をかける。飼い猫は眠ったままだから中にいるし、戸締まりして問題ない。磨りガラスの引き戸は少しガタついているが、鍵はしっかりかかるようだ。こんな田舎の一番奥地に来る人なんて他にいないんだろうけど、北くんの言うことは聞いた方がいい気がした。

『自分のこと言うてんねんけど』

「わーっ!」

 ふわりと揺れたドット柄のカーテンと、夏のにおい、蝉の声、四枚扉の大きな窓。流し台のラーメン。足元に置かれた段ボール。北くんの声が、顔が、はっきりと浮かび上がってくる。

 ゴムの緩んだスポーツウェアにヘアバンドで掻き上げた髪、半分以上剥がれたペディキュアが目立つ素足なんていう、とても人には見せられない格好をしていたというのに。彼は私のことを可愛いと言った。社交辞令なのかもしれないけれど。

「知らん! 忘れる! 片付け!」

 今恋愛をするなんていうことは、飛んで火に入る夏の虫。焼け焦げて、ぼろぼろになるに決まっているのだから。

 もう恋なんてしない。

 誰かに恋することなんてないだろうし、相手から来られても絶対に乗らない。仕事とちっぽけな趣味と、飼っている猫さえいればそれでいい。

 この時の私は知らなかった。それが、運命が動き出した瞬間だったことを。