火星の裏側で抱きしめて13

楕円の軌道に乗ってⅡ

『今夜、火星大接近』

 リビングに置いてあった新聞の記事を、つい食い入るように見てしまう。

 七月三十一日。研磨くんとの約束の日になった。テストは全部終わり、お互い追試の連絡もない。成績表が送られてくるまで油断は出来ないけれど、たぶん大丈夫だろう。

 火星が最接近するのは夕方四時頃だけれど、その時刻は日没前だ。関東での見頃は夜の九時頃だそうで、八時から配信をはじめる予定だと聞いている。窓の外を見ると天気は快晴。今日も猛暑日になりそうだ。

 研磨くん、なんでこんなに暑いの……、ってまた眉間に皺を寄せているのかな。なんて、数時間後には会える彼のことを考えた。この日のためにと珍しく塗った赤色のネイルが光る。その爪で、スマホの画面をタップした。

 普段はネットニュースはあまり見ない。なのにそれを開こうとしたのは、火星大接近の話題をもっと知りたいと思ったからだ。

 友達に勧められて登録したままほとんど開いていないSNS。久々にそのアカウントにログインして、話題のトピックを検索する。正直、沢山情報を得たい時はこれが便利なんだよね。あまり馴染めないけれど。

 私が目を見開いたのと、友人からのメッセージが届いたのは同時だった。ピロン、と情けない通知音が響き、開いたトレンドの上部に友人からのメッセージが流れる。心臓がいやな音を立てて、それがどんどん大きくなっていく。

“コヅケン、トレンドに上がってんじゃん ‘’

 どくん。どくん。胸の音がうるさい。恋に焦がれている時のそれじゃない。いやな時の方だ。

 恐る恐る、SNSのトレンドをタップする。

『コヅケン 裏チャンネル』

 反応の多い投稿が並んでいる画面を、ゆっくりとスクロールした。

 何、これ。今、何が起きているの?

『これってコヅケンの声に似てね?』

『コヅケンじゃんこれ』

『チャンネル登録者少なww』

『憶測でものを言うのはやめようよ』

『コヅケン公式にリプしてるアホがいる』

 これって、『火星の裏側』のチャンネルだよね? どうしてコヅケンと火星の裏側さんが同じ人物だって、拡散されているの? だって、その秘密を知っているのは私だけなのに。

 最初に発信されたでたろう投稿が、どんどん拡散されていく。画面を何度も更新しているうちに、エンタメニュースにも取り上げられてしまっていた。

 友人からのメッセージが続々と届く。

“大丈夫?”

“ニュース見たよ! 心配”

 急いで動画配信サイトの、『火星の裏側』のチャンネルを開く。最近は配信されていなかったはずなのに登録者がどんどん増えていって、数分後に急に画面からそのチャンネルが消えた。

『非公開または削除されたチャンネルです』

 急いでまたSNSで検索をする。こんな風に、リアルタイムの情報を追うのは初めてだ。慣れないけれど、彼の『今』を知らなければならないと思った。画面をスクロールして、最新の表示にする。

『火星さん消えた』

『削除されたって本人じゃん』

『ちょ、コヅケンがつぶやいてる』

『コヅケンからのコメントキタ!』

 画面をもう一度更新する。そこには『KODZUKEN』公式からのお知らせが動画で投稿されていた。

 どくん、どくん。身体が真空空間に飛んでしまったかのように、鼓動がうるさい。開きたくないと思った。開きたくなかった。けれども指は止まることを知らない。

 いま、私たちの秘密が終わる。

『こんにちは、KODZUKENです。今回は火星の裏側の件でお騒がせしてしまい、誠に申し訳ございません』

 なんで、彼が謝る必要があるの? 公表せずに、他のチャンネルを持っていたから? 先ほど、ファンを裏切ったという投稿を見かけた。彼はそんな人じゃない。そんな人じゃないのに。

『火星の裏側は僕の別名義のチャンネルです。素顔を隠して配信していたことをお詫び申し上げます。火星の裏側のチャンネルは削除することに致しました。また、コヅケン単独のチャンネルを1か月ほどお休みさせていただきます』

 なに、これ。……なに、これ。

 これは、研磨くんの本音? どうしてコヅケンのチャンネルもお休みするの? 彼の投稿に、どんどんコメントがついていく。

『どっちもやめたら』

『ゆっくり休んでください! いつまでも待ってます!』

『本当にファン大事にしてるなら公表しとけよって思う』

『どんな顔でもコヅケンはコヅケン! 待ってるよ!』

 音楽はあまり聞かない。お笑い番組も見ないし、みんなが見ている動画もほとんど見ない。ゲーム実況なんてもってのほか。

 そんなだった私は、今は動画を見るようになった。それはたぶん、きみのおかげ。まだネットには詳しくないし、SNSなんてもっと分からないけれど。

 研磨くんの力になりたい。そう思ったんだ。

 ピロン、とスマホの通知音が鳴る。差出人は研磨くんご本人。絵文字なしのシンプルな文で綴られた文面を見たら、涙が止まらなくなった。

『ごめん、迷惑かける。『青い星』さんのせいじゃないってこと分かってるから。俺は大丈夫』

 たった三行のそれが、彼からのヘルプ信号のように思えた。

ーー自分が二人いるってどういう感じか分かる?

 あの時確かに、彼はそう言っていた。

 ああ、もう。こういう時、どうすればいいんだろう。恋愛経験はゼロ。恋愛なんて興味ないし、彼氏なんていらない。そんな私だったから、解決方法が見つからない。友達だって少ないと思っていた。

 ねぇ、みんな。こんな私だけれど、友達って呼んでもいい?

 気がついたら、大学の友人のグループトークに発信をしていた。

『えっ、星羅から電話!?』

『ちょっと、星羅大丈夫!? コヅケンのことでしょ?』

『私らでいいなら話聞くよ!』

 友人全員がすぐにグループ通話に出てくれて、ああ、ちゃんと私のことを友達と認識してくれてたんだなぁって、また涙が出た。

「ぐすっ、ひくっ」

『ちょ、泣いてんの!? 大丈夫!?』

『マジか! そんなにコヅケンのこと好きだったの!?』

「ひっく、うえぇ、……うん、大好きぃ」

『分かってたよ、星羅がガチ恋してんの』

『それ本人に言いな?』

『星羅は知ってたんでしょ? それって、特別な存在だからだと思うよ!』

『コヅケンのとこ行って来なって! ついて行こうか?』

「ひっく、っく、みんな、ありがとう……っ」

ーーきみの好きな星は何?

 初めて会った日に交わした言葉、新緑のにおい、生ぬるい風。重力が消えてしまったかのように、持ち上げられたトートバッグ。あの日から、私の世界は回りはじめた。

 ふたりで見上げた星空。地球、綺麗。そう言ってくれたこと。繋いだ手の熱さ。火星の裏側まで、本気で飛んでしまいそうだと思った。

 二度目に見たのはおとめ座のスピカ。ごめん、他の星の名前は覚えていない。きみばかり見ていたから。好きなタイプは地球人。そう言ったきみは『火星の裏側』じゃなくて、『KODZUKEN』でもなくて、『孤爪研磨』だったよね。

ーー自分が二人いるって、どんな感じか分かる?

 分かるはずもない。だって私はたったひとりしかいないのだから。私はユーチューバーじゃないし、動画だってそんなに見る方じゃない。きみとは違う軸にいる。そんなの当たり前。

 ねぇ、今夜さ。軌道の違うふたつの星が大接近するんだよ。そんな日に奇跡が起こらないと思う?

 きみに出逢って私の世界は回り始めた。だから、今度は私がきみを。

「私、研磨くんに会ってくる」

 ねぇ、研磨くん。きみは今どこにいる?

 もしかして、火星の裏側にでも隠れているのかな?

 もしそうだとしても、私が会いに行くよ。今なら、空だって飛べるから。大気圏を超えて迎えに行くよ、きっと。

 火星の裏側にだって行けると、信じているから。