カラン、と鳴ったのは脳の奥か、胸の底か。
たしかにその瞬間、私の初恋が終わった音がした。
◇
「クラスの子が、研磨のこと気になるから連絡取りたいんだって」
きっと彼は断る。その自信はどこから来たものだったのだろうか。それはたぶん私が、昔から彼のことをよく知っているからだ。
めんどくさいとか、そういうのいいとか、または無視を決めるとか。思考の中で完成していた流れが、こうもあっさりと違う方向に行ってしまうものなのかと、自分の浅はかさにうんざりする。
「いいけど」
届いた言葉を理解するまでに、時間はかからなかった。それなのに次の言葉がなかなか出てこなくて、彼をいらつかせてしまったんじゃないかと思う。「それで? どうすればいいの?」と催促されるくらいには。
携帯電話を触る手が震えたのは、寒さのせいだろうか。曇天の下、かじかむ指を動かす。冬は苦手だ。
「研磨も彼女出来ちゃうかもね」
そう言ったら、「そうかもね」なんて返ってきて、最初の言葉を伝えたことを後悔した。どうせ私はただの幼馴染。ずっと研磨のことが好きだった。けれども、彼が私に好意を見せることなんて一度もなかった。諦め時なのかもしれない。
「アドレス送ったから、研磨から連絡とってあげてよ」
「わかった」
彼が面倒くさがりそうな言い方をあえてする辺り、性格がねじ曲がっていると自分で思う。せめてもの抵抗。それなのに研磨は、私の意思に反した態度をみせる。そういえば、鉄朗が『研磨もわりと普通の男』って言っていたっけ。鉄朗の方が、彼のことをよく分かっているらしい。
私の十七年間、何だったんだろう。
カラン。
あー、そっか。
私の初恋は、終わったんだ。
◇
「△△くんが名前と連絡取りたいんだって」
「は」
研磨とあの子が連絡をとり始めて間もなく、私にも浮かれ話が舞い込んだ。諦め時かな、って感じていたところにそういう話が来たものだから、迷わずイエスと答えておいた。
私も、彼氏出来るのかもな。そういうのもいいのかもしれない。
デートをしたり、記念品を祝ったり、プレゼントを交換したり。普通の女子高生が、当たり前のようにしていることだもの。憧れはある。いいな。彼氏。
それからふた月。
そうしてその憧れは、形となった。
◇
「ちょちょちょ、何してくれてんの」
物凄い形相の鉄朗がうちに駆け込んできたのは、三年生が卒業したばかりの暖かい日のことだった。おいおい。思春期女子の部屋に勝手に上がり込むんじゃないよ。
「何のこと」
「名前彼氏出来たって!?」
「うん」
「えっと、それで、研磨にも彼女出来たって!?」
「みたいだね」
「てっきり俺はお前らがくっつくとばかり」
黒尾先輩って、落ち着いてて大人の男って感じだよね。そう言っていた友人に、今の彼の姿を見せてみたい。慌てふためいている鉄朗は、なんだか滑稽だ。
「私だって人並みに恋愛してみたいし。ちゅーとかしてみたいし。早く処女捨てたいし」
「処!? ちょちょちょ、それはいけません」
「いーじゃんそれくらい」
「こらこら、それくらいとか言わない!」
はー、そうか、とため息をつく鉄朗を横目に、彼氏から届いたメールの返信を打ち込む。好きだよ、なんて送られてきたら、私もって送るしかないよね。恋人同士なんだし。
まだ自分の気持ちはよく分からないけれど、いやじゃないし楽しいから、好きと言ってもいいのかもしれない。研磨を想っていた頃とは違う感情だけど、恋愛の形はひとつじゃない。これもひとつの恋の形なんだろう。
「用事それだけ?」
ちょっと冷たかったかなと思うけど、鉄朗の言動はおせっかいでしかない。睨みながらそう言ったら、鉄朗はのそのそと帰って行った。
私たちがくっつくとばかり思ってたって、何それ。そんなはずないのに。だって研磨は、私のことなんてどうとも思っていないでしょう? そんなの、自分が一番よく分かっている。
それから、鉄朗が卒業したこともあって、私と研磨が会話する機会はゼロに等しくなっていった。私は彼氏といっしょに過ごすことが多くなったし、研磨が彼女ちゃんと一緒にいる姿も見かけるようになった。
時々ちくりと胸が痛むけど、知らないふりをした。諦めたんだし、気にしないようにしないと。私にも彼氏がいるんだから。
春の暖かさは、胸の痛みを和らげてくれるような気がした。初恋が終わったあの日、あの感情は寒さがそうさせたもの。きっとそんなものなんだろう。
◇
「今日俺んち来れる? 誰もいないんだけど」
そういうことが頭になかったのならば、どれだけ純粋なのだろう。付き合うイコールいずれはそうなるってことが、分からないほど子どもじゃない。その誘いに乗ってついて行ったのは、私にもその気があったから。
これで完全に、私は彼の女になる。研磨のことが一瞬頭をよぎったけれど、これで忘れられると思った。完全に初恋にさよならできると思った。
なのに、なんでかなぁ。
キスまでして、あとちょっと、体に触れられる寸前のところで「ごめん」と拒んでしまったのは。
「なんで」
「別れよう」
「じゃあなんでついて来たの?」
「ごめん……」
最低だ。
私は研磨を忘れるために、彼を利用したんだ。こんな女、誰にも愛される資格なんてない。
春の雨は、やさしくて少しだけ冷たい。研磨みたいだな。こんな時にも初恋の人を思い出して、自分の単純さに呆れてしまう。
これは、呪いだ。
初恋という名の、呪い。
研磨が私に振り向くことなんてないのに、いつまでも執着してしまう、そんな呪いなんだろう。きっと解き放たれる日は訪れない。
現実はいつも冷たくて、残酷だ。
傘もささずにたどり着いた自宅の横、研磨の部屋の窓をぼんやりと見つめる。生まれた時からずっと一緒だった。鉄朗が来た日も、ふたりがバレーボールを始めた日も、研磨が私の身長を追い抜いた日も、ぜんぶ覚えている。
好きなのに、こんなに好きなのに。叶うことのない初恋。
笑ってしまう。
なんで好きになったのかなぁ。
「体は大丈夫?」
「うん。今日は嬉しかった。ありがとう」
低気圧と歪んだ思考回路は、人の気配を察する能力をも奪う。研磨の家の玄関先に現れたのは、ふたつの影だった。見たくないのに、体が動かない。
それは一番見たくないシーンだった。研磨とあの子が、ふたりきりでいるところなんて、今の私には残酷すぎる。
嬉しかったって、なにが?
ふたりきりで何をしていたの?
こんなところを見てしまったら、もう幼馴染でもいられない。
「またね」
私がいることに気がついたのか、あの子がそそくさと帰っていく。すれ違った瞬間、研磨の家の香りが漂った気がした。
私、今どんな表情をしている? 分からない。分からないけれど、研磨の姿を見ていたかった。
この醜い感情を、どうにかしてよ。
これ以上、いやな女になんてなりたくないよ。
真っ白な初恋が、真っ黒に染まっていく気がした。
「なんで泣いてんの?」
彼に話しかけられているのだと気がつくまでに、数秒。春の雨は音も立てずに、ゆるやかに降り注ぐ。やさしくて少しつめたい、あなたみたいな雨だ。
「え……?」
「名前、泣いてるけど」
「あ……、え、嘘……」
泣くつもりなんてなかったのに、どうして泣いているんだろう。泣いてることを自覚したら、ぼろぼろと溢れてとまらなかった。
「か、か、彼氏と別れた……」
「!? なんで!?」
「……忘れられない初恋が、……あるから」
「ちょ、名前、濡れるしとりあえず中入ろう」
「やだよ」
「入りなよ」
研磨の手が、私の腕をぐぐっと掴む。いつの間に、こんなに力が強くなったんだろう。昔は私の方が強かったのにさ。呆れるほどに、彼のことを男の子として意識してしまう。
でもきみは、あの子なんでしょう?
嫉妬してしまう自分がいやになる。それでもまだ、狂おしいほどにきみのことが好きだ。
「う〜、だってさっきまで研磨あの子と部屋でえっちなことしてたんでしょ? そんな空間入りたくない!」
「は!?」
「研磨のことが好きで好きでしょうがないよ〜! もうやだ! これ以上嫉妬させないで!」
流れを堰きとめていた川のように、溢れた想いはとまらなかった。この気持ちを伝えてしまったら、元には戻れない。ただの幼馴染ではいられない。分かっているはずなのに、自然と想いは言葉に変わる。
こんなふうに、子どものように泣きじゃくったのはいつぶりだろうか。ばかだなぁ、本当に。
「してない!」
「……え?」
私の腕を掴んでいた研磨の力が、もっと強くなる。彼は視線をすこしそらして、けれども時折私の顔を見ながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「え、えっちなこととか、してないし……。ていうか、今別れたところ。別れ話しに来て、向こうが体調崩して、ちょっと休んでもらっただけ」「だって……、ありがとうって……」
「話聞いてくれてありがとうってことでしょ」
「は……? でも、なんで別れ……」
そこまで聞いたところで、研磨はにっと笑って、「忘れられない初恋があるから」とつぶやいた。あー、私の好きな、大好きな研磨の笑顔だ。
「中で話そう」
「待って、待って待って!」
「待たない」
手をぎゅっと握られて、研磨の部屋に連行される。久々に入った部屋は懐かしい匂いがして、ここにあの子を入れたんだと思うとまた胸の奥がきゅっと締めつけられた。まだ嫉妬しているなんて、本当にどうにかしてる。
「部屋には入れてないから」
「そう……なの?」
「名前は?」
「え?」
「名前は、あいつとどこまでしたの?」
あいつ、と言われて一瞬誰のことだか分からなかった自分が、本当にばかで単純で相手に申し訳なくなる。私なんかと別れて正解だよ。自分勝手すぎるけど、さっさといい子を見つけて幸せになってほしい。
「な、なにもしてないよ……」
「キスは?」
「……ごめん、それはした」
「じゃ、消毒ね」
研磨の声と同時に唇を塞がれて、何が起こっているのか分からなくなる。胸の奥が不規則な音を立ててうるさい。身体が心臓になってしまったみたいだ。
なんで。
なんで今、研磨が私にキスしてるの?
「なんで私たちキスしてるの?」
「分かんないの?」
「わ、分かんない」
「じゃ、分かるまでする」
ちゅ、ちゅ、っと何度もキスを繰り返されて、頭が真っ白になる。わけが分からない。こんな甘いキスしらない。爆発しちゃいそう。
ぷはっと息継ぎした瞬間に、「おれの初恋はナマエだよ」なんて聞こえてきて、そこで初めて今置かれている状況を理解した。思考が追いつかない。私には、ただの一度もそんな感情抱いていないと思っていたのに。
「もっとちゃんと言わないと分かんない……」
「好きだよ、ずっと」
「じゃあなんで彼女作ったの」
「ばかだから。でも名前もばかだから、ホイホイ他の男の部屋についてかないで。焦った」
「知ってたの?」
「おれ、だいぶ嫉妬深いよ?」
研磨もわりと普通の男。鉄朗がそう言っていたことを思い出す。
それって、私に対してってことなの? 自惚れていいの?
こんなの、現実だと思えるわけがない。
「……私ね、処女捨てたいって思ってたんだ」 「!?」
「でも無理だった」
「そんな簡単に捨てちゃだめだよ」
「よかった、研磨のためにとっておいて」
「……やめて、そんなこと言われたら襲いたくなるから」
「いいよ?」
「は!?」
「研磨ならいいよ」
キスのせいで密着したままの身体があつい。沸騰してしまいそうだ。雨に濡れたせいで服と服がひっついて、でもそれすらもすぐかわいちゃいそうなくらい熱くって。部屋の中は湿気で溢れていて。私たちの視線は、自然と重なった。唇と唇が近づく。あ、もう一回キスをするのかな。
階段を猛ダッシュで駆け上がる音が聞こえてきたのは、その時だった。この足音は、……あいつだ。私たちを見守ってくれていた、もうひとりの幼馴染の存在を思い出す。
「研磨! 名前! どうなった!?」
パン! と扉が開いて、思わずひっついていた身体が飛び跳ねてしまう。
「鉄朗……、いま、めっちゃいいとこ」
「なんでクロが出てくるの……」
どうやら鉄朗は、玄関前でもだもだしていた私たちを見かけて、どうなったのか気になってしょうがなかったらしい。私がなかなか出てこないので痺れを切らして突撃した、というところだ。なんてタイミング。タイミングはアレだけど、泣いて喜んでくれたから良しとしよう。
「研磨が私のことめちゃくちゃ好き愛してる抱きつぶしたいって!」
「そんなこと言ってない……」
「へー、あの研磨くんがねぇ」
初恋は実らない。
こんな言葉を口にしたのは誰だったっけ。そんなのは信じない。これからはもう、素直に気持ちを伝えることが出来るから。
あの日音を立てたのは、脳の奥か、胸の底か。分からないけれど、初恋が終わったというのは大きな勘違い。この初恋はきっと終わることを知らない。だいじな、私の初恋。いや、私たちの初恋だ。
カラン。
今日も私の身体は、彼に焦がれて不思議な音を立てる。