世の中には嘘をついていい日が存在するらしいと、そのくらいの知識は私にもあった。けれどもその知識が彼にもあるものだとは、到底思えなかった。だって彼は、冗談で笑いをとるような性格 じゃないのだから。
だからこそ、私は嘘をつくことを決めた。彼ならきっと嘘だとは気がつかない。私たちのこの微妙な関係に終止符を打つのか、逆に改善されるのか。賭けてみるしかなかった。
聖臣くんと付き合いはじめて二年が経つ。彼は淡白な方だとは思うけれど、それでも私を甘やかしてくれるし、私だけは特別だと信じていた。けれども倦怠期というものは訪れるもので、今がまさにそれだ。元々そっけない彼が、最近さらにそっけないような気がする。近ごろの私は、彼が本当に自分のことが好きなのか疑うようになっていた。
窓の外に舞う桜の花びらを見て、ふう、と溜息をつく。ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいる聖臣くんの方をちらりと見て、「あのね」と第一声を発した。
どきどきした。どういう返事をされるのか、怖くてしょうがなかった。けれども私は嘘をつく。この行き場のない不安を、打ち消すために。
「何」
「あの、えっと……」
「……」
コーヒーを飲む彼の喉仏が、こくりと揺れる。じっと見つめられたので目をそらして、言葉を吐き出した。
「に、に、……妊娠したみたい」
カレンダーの日付は四月一日。前の生理からちょうどひと月経つ頃なので、巧妙すぎる嘘だ。彼は本当に私との将来を考えてくれているのだろうか。ちゃんと好きでいてくれているのだろうか。ドキドキしながら顔を上げると、表情を変えずに無言で私を見つめている聖臣くんと目が合った。彼は何も言わない。
沈黙がその場を支配する。私のことなんてもう好きじゃないのかもな、なんて、頭の半分を埋めていた『不安』が、大きく強く広がっていく。沈黙を打ち消したのは彼の言葉でも私の言葉でもなく、自分の目から流れる涙だった。
ぐすっ、と鼻をすする音が、先程まで静かだった空間を包んでいく。もうやだ、逃げたい。こんな嘘までついてばかみたい。
彼の声が聞こえたのは、その時だった。
「何で泣いてんの」
「ごっ、ごめんなさ…っ…」
ああ、もう、振られるの確定だな。そう思った次の瞬間、立ち上がった聖臣くんが私の方に向かってくるのが分かった。いやだ。振られたくない。そう思った次の瞬間、温もりが私の身体を包んだ。抱きしめられている、と意識する前に唇に降ってくる熱。
「ごめん」
そう囁かれて、もう一度強くキスをされた。
あれ? 私振られるんじゃないの? なんでキスされているの?
今の状況が飲み込めなくて、キスに上手く応えることも出来ない。
「嘘つかせるほど不安にさせてごめん」
「!?」
「もう分かるでしょ」
さらに強くぎゅっと抱きしめられて、またキスを繰り返される。あー、聖臣くん。嘘だって分かってたんだなぁ。聖臣くんの方が、私のこと理解しているみたいだ。
「言わないと分かんない」
ねだるように目線を上げて彼の方を見たら、照れくさそうな顔で約束の言葉を囁かれた。私の姓が変わるのは、その少し後のお話。